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  作者: しゅう


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19/56

器の工房3

称賛の嵐は、数日のうちに過ぎ去った。

「神田に名工あり」という噂は瞬く間に江戸の町を駆け巡り、慈光寺の門前には、一目その十一面観音を拝もうとする人々が列をなすだろうと誰もが信じて疑わなかった。明日になれば、大観和尚がこの像を受け取りに来る。源次の仕事は、名実ともに完成したはずだった。

だが、源次の心は、一年前よりも深く、冷たい闇の中にあった。

皆が去り、弟子どもを帰した後の作業場で、源次は独り、像の前に座り込んでいた。

その夜、雲一つない夜空から差し込む月光は、青白く鋭い刃のように、観音像の輪郭を切り取っていた。

源次は、ただ、見つめていた。


(何かが、違う……)

それは、一度芽生えると二度と消し去ることのできない、猛毒のような違和感だった。

完成した直後、あれほど自分を昂ぶらせた「完璧」が、今は自分を拒絶しているように見える。

源次は立ち上がり、像の周囲をゆっくりと歩いた。

朝の清々しい光の中で見た時は、慈悲に満ちていると感じた御顔が、月下では仮面のように冷たく、血の通わない物質としてそこにある。

昼の熱を孕んだ陽光の下で見た時は、風に揺れているように見えた衣のひだが、今はただの、死んだ木の凹凸にしか見えない。


「……おい、あんた。そこにいるのかい」

源次は、思わず像に語りかけた。

自らの指先が裂け、関節が悲鳴を上げるまで追い込み、一年をかけて彫り上げた「御仏」である。ならば、そこには自らの魂の半分が宿っているはずだった。

しかし、返ってくるのは、どこまでも空虚な、檜の死んだ沈黙だけだった。

源次の視線が、ふと作業場の隅に落ちた。

そこには、一年前、大観和尚が来た日に彫り散らかした、小さな木彫りの馬が転がっている。

荒削りで、型も何もあったものではない。片足は短く、耳の形も不揃いだ。

源次は、泥にまみれたその小さな木馬を拾い上げた。

「――っ!」

その瞬間、源次の指先に、微かな、だが確かな「震え」が伝わった。

それは物理的な振動ではない。

木の繊維の奥底から、あるいはその形を成している空間そのものから、今にもいななき、江戸の空へと駆け出そうとする「意志」のようなものが、ドクン、と源次の鼓動と共鳴したのだ。


源次は、震える手で木馬と、目の前の巨大な観音像を見比べた。

木馬には「命」がある。

だが、この十一面観音には、一分一厘の狂いもない「形」しかない。

「違う……。あっしが彫りたかったのは、こんな、死人のような形じゃねえ」

その呟きが、静まり返った工房に虚しく響く。


源次は、再び像の前に胡坐をかいた。

そして、一時間、二時間と、時間が溶けていくのも忘れて対座し続けた。

目を閉じれば、あの日、風に舞った削り屑が光を反射し、世界と一体になって踊っていたあの光景が浮かぶ。

「お主は『命』を彫る。わしにはそう見える…」

和尚がかつて漏らした言葉が、暗闇の中で微かな熱を持って蘇る。


その時だった。

源次の研ぎ澄まされた視界に、異変が起きた。

作業場の空気が、不自然に揺らぎ始めたのだ。

窓から差し込む月光の帯の中に、無数の、淡く輝く粒のようなものが現れた。

それは埃ではない。一つ一つが意志を持っているかのように、ゆらゆらと、しかし確かな方向性を持って空間を泳いでいる。

源次は息を呑んだ。

それは、かつて彼が「氣」と呼んでいたもの、あるいは万物の根源に流れる、目に見えぬ命の断片――の声だった。

光の粒は、作業場の至るところに満ちていた。

削り屑の山を通り抜け、古い道具箱に触れ、源次の肌を優しく撫でる。

だが、その光の群れが、壮麗な十一面観音像に差し掛かった瞬間、信じがたいことが起きた。

光たちは、あたかも透明な壁にぶち当たったかのように、その像を避けて通ったのだ。

あるいは、像に触れた瞬間に、弾かれるようにして霧散していく。

完璧な比率、磨き抜かれた木肌、本職も驚く「型」の完成度。

源次が一年かけて作り上げたその「壁」は、あまりにも密閉され、あまりに完結しすぎていたために、命を一切受け付けない、断絶された「拒絶の塊」となっていた。


「……入れないのか。お前たちは、こいつの中には、入っていけないのか」

源次の声は、絶望に震えていた。

彼が求めた「正解」は、命を閉じ込め、殺すための檻に過ぎなかった。

形を追い求めれば追い求めるほど、その主である「命」を追い出していたのだ。

源次は、自らの手を見た。

名工と呼ばれ、称賛を浴びたこの手。

だが、その手が成したのは、命の通り道を塞ぐという、職人として最大の冒涜だったのではないか。

弾かれていた光の粒が、源次の体の周りで激しく渦巻き始める。


(見ろ、源次。形は、器に過ぎない)


どこからか、自分の声によく似た、しかし遥かに巨大な意思の声が聞こえた。


(器は、満たされるためにある。閉じ込めるためのものではない。命の通り道を作れ。命の方向性に、身を委ねろ)


ハッと目を見開いた時、源次の前には、相変わらず美しい、しかし抜け殻のような観音像が立っていた。

夜明けが近い。東の空が、僅かに白み始めている。

数時間後には、大観和尚がやってくる。江戸中の期待が、この像に注がれている。

だが、源次の手は、すでに傍らに置かれた重いつちと、最も太い丸ノミを掴んでいた。

「……こんなもんは、仏じゃねえ」

源次の目に、かつての、いや、それ以上の凄まじい「氣」が宿った。

「形」を壊し、その奥にある「命」を取り出す。

職人としての名声も、一年間の苦労も、すべてを灰にしても構わない。

源次は、自ら作り上げた完璧な傑作に向かって、咆哮と共に第一撃を振り下ろした。


ガァァァァンッ!!

静寂を切り裂く轟音が、神田の夜明けに響き渡った。

衝撃が源次の両腕を突き抜け、骨の髄まで痺れさせた。真珠のように磨き上げた観音の右肩が、無残に砕け散る。

「源次の旦那! 何ごとだ!」

「開けろ! 中で何が起きてる!」

異変を察した近所の住人や弟子たちが、表戸を激しく叩く。だが、源次の耳には届かない。

源次の周囲では、光の粒が暴風のように吹き荒れていた。

彼は二撃、三撃と槌を振るった。

美しく整えられた衣の襞を剥ぎ取り、精緻に彫り込んだ指先を削り落とす。破壊ではない。彼は、光の粒が「通りたい」と叫んでいる場所、その詰まりを、直感だけで取り除いていた。

一年かけて積み上げた「嘘」を剥ぎ取るたび、不思議と源次の体には、かつてない活力が満ち溢れていった。


「ヒ、ヒ、ヒ……。ここだ、ここが詰まってやがった!」

源次は笑っていた。血走り、涙を流しながら、狂ったように笑い、ノミを振るった。

剥き出しになった檜の荒々しい木目が、月光に照らされて脈動を始める。

もはや、それは『仏像図彙』のどこにも載っていない形だった。

だが、一削りするごとに、あの弾かれていた光の粒が、磁石に吸い寄せられるように像の奥底へと吸い込まれていく。

江戸の町が朝焼けに染まる頃、工房の周囲を囲んでいた野次馬たちは、いつの間にか静まり返っていた。

戸の隙間から漏れ出す、この世のものとは思えぬ凄まじい「音」と、作業場全体が呼吸しているかのような「震え」に、誰もが立ちすくんでいた。

源次は、最後の一削りを終えると、泥のように床へ崩れ落ちた。

全身から湯気が立ち上り、服は汗と削り屑で重くなっている。

その目の前には、右肩が欠け、全身に荒々しいノミ跡を残した、異様な姿の観音像が立っていた。

だが、そこには――。

あの日、風に舞った削り屑の中に見た、あの「命の響き」が、轟々と渦巻いていた。

読んでいただきありがとうございます。

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