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  作者: しゅう


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想像の根源1

思えば、あの場所で私が扱っていたのは、死んだ言葉ばかりだった。

朝から晩まで、ディスプレイに向かって打ち込むのは、誰が書いても同じになる無機質な報告書や、責任の所在を曖昧にするための婉曲的なメール。感情を排し、個性を殺し、ただ組織という巨大な歯車を円滑に回すための潤滑油。それが私の「言葉」のすべてだった。

会議の場では、声の大きな誰かの意見をなぞり、波風を立てないための相槌を打つ。自分の喉の奥まで出かかった本音は、その都度、苦い唾液とともに飲み込んできた。そうして「正しい」として振る舞えば振る舞うほど、私の中の「生命力」は、出口を失ってよどんでいった。

トラブルが起きたとき、私を守ってくれる言葉はどこにもなかった。突きつけられたのは、冷徹な規定と、保身のために塗り固められた嘘の数々。昨日まで肩を並べていた同僚たちの言葉さえ、霧散するように遠のいていった。


最後の日、デスクを片付けながら私が感じたのは、怒りよりもむしろ、深い虚無だった。これまで数え切れないほどの文字を綴り、何万回と声を出しながら、私は結局、自分自身の言葉を一度も発していなかったのではないか。

ハローワークの無機質な椅子に座り、自分の経歴を記号化していく作業は、その「言葉の死」の延長線上にあった。住所、氏名、年齢。それらは私を構成する一部ではあるが、私という命を何ひとつ説明してはくれない。

自分の名前さえ、自分のものではないような感覚。

窓口で受け取った番号札は、もう三十人以上も先を示していた。待合室に漂う、独特の重苦しい空気。空調の音と、時折響く職員の事務的な声だけが、無機質な空間に溶けていく。

生命体としての自分は、今、ここに座っている。履歴書の書き方を調べ、次の職を探し、生活の糧を得るために。だが、心の中はどうしようもなく空っぽだった。何のために生き、何のために働くのか。自分という「生命体」を動かしていた「生命力」が、どこかでぷつりと切れてしまったような感覚。


肺に吸い込む空気までが熱を帯び、呼吸をするたびに喉の奥がちりちりと焼けるようだった。

道端の植え込みでは、枯れかけた紫陽花が茶色く変色し、救いのない渇きを晒している。ふと視線を落とすと、アスファルトの隙間から這い出した蟻が、逃げ場のない熱に追われるようにせわしなく動いていた。その小さな命の足掻きさえ、今の私には無意味なものに見え、胸の奥に嫌な重みが溜まっていく。

ネクタイを外した首筋をなぞる汗は、拭っても拭っても止まることを知らず、生ぬるい不快感だけを残していく。街を走る車の排気音が、熱せられた空気の層で増幅され、鼓膜を執拗に揺さぶる。

「何をしているんだろう、俺は」

反射的に零れ落ちた独り言は、誰に届くこともなく、陽炎の中に溶けて消えた。

周囲の景色が白く飛び、現実感が希薄になっていく中で、自分の輪郭だけがこの熱気に焼き付けられているような、奇妙な孤立感があった。重い革靴がアスファルトを叩くたび、足の裏から伝わる熱が、私の存在を無理やりこの世界に繋ぎ止めていた。


この小さな市では、どこへ行っても誰かの視線があるような気がしてならない。シャッターの降りた商店街、色褪せた看板。かつての同級生や、以前の仕事の関係者に会いはしないかという強迫観念が、歩幅を狭くさせる。私はわざと人通りの少ない裏道を選び、埃っぽい街角を足早に通り抜けた。


自販機で買った冷たい缶コーヒーは、喉を焼くような暑さの前では一瞬の慰めにしかならなかった。ぬるくなった液体を飲み干すと、さらに孤独が深まった。


信号待ちの列に並んでいると、隣を足早に通り過ぎるスーツ姿の会社員たちの靴音が、やけに鮮明に聞こえた。彼らには帰るべき場所があり、果たすべき役割がある。一方の私は、この陽炎の中に溶けて消えてしまいそうなほど、存在が希薄だった。

眩暈めまいに似た感覚。この灼熱の荒野に、私はどうやって自分を刻めばいいのか。


這うようにしてアパートへ帰り着き、鍵をかけた瞬間の静寂だけが、唯一の救いだった。エアコンもつけずに、薄暗い部屋の床に座り込む。

カバンの中から、道中の書店で手に入れた一冊の時代小説を取り出す。表紙の手触りはさらりとしていて、現実の湿気とは無縁だった。

ページをめくる。

そこには、今いるこの部屋とは違う風が吹いていた。凛とした武士の佇まい、あるいは泥臭くも懸命に生きる町人たちの鼓動。文字を追うごとに、私の内側の何かが、乾いた砂に水が染み込むように震え始めた。


読み終えた後、私は自然とスマートフォンを手に取っていた。

検索窓に指を滑らせ、「小説」という言葉を打ち込む。

辿り着いたのは、数多あまたの素人が物語を投稿しているサイトだった。

画面をスクロールする指が止まらない。

プロが書いた完成された世界ではなく、剥き出しの感情や、いびつでも力強い「声」が、そこには溢れていた。


会社員という肩書きを失い、社会的な「生命体」としての自分は死にゆく運命にある。だが、その死の縁で、想像の根源へと繋がる回路が、音を立てて繋がったのだ。

ネット小説の海を漂っていると、時間の感覚が溶けていく。

かつての職場という組織という強固な中に押し込められ、圧殺された個人の生命力が、歪んだ形で爆発した結果だった。だが、今この小さな部屋で、見ず知らずの誰かが書いた物語に触れていると、かつての自分が無視してきた感覚が蘇ってくる。


画面の向こうには、私と同じように現実の理不尽に耐え、あるいは打ちのめされながらも、必死に自分の世界を立ち上げようとしている「生命力」が満ちていた。

私は、ふと自分のてのひらを見た。

ハローワークで番号札を握りしめ、汗ばんでいたあの手。履歴書に、嘘ではないが本当でもない自己PRを書き連ねるための手。だが、この手には、まだ別の役割があるのではないか。

自分の中の「二重構造」が、急速にその解像度を上げていく。

一方には、職を失い、空梅雨の熱気に喘ぎ、明日への不安に怯える「生命体」としての男がいる。そしてもう一方には、それら全ての苦渋や焦燥を「素材」として見つめ、新しい形に組み替えようとする、冷徹で、かつ燃え盛るような「生命力」の核がある。

自分の惨めささえも、物語の一節として慈しむことができる。


夜は深まり、外の蝉の声もいつしか止んでいた。

部屋の温度はまだ高いままだが、私を支配していたあの「重苦しい暑さ」は、いつの間にか、形を持たない「創造の熱」へと変換されていた。

私は、長い間眠らせていた古いノートパソコンを、埃を払うようにして引き寄せた。それはかつて、仕事の持ち帰りのために使っていた道具だ。効率と義務の象徴だった機械。だが今は、世界への扉に見える。

椅子に深く腰掛け、背筋を伸ばす。

自分の中の「想像の根源」へ、意識を深く沈めていく。

心臓の鼓動と重なった。

指先を伸ばし、電源ボタンを押し込む。

微かな機械音が静寂を破り、漆黒だったモニターが、一気に青白い光を放った。

暗い部屋の中に、四角い光の窓が浮かび上がる。

その光は、私の瞳を射抜き、これまでのよどんだ過去をすべて白く塗りつぶしていくようだった。

画面の中央で、カーソルが規則正しく点滅を始めた。

まるで、「早く私を、言葉で埋めてくれ」と、世界そのものが呼吸しているかのように。

私は、その光の中に、最初の一文字を投じる準備を終えていた。

読んでいただきありがとうございます。

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