48音4
誠一は自宅の書斎で、ただ独り、自分の喉という名の精密機械に向き合っていた。
カーテンを閉め切った薄暗い部屋には、彼の呼気と、時折喉の奥で鳴る微かなクリック音だけが響いている。
机の上には、もはや事典もノートも広げられていない。あるのは、あの日拾った、手垢で汚れた四つ折りのコピーだけだ。
誠一は、かつて数ミクロンの狂いも許されない金型の最終研磨に挑んだ時のように、全身の神経を一点に集中させた。
いろはに……ゑひもせす。
螺旋の図面に従い、一音ずつ丁寧に、喉の「絞り角」と吐息の「圧力」を制御していく。音は単なる意味の伝達手段ではない。それは、空間を切り裂き、物質を震わせる物理的なエネルギーだ。
47の音が順に紡がれ、誠一の体内を高速で循環していく。加速し、増幅され、臨界点に達しようとする振動。
そして、誠一は静かに唇を結んだ。
――ん。
その瞬間、世界が止まった。
鼻腔の奥で弾けた最後の振動が、逃げ場を失った高圧の樹脂が金型の隅々まで行き渡るように、誠一の全身へと浸透していった。
バラバラだった47のパーツが、最後の一音という「楔」によって、一点のガタもなく締結されたのだ。
「……美しい」
誠一は、恍惚とした吐息を漏らした。
意味などはどうでもよかった。職人として、これほどまでに「完璧に噛み合った」手応えは、四十年のキャリアの中でも一度もなかった。
「ん」がつくことで、すべてが繋がった。
「ん」があるからこそ、不規則に見えた世界のノイズは、一つの巨大な、狂いのない駆動系として誠一の脳内に立ち現れたのだ。
誠一は、ゆっくりと目を開けた。
鏡に映る自分は、相変わらずの老人だったが、その瞳だけは、かつて工場の主と呼ばれた頃の鋭い光を取り戻していた。
彼は満足げに、机の上のコピーを丁寧に畳み、胸のポケットに収めた。
部屋の外では、由紀子が夕食の準備を始めたのか、食器が触れ合う音が聞こえてくる。それは日常の、ありふれた、けれどどこか調律されたばかりの楽器のような清々しい音に聞こえた。
誠一は、自分の人生という製品に、静かに「出荷合格」の刻印を心の中で押した。
ふと、誠一は窓の外の暮れなずむ空を見上げた。
完璧な納得。非の打ち所のない調和。
だが、その静寂の余韻の中で、あまりにも冷徹な疑問が、一滴の黒いインクのように誠一の胸に落ちた。
あれほどまでに精緻で、重厚で、逃げ場のない設計。
人間の喉を金型に見立て、世界そのものを共振させるための、あの恐るべき治具。
――あのメモは一体、何だったのだろう。
読んでいただきありがとうございます。
下の★~★★★★★で評価してもらえると勉強になります。
感想などいただけると嬉しいです。
48音はこれで終話となります。
今回は第4首を見ていて閃きました。
今回は、自分の中でも様々な「実験」を取り入れて執筆しました。
改めて見直してみると、自分自身でも説明のつかない「???」な部分はありますが、不思議と手直しをしようとは思いませんでした。
職人が完璧ものを感じた時のように、「これで良い」という確かな手応えを感じられたからです。
未熟な点もあるかと思いますが、このままの形でお届けいたします。




