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  作者: しゅう


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17/52

器の工房1

江戸の初夏は、光と音が混じり合い、煮え立つような生命の気配に満ちている。

神田の界隈は、朝から威勢のいい物売りの声が空を割り、裏路地の奥にまでその響きが染み違っていた。

「納豆――、納豆――。出来立てだよ」

「あさり、しじみはいらんかね――。身の詰まった良いのだよ」

天秤棒を肩に担ぎ、汗を光らせた男たちが、江戸の動脈を巡る血流のように往き交う。路地の角では、手拭いを被った団子屋が、炭火で醤油の焦げる香ばしい匂いを撒き散らし、腹を空かせた丁稚たちがその香りに鼻をひくつかせながら走り抜けていく。

家々の軒下で揺れる江戸風鈴が、時折吹き抜ける湿った南風に「チリン、チリン」と不規則で涼やかな音を立てるが、それは涼を運ぶというより、むしろ路地の奥に溜まった昼下がりのむせ返るような熱を、より鮮明に際立たせていた。


源次は、神田の町外れにある古ぼけた長屋の端を借りて、自宅を兼ねた作業場を構えていた。

表通りの喧騒から少し奥まったその場所には、江戸の活気とはまた質の違う、濃密な「氣」が漂っている。

その日も、源次は上半身を裸に近い姿で、床に胡坐をかいていた。四畳半ほどの広さの土間には、削り取られた木の皮や、くるりと丸まった薄い削り屑が雪のように積もり、源次の足首までを埋め尽くしている。

「ふぅ……」

額に浮かんだ汗を、煤けた手ぬぐいで乱暴に拭い去り、彼は目の前にある檜の塊を睨みつけた。

源次の生業は、仏師のような高尚なものではない。江戸の庶民が神棚に供えるささやかな細工物や、商家が店先に置く招き猫、あるいは子供が遊ぶ独楽や木馬。そうした、日常の中に溶け込む「木の道具」を彫るのが彼の仕事だった。

だが、その仕事ぶりは、町で見かける並の職人とは一線を画していた。

壁に整然と並べられた道具の数々を見れば、その主の性根が知れる。使い込まれて柄に黒光りする脂染みがついた平ノミ、丸ノミ、そして細かな表情を刻むための鋭い突きノミ。どれもが研ぎ澄まされ、窓から差し込む一筋の陽光を跳ね返して、冷徹な刃先を光らせている。


源次の手は、節くれ立ち、いくつもの切り傷が白く残っている。しかし、その指先は驚くほど繊細だった。彼が握る一丁の鑿が木肌を滑るたび、ただの木の塊から、生命の輪郭がひらりと剥がれ落ちていく。

作業場には、檜特有の、鼻の奥をツンと突くような清涼な香りが充満していた。それは、削り屑が舞うたびに新たな香りを解き放ち、この狭い空間を、山深い森の奥底のような静寂へと変えていく。


「……今日は、どうにもノミが走りやがる」

源次は独り言を漏らした。

江戸の初夏、この季節は木が水分を孕み、適度な粘りを持つ。削れば削るほど、木の奥底に眠る「声」が、振動となって指先に伝わってくるような感覚があった。宙を舞う埃のひと粒ひと粒が、窓からの光に照らされて金色の砂のように踊っている。


その時である。

開け放たれた入り口の戸口に、大きな影が落ちた。

江戸の賑やかな喧騒が、その影によって不自然に遮られた。まるで、一瞬だけ時が止まったかのような、奇妙な静寂が工房を支配する。


「……なんだい、お役人様か何かか」

源次は顔を上げずに、ぶっきらぼうに投げかけた。

しかし、返ってきたのは、地の底から響くような穏やかな笑い声だった。

「源次さん、精が出るのう。この熱さの中、木と取っ組み合うとは、相変わらずの剛の者よ」

立っていたのは、墨色の衣をまとった大男――近所でも知られた古刹、慈光寺の住職である大観だいかん和尚だった。

和尚が一歩足を踏み入れると、その衣が擦れる「シュッ」という音が、やけに重々しく響く。彼がまとう空気は、神田の喧騒を浄化するような、圧倒的な密度の静けさを伴っていた。

「和尚か。驚かさないでくれ。見ての通り、小汚い細工に追われてるんでね。説法を聞く暇もありゃしねえよ」

源次は手元の木片を叩きつけるように置き、煙管きせるに手を伸ばした。火をつけ、紫煙をくゆらす。

大観和尚は気に留めた様子もなく、草履を脱ぐと勝手知ったる様子で土間に上がり、源次の正面にどっかと腰を下ろした。和尚の体重を受けて、古い床板が「ギィ」と低く鳴る。


「源次さん、単刀直入に言う。お主に、頼みがあるのだ」

和尚の目が、笑みを湛えながらも、射抜くような鋭さを持って源次の眼差しを捉えた。その瞳の奥には、すべてを見通すような深い静寂があった。

「頼み? 神棚の獅子頭でも新調するのかい? 慈光寺ほどの大寺なら、腕の良い宮大工や仏師がいくらでも出入りしてるだろうに」

「いや、そうではない。本尊……いや、新たな御仏を一体、彫ってほしい」

「――は?」

源次は、紫煙を吐き出すのも忘れ、口を半開きにした。

「聞き間違いじゃねえだろうな。あっしは、仏師じゃねえ。見ての通り、子供の玩具や神棚の細工を彫るのが関の山だ。お寺に納めるような仏様なんて、畏れ多くてノミを入れられやしねえよ」

大観和尚は、源次の拒絶を予想していたかのように、静かに首を振った。その動作一つにも、山が動くような重厚感がある。


「型通りの仏師なら、わしの寺にも掃いて捨てるほどおる。だがの、源次さん。わしが求めているのは、経典に書かれたままの形ではない。この江戸の空の下、今、この瞬間を共に生きている、名もなき衆生の苦しみや喜びをそのまま受け止める、生身の温もりを持った御仏なのだ」

「……何を言ってやがる。仏像ってのは、型が決まってるもんだ。慈悲深いお顔だの、印を結ぶ指先だの。あっしには、そんな修行の覚えはねえ」

「お主は『命』を彫る。わしにはそう見える」

和尚は、源次が削り出したばかりの、まだ完成していない小さな木彫りの馬を指差した。その指先は、太く、力強い。

「この小さな木馬を見よ。今にもいななき、江戸の町を駆け出しそうではないか。お主は木の中に潜んでいる『声』を聞き、それを形にする。それは、今の高名な仏師たちが忘れてしまった、始元のわざだ」


源次は顔をしかめ、視線を逸らした。

「買いかぶりだ。あっしはただ、木を削るのが好きで、食うためにやってるだけだ」

「それこそが大事なのだ。源次さん、これもお仏の導きよ。お主の手の中には、まだ形にならぬ、命の響きが宿っている。わしにはそれが聞こえる。断っても無駄だぞ。わしは、お主が頷くまでここを動かぬし、お主が彫り始めるまで、毎日この檜の匂いを嗅ぎに来る」

「弱ったな……。坊主の粘り腰には敵わねえ」

源次は、和尚の背後にある、青々と茂った庭の緑と、その向こう側に広がる江戸の町を見やった。


眩しい陽光の下、町は相変わらず騒がしく、生きるためのエネルギーを爆発させている。

その時、不意に強い風が吹き抜け、足元の檜の削り屑が宙に舞い上がった。

キラキラと光を反射して舞う削り屑の向こう側で、源次の脳裏に、今まで感じたことのない妙な響きが掠めた。

言葉ではない。風の音か、あるいは自分の耳鳴りか。

しかし、その得体の知れない「何か」に触れた時、源次の胸の奥に、ある種の覚悟が生まれてしまった。


「……分かったよ。和尚、一つだけ条件だ」

「ほう、なんでも申せ」

「出来上がったものが仏に見えなかろうが、文句はなしだ。あっしは、あっしの聞こえる通りにしか、ノミは打たねえ」

「合点だ。その『聞こえる通り』こそが、わしの求めているものよ」

和尚は満足げに大きく頷き、懐からずっしりと重い一束を取り出し、作業台の上に置いた。

「これは手付けだ。期間は一年。来年の今頃、初夏の風が吹く頃に、また来よう」

和尚が去った後、源次は一人、静まり返った作業場に取り残された。

外では、夕暮れが近づき、町火消しが拍子木を鳴らす音が遠くで響き始めていた。


「……仏、ねえ」

源次は、作業場の隅に立てかけられた、まだ手付かずの巨大な檜の原木に歩み寄った。

夕闇の中で、その木は沈黙していた。

だが、その沈黙の奥底で、何かが激しく胎動しているのを、源次は確かな予感として感じていた。

「命の出来る概要……。あるがままの繋がりか」

彼は、無意識に口にしていた。

一年という長い、そして果てしない対峙が、今、始まった。

江戸の町が夜の帳に包まれていく中、源次はただ一点、檜の芯を見つめ続けた。

そこには、まだ誰も聞いたことのない何かが、目覚めの時を待っていた。

読んでいただきありがとうございます。

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