器の工房4
神田の空が、夜明けの群青から淡い茜色へと溶け始めていた。
一年前、大観和尚が初めてこの工房を訪れたあの夏の日も、同じような朝だった。あの時は、軒先に吊るされた風鈴がチリンと涼やかな音を立て、朝顔の蔓が露を孕んで瑞々しく輝いていた。江戸の町が放つ活気と、若葉の匂いが混じり合う、生命力に溢れた朝。
だが、今この工房を取り巻いている空気は、あの日の軽やかさとは正反対の、重厚で、峻烈な「氣」に満ちていた。
工房の前の通りには、夜明け前の冷気の中、幾重にも人だかりができていた。数時間前まで神田の空を引き裂いていた、あの魂を削り取るような凄絶な槌の音は、今はもう聞こえない。人々は、戸の隙間から溢れ出してくる、言葉にできない圧倒的な圧に気圧され、誰一人として声を出すことができずに立ち尽くしていた。
朝靄が神田川の川面から這い上がり、路地を白く塗り潰していく。その湿った静寂の中で、工房だけが、内側に巨大な熱を抱えた生き物のように、ひっそりと呼吸をしていた。
「開けろ! 源次、生きてるのか!」
弟子のひとりが、意を決して震える拳で表戸を叩いた。
返事はない。
ただ、戸の向こう側から、パチ、パチ、と爆ぜるような、あるいは何かが激しく脈打っているような音が漏れ聞こえる。それは木の繊維が、閉じ込められていた力から解放され、外の世界と共鳴し始めた生命の微かな音であった。
重い戸が、ゆっくりと、内側から開け放たれた。
「……あ……」
最初に中を覗き込んだ弟子の口から、絶望に近い吐息が漏れた。
工房の中は、白い檜の削り屑が雪のように降り積もっている。その中心で、源次は泥のように床に伏していた。
そして、その背後に立つ「それ」を見た瞬間、集まった人々は、朝日の眩しさとは違う、正体不明の光に射抜かれたかのように動けなくなった。
そこに立っていたのは、昨日まで誰もが称賛した、あの完璧な十一面観音ではなかった。
右肩は無残に砕け、滑らかだった真珠のような肌には、荒々しく、鋭いノミ跡が無数に刻まれている。精緻を極めた指先は削り落とされ、慈悲を湛えていたはずの御顔も、今は半分が剥ぎ取られた原木のままの姿を晒している。
一見すれば、狂人が一年の苦労を自ら叩き壊した、無残な残骸にしか見えなかった。
「なんてことを……天下の傑作を、叩き壊しちまうなんて……」
「源次の旦那、本当に狂っちまったんだ」
野次馬たちの間に、落胆と嘲笑が混じったざわめきが広がる。
だが、その時だった。
「――静かに」
背後から響いた、低く、しかし芯の通った声。
人々が割れるように道を開けると、そこには、墨染めの衣を纏った大観和尚が立っていた。
和尚は、人々の罵声や嘆きには目もくれず、真っ直ぐに工房の奥へと歩を進めた。
朝の光が、工房の奥まで一筋の帯となって差し込んでいく。一年前の光は源次の「技」を照らしたが、今日の光は、源次が剥き出しにした「魂」を照らしていた。舞い上がる檜の微細な粉は、もはや単なる塵ではなく、朝日を反射して命の粒のようにキラキラと輝き、破壊された像の断面へと吸い寄せられていく。
和尚の足が、源次の前で止まる。
源次は、和尚の気配に気づくと、震える手で削り屑を掴み、重い体をゆっくりと持ち上げた。顔は汗と涙、そして檜の粉で汚れ、目は真っ赤に血走っている。だが、その瞳の奥には、濁りのない、透き通った光が宿っていた。
「……和尚様。……見ての通りだ。あっしは、あんたに約束した傑作を……自分の手で、殺しちまった」
源次は、掠れた声で笑った。自虐ではない。やり切った男の、晴れやかな笑みだった。
大観和尚は、源次の言葉には答えず、ただじっと、破壊されたはずの像を見上げていた。
和尚の眼が、像の輪郭をなぞる。
朝日が、荒々しいノミ跡の一つ一つの谷間に、深い陰影を与えていく。
すると、どうだろうか。
砕かれた肩、剥ぎ取られた胸元、そこから放たれる「氣」が、工房の空気を目に見えるほどに歪ませていた。
それは、形としての美しさを捨て去ることで、初めて解放された「命」の咆哮だった。
目に見える「形」という檻を壊したことで、その主である潜象の世界――「命」の声が、この木塊の中に奔流となって流れ込んでいたのだ。
「……源次よ」
和尚が、震える声を絞り出した。和尚の頬を、一筋の涙が伝い落ちる。
和尚は静かに手を伸ばし、荒々しいノミ跡の残る檜の肌に触れた。その瞬間、和尚の背中が微かに震え、工房全体を包んでいた「氣」が、一際大きな渦となった。
「お主は……彫りよったな。形の中にはおらぬ、その主を」
和尚は、泥だらけの源次の手を、両手で固く握りしめた。
「人々はこれを『壊れた』と言うだろう。だが、わしには見える。これこそが、命の通り道だ。お主が一年をかけて自らを殺し続け、最後にその呪縛を打ち破って刻んだ、真の命の器だ。形を捨てて命を獲ったお主の勇気、しかと見届けた」
源次は、和尚の言葉を聞きながら、静かに目を閉じた。
一年前の朝に感じたあの焦燥も、名声への渇望も、今はもう遠い昔のことのようだった。
重く硬かった源次の指先は、今、風のそよぎさえも感じ取れるほどに敏感になっていた。
今の彼には、はっきりと聴こえていた。
江戸の町の喧騒、神田川の流れ、そして目の前の木塊から響いてくる、万物が一つに繋がっているという、あの根源的な「命」が。
「現世に生きているが……違う世界が、そこにある。それを知るだけで……いいんだな、和尚様」
源次の呟きに、和尚は深く、深く頷いた。
その後、この「壊れた観音像」が慈光寺の堂に据えられることはなかった。
「形」に捉われる大衆には、その命の声は聞こえなかったからだ。
世間は「源次は狂って傑作を壊した」と語り草にしたが、その日から源次は、それまでの細工物の仕事を一切辞め、ただ、木の中に眠る「声」を掘り起こすだけの隠者のような、しかし誰よりも豊かな生活を送ったという。
数百年後。
現代の喧騒の中で、ひとりの青年が、古びた蔵の奥で一つの木馬を見つける。
形は歪で、片足は短く、耳の形も不揃いだ。
だが、青年がその木馬に触れた瞬間、指先から全身へ、ドクンと力強い鼓動が伝わった。
青年はその時、なぜか懐かしい、夏の朝顔の匂いと、冬の凍てつく工房の静寂を感じたような気がした。
「――なんだ、これ。生きているみたいだ」
時を超えて、源次の刻んだ「命」は、今もなお、誰かの魂を揺さぶり続けている。
形は移ろい、壊れても、その奥にある「声」は、決して消えることはない。
生命の元は、常に変化変遷し、今日もまた、新しい誰かの中へと進み続けている。
読んでいただきありがとうございます。
下の★~★★★★★で評価してもらえると勉強になります。
感想などいただけると嬉しいです。
「器の工房」の終話となります。
今回は第6首を見ていて閃きました。
時代物にしてみたのですが、こっちの方が作りやすいと感じてしまいました。
時代小説の読みすぎなのかな?
近世や現代をもっと学ばなくては、と考えさせられました。




