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  作者: しゅう


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14/52

生命の螺旋2

暗い廊下へと足を踏み出した瞬間、肺の奥まで凍りつくような冷気が私を襲った。

昼間見たはずの廊下は、月明かりの下では全く別の顔を見せている。黒光りする床は、まるで底なしの沼のように深く、私の足音を吸い込んでいく。

「美月……? どこにいるの?」

声が震える。返事はない。ただ、廊下の突き当たり、闇がより一層濃くなっている場所から、パタパタという乾いた足音だけが遠ざかっていく。私はその音に誘われるように、一歩、また一歩と進んだ。

職人の娘として、私は歩きながら壁や柱の感触を確かめた。この宿の木材は生きている。呼吸するように微かに震え、私の指先に「逃げろ」と警告しているような気がした。

ふと、廊下の陰に白い人影が見えた。

「美月!?」

駆け寄ると、そこには美月がいた。しかし、彼女は私の呼びかけに答えることなく、廊下の隅にある小さな飾り窓をじっと見つめていた。その瞳は虚ろで、まるで何かに魂を吸い取られたかのようだ。


「……いたの。沙耶、確かにいたんだよ。小さな、白くて、でもすごく古い影が」

美月が指差した先には、何もない。ただ、冷たい月光が畳の上に幾何学的な模様を描いているだけだった。

「戻ろう、美月。ここは冷えすぎるわ」

私は彼女の冷え切った手を引き、命からがら『奥の間』へと戻った。

部屋に戻ると、結衣と陽菜はまだ深い眠りの中にいた。美月は自分の布団に潜り込み、ガタガタと震えながら眠りについた。私は、部屋の四隅に置かれた人形たちが、私たちが戻ってきたのを歓迎するように、わずかに首を傾けたような錯覚に陥った。

結局、私は一睡もできないまま、夜明けを迎えることになった。

――そして、運命の朝が来た。


窓から差し込む光は、残酷なほどに白く、刺すように冷たかった。

「――嘘でしょ。私の財布、なくなってるんだけど」

静寂を切り裂いたのは、結衣の鋭い声だった。

彼女は布団の上に這い出し、ブランド物の革製バッグを何度もひっくり返している。その指先は微かに震えていたが、眼鏡の奥の瞳には、すでに法学徒らしい冷徹な観察の火が灯っていた。

「えっ、結衣も……? 実は、私のデジカメもないの。昨日の夜、確かにこの枕元の巾着に入れておいたのに。昨日みんなで撮った写真が、全部入ってるのに……」

陽菜が、今にも泣き出しそうな顔でお守りを握りしめる。彼女の周辺の畳を皆で探したが、どこにもあの黒いカメラの姿はなかった。


私は慌てて自分のカバンを確認した。実家の工房から持ってきた職人の道具箱、財布、スマートフォン――。幸い、私の持ち物は無傷だった。しかし、隣で呆然と座り込んでいた美月は、自分の化粧ポーチを掴んだまま凍りついていた。

「……ない。ないよ。お母さんの形見の、あの真珠のブレスレットがない」

美月の声は、かすれて消えそうだった。

それは彼女が「社会人になっても、私たち四人の『相似形』の絆を守ってくれる」と言っていた、彼女にとって最も神聖な宝物だった。

「ちょっと待って。これって……誰かが夜中にこの部屋に入ってきたってこと?」

陽菜が震えながら周囲を見渡す。

部屋の襖は、私が昨夜閉めた時のまま、寸分違わず閉じている。私は職人の目線で鴨居かもいや敷居を確認したが、無理にこじ開けた跡も、隠し通路の継ぎ目も見当たらない。

そして、あの四隅の不気味な人形も、相変わらず不気味なほど左右対称に配置されていた。

「警察を呼びましょう。これは明白な窃盗事件よ。しかも、寝静まっている間に侵入されたのなら、事態はもっと深刻だわ」

結衣が立ち上がり、淀みのない動作でスマートフォンを手に取った。

しかし、その表情がすぐに強張る。

「……圏外? 嘘でしょ、昨日はアンテナが一本立っていたはずよ。Wi-Fiも繋がらない。意図的に遮断されている可能性もあるわね」

「警察なんて呼ばないで!」

美月が、弾かれたように叫んだ。

「これは座敷童子だよ、きっと! さっき、沙耶も一緒に見たでしょ? あの夜の気配を。あれは人間じゃない。座敷童子が悪戯で物を隠すっていうのは、この地方の伝承でも一番有名な話じゃない。これは私たちが歓迎されてる証拠なんだよ。ここで警察なんて呼んで、無粋な捜査なんてしたら、せっかくの幸運を自分たちで追い払うことになる!」

「美月、いい加減にして。現実を見なさい」

結衣の言葉が、氷のつぶてのように美月を打つ。彼女は冷静に、部屋の畳の継ぎ目や襖の溝を調べ始めていた。

「幸運を運ぶために、数万円の現金だけを抜き取ったり、換金性の高い精密機器を選んで隠したりする妖怪なんて、どこの文献に載っているの? 感情論で現実を歪めるのはやめて。これは物理的な侵入者による犯罪よ。あの影のような女将か、あるいは無愛想な運転手。もしかしたら、昨夜の内に外部から忍び込んだプロの犯行かもしれない」

「幽霊だの妖怪だの、非科学的すぎるわ。陽菜、あなたまで美月の妄想に付き合うつもり?」


結衣の冷たい視線に、陽菜は怯えたように、いくつもぶら下がったお守りを握りしめた。

「私は……怖いよ。でも、あの足音は……確かに、人間にしては軽すぎた気がするの。一歩一歩の感覚が短くて、まるでお餅が跳ねるような、この世のものとは思えないリズム。もし本当に『あっち側』の存在だとしたら、下手に権力や警察を呼んで怒らせたら、もっと恐ろしい『祟り』が起きるんじゃ……」

「祟り? 冗談はやめて。二十一世紀にそんな言葉を聞くなんてね。いい? 物質が消失した以上、そこには必ず『経路』と『動機』が存在するの。誰かが部屋に侵入し、物理的に持ち去った。それだけよ」

結衣が鼻で笑う。その態度は、美月の「信仰」と陽菜の「恐怖」を、一括りにしてゴミ箱に捨てるような冷酷さを孕んでいた。そして彼女の矛先は、静観していた私へと向けられる。


「沙耶、あなたは昨夜、誰よりも早く目を覚まして廊下へ出たわね。美月を連れ戻したと言ったけれど……その時、何か、手にしていなかった?」

「……結衣。本気で言ってるの? 私はただ、美月が心配で追いかけただけよ」

「疑っているわけじゃない。でも、事実として、あなただけが何も盗まれていない。そして、昨夜の不審な行動。論理的に考えれば、あなたが一番事情を知っているはずよ」

あんなに仲良く、同じ夢を語り合っていた四人。

昨日まで、私たちは一つの『型』を共有していると思っていた。

けれど今、私の目の前にいるのは、法という盾を構えて友人を分析対象にする冷血漢と、自分たちの価値観を守るために現実を妖怪のせいにする者たちだった。

「相似」だったはずの私たちの関係は、この『螺旋館』の最奥で、決定的に「分裂」してしまった。

「……わかったわ。結衣がどうしても犯人探しをしたいなら、勝手にすればいい。私は私のやり方で、座敷童子様に会いに行く。そして、ブレスレットを返してもらう。あんたが間違ってたってことを証明してやるんだから!」


美月は乱暴に自分のカバンを掴むと、襖を蹴破るような勢いで部屋を飛び出していった。

結衣もまた、冷ややかな一瞥を私たちに残し、「私は女将から事情聴取をしてくるわ」と言い捨てて反対側の廊下へと消えた。

「沙耶ちゃん……どうしよう。みんな、バラバラになっちゃった。相似だったはずなのに……」

陽菜の泣き声が、がらんとした『奥の間』に虚しく響く。

私はふと、部屋の四隅を見た。

西の隅に置かれていたはずの人形が、一体、なくなっていた。

結衣が証拠品として持ち去ったのか、それとも――。

残された三体の人形の顔が、昨夜よりも心なしか歪んで、私たちを嘲笑っているように見えた。


「行きましょう、陽菜。私たちは、私たちにしかできない方法で、この『分裂』の理由を探すのよ」

私は、昨夜見たあの「白くて細い指」の残像を追いかけるように、陽菜の手を引いて歩き出した。

畳を一枚、また一枚と踏みしめるたび、昨夜の「相似形」の幸せが、遠い過去の幻のように思えてならなかった。

読んでいただきありがとうございます。

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