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  作者: しゅう


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命とは何か2

最初に入ってきたのは、春の光とは無縁の影を纏った老人だった。

ボロボロの綿入れの半纏を羽織り、背中を丸めたその姿は、昨日までの名残雪がそのまま人の形を成したかのようだった。老人は、受付カウンターへたどり着くやいなや、結の目の前で力なく倒れ込むように身を乗り出した。


「……た、頼む。これ、なんとかしてけろ……」

新人の結は、息を呑んだ。老人の顔は、幾重にも刻まれた深い皺に泥が染み込んだようで、その瞳だけが異様な熱を帯びて結を凝視している。

すぐ隣では、教育係の小野寺が、紺色の腕差しをぴたりと整え、氷のような眼差しでその光景を監視していた。新人に窓口の初対応を任せつつ、一言一句を査定する――その無言の圧力が、結の背中に冷たい汗を伝わせる。


「お、おはようございます。今日は、どのような……」

結が声を震わせながら問いかけると、老人は震える手で、懐から一通の茶封筒を取り出した。それは何度も折り畳まれ、手垢と湿気でふやけ、もはや元の色が判別できないほどに汚れていた。

「これだ。これが届いて、もう……おら、どうしていいか分がんね……」

中から出てきたのは、福祉手当の支給停止を予告する通知書だった。結は事務提要で学んだ知識を必死に手繰り寄せようとする。しかし、老人の言葉は東北特有の重い訛りと、歯が抜けた口元から漏れる不明瞭な音の塊となって、彼女の理解を拒んだ。

「おじいさん、少し落ち着いてください。ええと、この書類の内容を確認しますね」


結が書類に手を伸ばそうとした瞬間、横から小野寺の鋭い声が割って入った。

「佐藤さん、下がりなさい。私が代わります」

小野寺は、事務職のプロとしての全てを全身に纏い、一歩前に出た。

「おじいさん、私が聞きます。佐藤さんは後ろで見ていなさい。……さて、この書類ですが、このままではお話になりませんね。お名前の横の印鑑が、これ、完全に掠れています。これではご本人の意思確認とは認められません」

小野寺の対応は、教科書通りに完璧だった。隙のない言葉遣い、無駄のない所作。しかし、老人の反応は結の予想を裏切るものだった。

老人は小野寺の差し出した「正しい公務員」の手を拒絶するように、激しく首を振った。そして、再び結の方へと、カウンターのガラス越しに身を乗り出してきたのだ。


「いやだ!あんたじゃねえ!この娘だ!この娘に話を聞いてほしいんだ!」

老人のひび割れた指先が、結のリクルートスーツの袖を掴まんばかりに動く。

「あんた(小野寺)の目は、おらを見てねえ。紙っこしか見てねえ!この娘なら、この娘の目なら、おらの言うこと、分かってくれるべ……!」

老人は、結の未熟で、まだ組織の「型」に染まりきっていない瞳の中に、唯一の救いを見出したかのように執着した。

「娘さん、聞いてけろ。おら、カミさんに先立たれて、冬の間はずっと寝込んでたんだ。この紙が届いても、役所まで歩いて来れなかったんだ……。嘘じゃねえ、本当なんだ。今、これを止められたら、おら、明日から何食えばいい……」

小野寺が「ルールですから」「他の方も待っていますから」と冷たく引き継ごうとするが、老人はそれを怒鳴り声で撥ね退け、結に向かって自分の惨めな生活、孤独、そして命の瀬戸際にある恐怖を、堰を切ったように話し始めた。


結は、動けなかった。

後ろからは、他の男性職員たちがタバコを吸いながら「朝から厄介なのが来たな」と舌打ちする音が聞こえる。事務室内に満ちる紫煙が、老人の切実な訴えを汚していくように感じられた。

結の耳には、老人の掠れた声が、呪文のように、あるいは悲鳴のように突き刺さる。

彼女が覚えたばかりの「事務」という型は、この剥き出しの「老人の叫び」の前で、あまりにも無力で、残酷なほどに冷たかった。

結は、老人の濁った瞳から目を逸らすことができなかった。

自分が昨日、鏡の前で誓った「頑張ろう」という言葉は、一体誰のために、何のために向けられたものだったのか。

窓口の重い空気の中で、結の心に、初めて鋭い「トゲ」が刺さった。


老人の独白は止まらなかった。

「去年の暮れ、カミさんが逝ってから、家の中は火が消えたみてぇだ。雪が積もれば扉も開かねぇ。水道も凍って、おら、いろりの灰さ埋まって寝てたんだ。役所さ来るどころか、便所さ立つのもやっとだった……。この紙っこ、読んでも文字もんじが目に入らねぇ。娘さん、頼む。おら、嘘は言わねえ。村の衆に聞けば分かることだ……」

老人の必死な声は、時に嗚咽を交え、時に怒りに震えた。そのたびに、結の手元にある「事務提要」の分厚い頁が、無意味な紙の束に見えてくる。


結の背後では、九時半のチャイムが鳴った。

それは、一服を終えた男性職員たちが再び算盤を叩き始める合図だった。

「おい、佐藤さん。いつまで掛かってるんだ。お茶がからだよ」

誰かが苛立ったように言った。老人の「命の叫び」は、彼らにとっては業務を滞らせる「雑音」に過ぎないのだ。

小野寺がついに強硬な手段に出た。

「おじいさん。もう十分です。この娘は新人ですから、これ以上は話を聞けません。この不備のある書類はお返しします。民生委員さんに相談するか、印鑑を新しくして出直してください。……佐藤さん、あなたも。これ以上、私情で窓口を独占しないの。均等法云々より前に、あなたは組織の歯車だってことを忘れなさい」

小野寺の放った「組織の歯車」という言葉が、結の胸を深く抉った。

老人は、救いを求めていた結の瞳から光が消え、組織の影に隠れていくのを見て、絶望に顔を歪めた。

「……結局、あんたも『役人』だったか」

吐き捨てるようにそう言うと、老人は震える手で茶封筒を奪い返し、重い扉を押し開けて、まだ冬の匂いが残る四月の空の下へと消えていった。


老人が立ち去った後のカウンターには、彼が必死に縋り付いていた指の跡が、薄汚れた脂のように白く残っていた。結はその汚れを、備え付けの布巾で拭き取ることができなかった。それを消してしまえば、あのおじいさんがここに存在し、悲鳴を上げたことさえ、この組織の記憶から完全に抹消されてしまうような気がしたからだ。拭き掃除を促す小野寺の視線を無視し、結は自分の指先を見つめた。老人の袖を掴もうとしたあの瞬間、指先に伝わった、骨と皮だけの痩せさらばえた感触が、まだ痺れるように残っている。


「先輩……」

結は、小野寺に歩み寄った。

「あの方、本当に困っていました。嘘を言っているようには見えませんでした。誰か村の担当に確認を取ることはできないでしょうか。このままでは、あの方は……」

窓口の様子を新聞越しに窺っていた課長が、二人を呼び寄せた。結が歩み寄っても、課長は新聞から目を離さず、ゆっくりとタバコの煙を吐き出した。

「佐藤さん。君は真面目だね。だがね、世の中にはああやって同情を誘う人間も大勢いるんだ。真偽が定かではない以上、こっちは動けない。書類が完璧に揃うまで、うちは『放置』だ。それが法の下の平等というものだよ」

「放置」という二文字が、タバコの煙と共に執務室の隅々にまで染み渡っていく。それは、一人の人間の生存を、インクの乾いていない書類と同じ棚に追いやる宣言だった。カチカチと鳴り響く算盤の音は、もはや業務の音ではなく、あのおじいさんの命を「ゼロ」へと切り捨てるカウントダウンのように聞こえた。周囲の職員たちは、何事もなかったかのように次の書類をめくり、朱肉をつけ、印鑑を押す。その規則正しいリズムが、結には恐ろしい暴力として迫ってきた。


結は自分のデスクに戻り、支給されたばかりの黒いボールペンを強く握りしめた。手のひらには、怒りのせいでじっとりと嫌な汗が滲んでいる。朝礼で聞いたあの空虚な言葉を、もう一度思い出す。あれは、人を救うための言葉ではなく、救わない自分たちを正当化するための呪文だったのだ。

結は、引き出しの奥にある手鏡を、今は開くことができなかった。そこに映る自分が、もしもあの課長と同じような「正しい役人」の目をしていたら――そう思うと、足元が崩れ落ちるような恐怖に襲われた。

だが、胸の奥でふつふつと燃え始めた火は、消えそうにない。この組織が「放置」するというのなら、私は――。

結の中で、何かが音を立てて崩れ、同時に、熱い塊がせり上がってきた。それは期待でも高揚でもない、鋭く、研ぎ澄まされた「怒り」だった。

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