器の工房2
あの日、大観和尚が去ってからの源次は、まるで何かに憑りつかれたようだった。
神田の夏が盛りを過ぎ、空が高く澄み渡る秋風が吹き始める頃、源次の作業場からは、それまでとは質の違う音が響き続けていた。かつての、軽やかで遊び心のある「コン、コン」という音ではない。重く、深く、木の芯まで問いかけるような、執念の篭った響きである。
源次は、本職の仏師が使う『仏像図彙』や古い手本を、伝手を頼って密かに手に入れていた。
「仏師じゃねえから、好きに彫る」と和尚には見得を切ったものの、いざ巨大な檜の原木を前にすると、その圧倒的な存在感に気圧されたのだ。仏という巨大な存在を彫り出すには、やはり古人が積み上げた「型」が必要なのではないか。
だが、門外不出の「仏の寸法」を、一介の彫師が手に入れるのは容易なことではない。
源次が動いたのは、秋の気配が漂い始めた晩夏の夜だった。
彼はまず、神田神保町の古本屋の中でも、曰く付きの古書を扱う「黒猫堂」の主人に、これまで貯め込んできた細工の稼ぎの半分を叩きつけた。数日後、店主が奥座敷から震える手で差し出してきたのは、幕府御用達の仏師一家が火事の際に放出したとされる、煤けて虫の食った古い『粉本』の断片だった。
さらに源次は、かつて名門仏師の門を不始末で破門され、今では浅草の酒場で日雇いの仕事をしている男を、連夜の酒と金で抱き込んだ。
「源次の旦那、これ以上は……。俺は誓紙を書いてるんだ。比率を教えれば、指を詰めなきゃならねえ」
「いいから書け。お前の記憶にある、十一面観音の三面配置と、指の関節の比率だ。書かなきゃ、今ここでその指を叩き折ってやるよ」
源次の眼差しは、もはや堅気の職人のそれではなくなっていた。
酒に酔い潰れ、震える手で男が走り書きした「秘伝の比率」を奪い取るように受け取ると、源次はそれを懐に、闇夜を駆けた。
時には修理の相談と称して他所の寺へ赴き、住職の目を盗んで、秘仏の背後にある裳懸の重なりを竹尺で素早く測り取るような危うい真似さえ厭わなかった。
こうして集められた「型」の破片。
それは、本来であれば源次のような「遊びの彫師」が手にしてはならない、呪われた知恵のようなものだった。
だが、源次はそれらを繋ぎ合わせ、経典の写しと照らし合わせ、観音の慈悲の眼差し、如来の結ぶ印の意味を、寝食を忘れてその脳裏に叩き込んでいった。
湿り気を帯びた夏の空気が引き、江戸の空が抜けるように青くなった頃。
源次は「荒彫り」の真っ最中だった。
巨大な檜は、表面の皮を剥がされ、荒々しく削り取られていく。この時期の木は、夏の水分をほどよく残しながらも、秋の乾いた風によって表面から少しずつ締まっていく。ノミを入れるたび、檜は「ピシッ」と高い音を立てて応えた。
源次は裏工作で手に入れた図面を横に置き、何度も寸法を測った。頭部の大きさ、肩の張り、腰の位置。
「仏師の型を外れちゃあいけねえ。一分の狂いも、仏への無礼になる」
かつての彼なら、木の節を見て「ここを鼻にしよう」と遊んだはずだ。木のねじれを見れば、それに逆らわずに流れるような形を見出した。しかし、今の源次はそれを「欠点」として切り捨てた。図面にある通りでない節は邪魔な肉でしかない。
木を活かすのではなく、木を「正解」という名の型に屈服させる。そのたびに、木からは悲鳴のような鋭い音が響いたが、源次は耳を貸さなかった。源次の手のひらは、繰り返し握る槌の衝撃で厚く硬い「たこ」が重なり、もはや自分の皮膚ではなく、木そのものに近い質感へと変わっていた。
神田の路地を吹き抜ける風が、北風へと変わり、人々の肩が丸まる頃。
木は完全に乾燥し、鉄のように硬く冷たくなった。
源次は、凍てつく土間で、かじかむ指先に吐息を吹きかけながら、ただひたすらに檜と向き合っていた。この時期の進捗は「肉付け」である。
仏の身体の厚み、衣が重なり合う複雑な襞。硬く締まった檜は、少しでもノミの角度を誤れば、鋭い破片を飛ばして源次の頬を切り裂く。
「手が、動かねえ……」
手水鉢に張った氷を割り、顔を洗って意識を研ぎ澄ます。指先は脂と寒さで感覚を失い、まるで自分の体さえも木の一部になったかのように冷え切っていた。
かつては得意だった細工物の依頼も、今はすべて弟子に任せ、あるいは断っている。
「源次の旦那は、仏さんに魂を売ったらしい」
長屋の住人たちの間でそんな噂が広まるほど、彼は孤立し、ただ研ぎ澄まされていった。弟子たちは、かつて酒を酌み交わし冗談を言っていた師匠の変わり果てた姿に怯え、作業場に近づくことさえ躊躇うようになった。
作業場には、かつての活気ある埃に代わり、微細な檜の粉が雪のように、静かに、執拗に降り積もっている。それはまるで、止まってしまった時間の堆積のようでもあった。源次はこの冷徹な静寂の中で、己の中の「職人の野性」を、一ノミごとに殺し続けていた。
春。神田川のほとりに桜が咲き、江戸の町が淡い色に染まる頃。
源次の作業は、最も困難な「面部」と「細部」に差し掛かっていた。
十一面観音のそれぞれの顔。あるものは慈しみ、あるものは憤り、あるものは静かに微笑む。
源次は、突きノミの先を一分刻みで動かし、眼球の曲線、唇の端のわずかな沈み込みを彫り込んでいく。外では生命が芽吹き、人々が陽気に浮き立ち始めているというのに、源次の心は逆に、ミクロの迷宮へと閉じこもっていった。
「これでいいのか? いや、手本ではもっとまぶたが重いはずだ」
彼は江戸の庶民の豊かな表情を観察することをやめた。市場で笑う女の顔や、喧嘩する男の顔――そこにある「生きた命」の躍動を見ず、代わりに、裏工作で手に入れた古い仏像の「影」だけを追いかけた。
本職の仏師に負けじという自負が、いつしか彼から「木を削る喜び」を奪っていた。
檜の香りは、一年の月日を経て熟成され、工房の中に逃げ場のないほど重厚な芳香となって漂っている。源次はその香りに窒息しそうになりながら、ただ正確さだけを追い求めた。彼の背筋は不自然に固まり、歩き方さえも像を模したように緩慢で、生命感を欠いたものになっていった。
そして、あの日からちょうど一年。
初夏の薫風が、再び風鈴を揺らし始めた日の午後。
源次は、ついに最後の一振りを終えた。
「仕上げ」として、全身を細かな砥石で磨き上げ、木肌を真珠のように滑らかにした。
「……できた」
源次は、手にしていた突きノミを、床に積もった削り屑の上に静かに置いた。
立ち上がり、一歩、後ろに下がる。
そこには、高さ六尺を優に超える、壮麗な十一面観音像が毅然として立っていた。
それは、非の打ち所がない傑作だった。
流れるような衣の襞は、あたかも本物の布が風を孕んでいるかのように柔らかく、幾重にも重なる御顔は、どれもが計算され尽くした完璧な慈悲を湛えている。
どこから見ても、どの角度から眺めても、そこには伝統的な仏教美術が理想とする「仏」の姿が具現化されていた。
「すげえ……。こいつは、本当に源次さんが彫ったのかい」
噂を聞きつけて覗きに来た近所の職人や弟子たちが、工房の入り口で息を呑んでいる。
誰もが、そのあまりの美しさに声を失い、ただ圧倒されていた。一年前の源次を知る者は、その豹変ぶりに、畏怖すら感じていた。かつての、親しみやすい「神田の彫師」は消え、そこにはただ、一つの目的を遂行した冷徹な「器」としての職人だけが立っていた。
「仏師じゃねえなんて、よく言ったもんだ。これは、天下の名工の仕事だ」
「明日、和尚様が来たら、腰を抜かすんじゃねえか」
口々に称賛する人々の声を背中で聞きながら、源次は動かなかった。
差し込む初夏の強い陽光を浴びて、檜の木肌は白く輝き、神々しいまでの光を放っている。
その像は、間違いなく完璧だった。
一点の曇りもなく、一分の狂いもなく、源次がこの一年間で培った技術のすべてを注ぎ込んだ、究極の仏像がそこに立ち上がっていた。
源次は、自らの手で成し遂げたその到達点を、じっと見つめ続けた。
外では初夏の風が吹き、江戸の町は一年前と同じように、騒がしくも愛おしい生命の音を奏でている。
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