表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
  作者: しゅう


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

11/56

48音3

駅前の喫茶店『るびあん』の扉を押し開けると、カウベルのような乾いた音が鳴った。その安っぽい金属音が、今の誠一には自分の神経を逆なでする不協和音に聞こえた。

誠一は、店の一番奥、薄暗いボックス席に身を沈めた。注文したブレンドコーヒーは、驚くほど熱く、そして暴力的に苦かった。その苦味が、今の自分には分相応な罰のように感じられた。


「……何をやっているんだ、俺は」

誠一は、足元に置いた紙袋を忌々しげに睨みつけた。三千円も出して買った専門書と、あの四つ折りのコピー。それらは今や、好奇心に負けて分不相応な領域に足を踏み入れた愚か者の「証拠品」でしかなかった。

「いい年をして、図書館で独り言を漏らし、自分の喉を指で探る……。隣にいた学生の蔑むような目が、あれが世間の正解だ。俺はただ、役目を終えた後の巨大な空白を埋めようとして、幻を追っていただけだ」

店内に流れる、場違いな明るさの軽音楽。隣の席で主婦たちが交わす、中身のない世間話。以前なら「雑音」として切り捨てていたそれらが、今はすべて「正常な世界の音」に見えた。自分だけが、その正常な輪から外れ、調整の狂った古い機械のように独りで空回りしている。


「由紀子の言う通りだ。俺はただ、仕事がないこと、必要とされないことに耐えられないだけだ。穴の空いたバケツに必死で水を注ぐように、無意味な知識を詰め込んで、生きている実感を捏造しようとしていたんだ」

誠一は、熱いコーヒーを一気に飲み下した。食道を通る熱さが、現実的な痛みとなって彼を現世に繋ぎ止める。

「金型も、工作機械も、もう俺の手元にはない。図面を引く権利も、出荷の印を押す責任も、すべてあの工場の門を出た時に置いてきたはずじゃないか。それなのに、なぜ存在もしない『音の設計図』なんかに、残りの人生を賭けようとしている」

「俺は、壊れた旋盤だ。回転数は上がっても、刃先はどこも削っていない。ただ虚しく空気を切り裂いて、金属疲労を早めているだけの廃棄品だ」


誠一は、紙袋からあのコピーを取り出した。48の文字が並ぶ螺旋。それは今、彼を迷わせる「迷路」に見えた。

「馬鹿臭い。やめよう。……明日からは、ただの老人として生きるんだ。駅前のカフェで味の分かりきったコーヒーを飲み、新聞の隅を追い、季節の移ろいにだけ目を向ける。それが、定年という検査をパスして出荷された、元・職人の正しい余生だ」

彼は、コピーを八つ折りにし、カバンの奥深くへ、二度と目に入らない場所へと押し込んだ。

店を出る誠一の背中は、図書館へ向かう時のあの直立不動の気負いを失い、どこにでもいる、少し疲れを見せた老人のそれへと変わっていた。

「俺の人生に、もう治具ガイドはいらない。ただ、静かに摩耗していけばいいんだ」

五月の午後の日差しが、誠一の目にはあまりにも眩しすぎた。


それからの二週間、誠一は驚くほど「模範的な隠居」として振る舞った。

図書館で買った専門書は寝室の引き出しの奥、冬用の厚手の靴下の下に埋めた。あの四つ折りのコピーも、名刺入れの裏側に隠し、二度と開かないと誓った。

朝は由紀子と同じ時間に起き、共にトーストを齧り、庭の雑草を一本ずつ丁寧に抜く。昼になればテレビのニュースを漫然と眺め、午後は目的もなく近所を散歩する。かつての誠一なら「生産性のかけらもない」と切り捨てていた時間を、彼は自分に無理やり強いた。

「これでいいんだ。余計なことを考えるから、脳のバランスが崩れる。俺はもう、何も削り出さなくていい。ただの、古い置物としてそこに在ればいいんだ」

だが、静寂を求めれば求めるほど、世界の「音」は増幅され、暴力的なまでの解像度で誠一の耳を叩いた。

キッチンの水道から滴る水滴がシンクを打つ音。風呂場のボイラーが着火する際の、重低音の唸り。それらはかつてなら生活の一部に過ぎなかったが、今の誠一には、それぞれが明確な「波形」と「位相」を持った物理現象として立ち現れてくる。

「……いまの着火音。点火のタイミングがわずかに遅れている。空燃比が狂っているな。……いや、よせ。俺はもう修理工じゃない」

意識を逸らそうとすればするほど、誠一の脳は勝手に、周囲の音をあの「48音の螺旋」へと当てはめていく。

妻の由紀子がキャベツを刻む包丁のリズム。トントン、トントンという規則的な音の中に、彼は「タ」の音の鋭い破裂と、「カ」の音の喉越しのいい摩擦を聴き取ってしまう。

「ねえ、あなた。明日の午後は駅前のデパートまで付き合ってくれない?」

 由紀子の声が響く。それは誠一を愛しみ、平穏を願う優しい響きだった。だが、誠一の耳は、彼女の言葉の裏側にある「音の余韻」を冷徹に分析していた。

「彼女の言葉は、角が取れて摩耗している。……いや、彼女だけじゃない。テレビの中のアナウンサーも、通りを歩く若者も、みんな精度の低い、ガタのきた言葉パーツでやり取りをしている。これでは、本当の『響き』なんて生まれるはずがない」


誠一は、生返事をしながら自分の手を眺めた。

長年、金属の微かな振動から機械の異変を察知してきたその指先は、今や何も触れるべきものを持たず、ただ白くふやけていくのを待っているようだった。

鏡を見れば、そこに映るのは活力を失い、輪郭のぼやけた一人の老人だ。かつて工場の騒音の中で、誰よりも鋭い眼光を放っていた男の面影はどこにもない。

「俺は、錆びている。……いや、内側から腐り始めているんだ」

深夜、隣で眠る由紀子の寝息を聞きながら、誠一は闇の中で目を開けていた。

規則的な呼吸音。吸って、吐いて、一瞬の静止。そのリズムを聴いていると、不意に、あの螺旋の頂点にあった「ん」という文字が、暗闇の中で脈動を始めた。


「『ん』……。あれは単なる終わりじゃない。すべての呼吸が止まり、次の爆発を待つための、あの瞬間のことだったんじゃないのか。……俺は今、その『ん』の状態で止まったまま、火花が散るのを待っているのか?」

誠一は寝返りを打ち、耳を塞いだ。

治具ガイドを失った人生。進むべき図面のない日々。

それは、広大な海に羅針盤もなしに放り出されたような、底知れぬ恐怖だった。誠一は、自分がかつて「完璧だ」と自負して出荷した数々の金型たちのことを思った。彼らには帰るべき図面があり、果たすべき役割があった。

それに引き換え、今の自分はどうだ。

出荷された後に設計ミスが見つかり、誰にも直されることなく放置されている不良品――。

「馬鹿臭い。やめよう。……そう決めたはずだ。……なのに、なぜこんなに、耳の奥が痒い」

半月。誠一にとって、それは四十年の労働よりも長く、過酷な「空白」だった。

彼の内側では、行き場を失った職人の情熱が、出口を求めて、音もなく蓄圧を続けていた。


五月の風は、図書館の淀んだ空気とは対照的に、驚くほど透明だった。

誠一は、近所の公園のベンチに深く腰を下ろし、眩いほどの新緑を眺めていた。透過する日光が、若葉の一枚一枚をエメラルド色の薄片に変え、その隙間を縫って落ちる木漏れ日が、地面に無数の黄金の斑点スポットを描き出している。

かつてなら「綺麗だ」という一言で片付けていた光景が、今の誠一には、数千万、数億の「振動」の集積として立ち現れてきた。

「……不規則だ。設計図も、規格もない。だが、なぜこれほどまでに完璧な調和を保っている?」

風が吹くたび、木々が重なり合い、金属のヤスリをかけたような乾いた音を立てる。誠一はそっと目を閉じた。すると、半月もの間、名刺入れの裏に押し込めていたあの螺旋の図面が、瞼の裏に鮮明な残像として浮かび上がった。

 

ア、タ、カ、マ……。

 

その文字の配列が、風に揺れる葉の周期と重なる。木漏れ日の明滅が、48音の位相と同期し始める。

バラバラだった生活音の断片が、あの図面という「治具」に嵌め込まれた瞬間、誠一の脳内で凄まじい「共振」が起きた。

「そうか。あれはただの音の並びじゃない。この世界という巨大な現場を正しく駆動させるための、目に見えない規格ゲージだったんだ」

誠一の指先が、ベンチの木肌を強く掴んだ。

かつて最高精度の金型を仕上げた時の、あの「決まった」という手応え。

最後の「ん」という音。それは、全てのエネルギーを一点に凝縮し、次なる爆発的な動きへと転じるための「溜め」――エンジンのピストンが最高点に達した瞬間の、あの極限の静寂だったのだ。

「俺は、終わった製品なんかじゃない。この『型』に触れるための、長い準備期間ストロークを終えただけなんだ」

半月の間、自分を「錆びた廃棄品」だと思い込もうとしていた強固な壁が、一気に崩壊する。

誠一は、もはや躊躇わなかった。カバンから名刺入れを取り出し、八つ折りにされたあのコピーを広げた。五月の陽光に照らされたその図面は、もはや迷路ではない。彼が進むべき、唯一無二の、完璧な「工程表」として輝いていた。

「馬鹿臭い、なんて言ってる場合じゃない。俺はこの『治具』を持って、現場へ戻らなきゃならん」

誠一は、弾かれたようにベンチから立ち上がった。その背筋は、現役時代のそれよりもさらに鋭く、一本の芯が通ったように真っ直ぐに伸びていた。

読んでいただきありがとうございます。

下の★~★★★★★で評価してもらえると勉強になります。

感想などいただけると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ