48音2
翌朝、誠一は開館十五分前には図書館の玄関前に立っていた。
五月の陽光はすでに鋭さを増しており、スラックスの膝裏がわずかに蒸れる。周囲には、開館を待つ数人の老人がいたが、誠一は彼らと目を合わせようとはしなかった。彼らは時間を潰しに来ている。自分は、時間を削り出しに来ているのだ。その決定的な差が、誠一の背筋を不自然なほど直立させていた。
九時のチャイムと共に自動ドアが吸い込まれるように開く。誠一は淀みのない足取りで二階の郷土資料室へと向かった。選んだのは、窓から最も遠く、人の気配が遮断された角の席だ。
カバンから、昨日買った三千円超の専門書と、あの四つ折りのコピー、そして一本のシャープペンシルとノートを取り出す。それを机の上に配置する所作は、かつて旋盤の脇にバイトやノギスを並べた時のそれと、寸分違わぬ正確さだった。
「由紀子には『少し調べものがある』とだけ言って出てきた。彼女は、俺がようやく定年後の『趣味』でも見つけたのだと、安堵したような顔をしていたな」
誠一は、ノートの真っ白な一ページ目を睨みつけた。
「趣味、だと? 笑わせるな。俺が一度でも、人生をそんな生易しい暇つぶしで汚したことがあったか」
「これは残業だ。四十年の勤めを終えた直後に見つかった、重大な設計ミスに対するリコール作業だ。この48音という『図面』の正体を突き止めない限り、俺は自分の人生という製品に、出荷の印を押すことができない」
誠一は言語学の棚から、分厚い音韻論の事典を数冊抱えて戻ってきた。本を机に置く際、ドサリと重い音が響く。周囲の静寂を乱した自覚はあったが、誠一の心に躊躇はなかった。
「周りを見ろ。新聞の隅々まで目を走らせる老人、耳栓をして参考書を呪うように睨む学生。奴らにとってここは、現実から逃げ込むための待合室だ。だが俺にとっては違う。ここは、言葉という目に見えない部品を解体し、その構造を白日の下に晒すための精密検査場だ」
誠一は、コピーされた円環図をノートの横に固定した。中心から螺旋状に広がる48の文字。それは、昨日まではただの「ひらがな」に見えていた。しかし今、誠一の目には、それが複雑な三次元曲面を持つ金型の「断面図」として立ち現れ始めている。
「なぜ48音なんだ。なぜ、世間が当たり前のように使っている50音では足りない? その『二音』の誤差の中に、何が隠されている。その微細なズレが、俺の耳にこびりついて離れないバリの正体なのか」
誠一は、シャープペンシルの芯を一本、カチリと出した。
「い」から始まる一連の音の流れを、気体力学のベクトルとしてノートに書き写し始める。喉の開き、舌の位置、唇の抵抗。それらを、流体を通すノズルの設計図として読み替えていく。
「意味なんて追う必要はない。俺が知りたいのは、その音がどこで発生し、どこを通り、どのような圧力を伴って空間に放出されるかという『機構』だけだ」
「この表を設計した連中は、言葉を話すためだけにこれを作ったんじゃない。もっと別の、重厚で、逃げ場のない『何か』を成形するために、人間の喉という肉体を金型に仕立て上げようとしていたのではないか」
書店の店員が放った事務的な「ありがとうございました」という音。連休中の若者たちの、中身のない泥のような会話。それらすべてを、この48の型に嵌めてみる。どの音が正しく響き、どの音が型から漏れ出しているのか。誠一の頭の中で、巨大な仮想の工作機械が、静かに、しかし力強く駆動を始めた。
誠一は、事典のページを繰る指先に、かつてマイクロメーターを扱っていた時のような繊細な神経を集中させていた。
本には「言霊」や「情緒」といった、誠一にとっては何の数値的根拠もない言葉が並んでいる。彼はそれらを、検査基準を満たさない「不良品の山」でも見るかのような冷ややかな目で読み飛ばした。
「感情がこもっているとか、美しい響きだとか……そんな曖昧な設計図があるか。言葉とは、喉と舌と呼気という三つのパーツが連動して作り出す、物理的な出力結果だ。俺が知りたいのは、その音を成形するための喉の『絞り角』と、呼気の『射出圧力』だけだ」
誠一は、シャープペンシルの先で「あ・い・う・え・お」の五つの母音をなぞった。
彼にとって、母音とはエンジンのシリンダー内での共鳴であり、子音とはその流れを遮る「弁」や「ピストン」の動きだった。
「『さ』や『た』といった子音の摩擦。これは、超硬バイトが鋼を削り取る時に放つ、あの逃げ場のない高周波と同じだ。そして続く母音が、その振動を空間へと放熱し、安定させる。……なるほど、言葉の最小単位は、金型の『オス』と『メス』の嵌合と同じ構造をしているわけだ」
だが、調べれば調べるほど、目の前の48音の円環図が持つ異常な「精度」が浮き彫りになってくる。
誠一は、事典に載っている現代の五十音図と、手元の円環図を交互に睨みつけた。現代の表が、単に効率よく並べられた「部品棚」だとすれば、この円環図は、すべての部品が完璧なクリアランスで組み合わさり、今にも高速回転を始めそうな「駆動装置」に見えた。
「現代の言葉は、摩耗している。誰にでも通じるように、角が取れ、精度を落とした安物の規格品だ。だが、この48音の並びはどうだ。一つ一つの音が、前後の音と恐ろしいほどの相関を持って繋がっている」
「い、ろ、は、に……。この順序で音を紡ぐ時、呼気の流れには一点の乱れ(ロス)も生じない。流体工学の極致だ。昔の連中の中に、俺と同じか、それ以上の目を持った『設計者』がいたというのか?」
誠一の背筋に、冬の工場で冷えた鋼に触れた時のような鋭い戦慄が走った。
彼は無意識に、自分の喉に手を当てた。金型の表面を鏡面仕上げにする際、指先の腹でミクロン単位の凹凸を察知するように、自分の体という「機械」の振動を探る。
「俺たちは、この精巧な金型(48音)を喉に持ちながら、その性能の数パーセントも使いこなせていないんじゃないのか? まるで、最高級の旋盤を導入しておきながら、錆びた釘一本を削って満足しているような……そんな決定的な『使い間違い』を、俺たちは何百年も続けてきたのではないか」
その時、資料室の静寂を破って、誰かの咳払いが響いた。
誠一はハッとして顔を上げた。ノートには、音韻の周波数分布を予測した無数の数式と、気流のベクトル図が書き殴られていた。他人が見れば、言語学の研究ではなく、新型エンジンの設計図に見えるだろう。
「落ち着け。俺はまだ、この装置の『最後の一押し』に辿り着いていない」
誠一の視線は、円環の頂点に居座る、あの黒々とした一文字――「ん」へと吸い寄せられた。すべての流体(音)が流れ込み、そして行き場を失う、沈黙のブラックボックス。
「この『ん』というパーツが、なぜこの位置にある。これを解体しなければ、この48音という機械の本当の用途は見えてこない」
「ん、んん……」
無意識だった。閉じた唇の裏側で、鼻腔へと突き抜ける微かな振動を、指先の腹で喉仏に触れて確かめていた。
「47の音は、すべて外へと解き放たれるためのエネルギーだ。だが、この『ん』だけが違う。これは内側に向けられた破裂だ。すべての音をこの一点に収束させ、逃げ場を失った振動が、脳の奥、骨の芯までを揺らす」
「金型が完全に密閉され、高圧の樹脂が隅々まで行き渡るあの瞬間。……この一音は、人間という個体を一つの『完成品』として封じ込めるための、最後の締結なんじゃないのか」
誠一の指先が、微かに震える。
図書館の、空調だけが鳴り響く沈黙の中、彼の世界はこの螺旋状の図面と、自分の喉が刻む振動だけになっていた。
「俺は、こんな事をするために四十年も鋼を削ってきたのか? 目に見える物質の形を整えることで、目に見えないこの『音の型』に近づこうとしていたのか?」
その時、通路を通りかかった若い女性の利用者が、不気味なものを見るような目で誠一を一瞥し、足早に去っていった。
その靴音の、現実的な「カツカツ」という軽い音が、誠一の耳の奥に突き刺さった。
「……俺は、何をしているんだ」
誠一は、喉に当てていた手を、力なく机に下ろした。
視界が急激に広がり、自分が座っているのが、古びた図書館の、安っぽい合板の閲覧机であることを再認識させられる。周囲には、試験勉強に疲れて突っ伏して眠る学生や、趣味の園芸雑誌をぼんやりと眺める老人がいる。
彼らは、この世界の「公差」の中で、穏やかに、適当に生きている。
「馬鹿馬鹿しい。……何をムキになっている」
「金型も、工作機械も、もう俺の手元にはないんだ。そんな男が、紙切れの上の文字に数式を当てはめて、一体何の『製品』を出荷しようというんだ」
ノートに書き殴られた流体力学の数式。気流のベクトル図。それらは今、ただの老人の妄想の跡にしか見えなかった。
誠一は、乱暴に資料を閉じ、紙袋に押し込んだ。ガタガタと椅子を引く音が、静かな資料室に、あまりにも無神経に響き渡る。
「俺はもう、終わった人間なんだ。未練がましく、捨てられた設計図の残骸を漁るのはもういい」
「由紀子の言う通り、駅前のカフェで味の分かりきったコーヒーでも飲んで、時間を殺していればいいんだ。……それが、役目を終えた製品の正しい末路じゃないか」
誠一は、一度も資料室を振り返ることなく、逃げるように階段を駆け下りた。
自動ドアを抜けると、外はさらに蒸し暑さを増していた。五月の風が、湿った熱気を運んでくる。
誠一は上着を脱ぎ、丸めるようにして腕に抱えた。
「馬鹿臭い。やめよう。……こんなもの、俺の人生には何の関係もない。ただの紙切れだ」
彼は駅への道を、昨日よりもさらに速い足取りで歩き始めた。まるで、背後に立っている「48音の亡霊」から、必死に振り切ろうとするかのように。
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