命とは何か1
昭和六十二年、四月。
東北地方の朝は、春という言葉を疑いたくなるほどに冷たかった。
昨日まで風に舞っていた名残雪が、アスファルトの隅で泥を噛んで黒ずみ、アスファルトに張り付いたまま春を拒んでいる。市役所へと続く緩やかな坂道に並ぶ桜は、まだ固く閉ざされた蕾を湛え、鉛色の空の下で凍えている。その蕾の先だけが、血の気が引いた指先のように、かすかな赤みを潜ませて震えていた。
「今日から、ここなんだ」
佐藤結は、市役所の重厚な石造りの玄関を前にして、小さく息を吐いた。白い息が、新調したばかりの紺色のリクルートスーツの襟元をかすめて消える。
今朝、家を出る際、母親は「公務員なんだから、身なりだけはちゃんとしなさい」と、結のブラウスの襟を何度も直してくれた。母が握らせてくれた弁当の、ずっしりとした重みがカバン越しに腰に響く。それは期待の重さであり、同時に自由を少しだけ手放した証のようにも感じられた。
昨年、男女雇用機会均等法という耳慣れない法律が施行された。お国からの号令によって、この北の小さな市役所でも「改革」という名のさざ波が立っていることを、十八歳の彼女はまだ知らない。ただ、女性更衣室が新設されたばかりのツンとしたペンキの匂いや、廊下に響く自分のパンプスの不自然に高い音が、これまでの「男たちの城」に変化が起きていることを密やかに告げていた。廊下の隅には、古びた台帳が詰まった段ボールが山積みになり、ホコリと湿った紙の匂いが、歴史という名の重圧となって漂っている。
入庁式。
並べられたパイプ椅子の冷たさが、ストッキング一枚の脚に容赦なく伝わる。
採用職員は二十名。その中で女性は、結を含めてわずか五名だった。壇上で市長が「新しい時代の担い手として、均等法の精神を……」と型通りの祝辞を述べている間、結はどこか冷めた心地でそれを聞いていた。市長の言葉は、頭の上を通り過ぎて、高い天井で鳴くカラスの声と混ざり合っていく。隣に座る男性新入職員たちは、どこか誇らしげに背を伸ばしているが、結たち女性五名は、まるで異境に放り出された稀少な生き物のように、互いの緊張を肌で感じながら身を縮めていた。私たちは、この巨大な組織という「型」の中に、果たしてどう収まっていくのだろうか。
入庁式が終わり、私たちはそれぞれの配属先へと散っていった。
重厚な石造りの廊下は天井が高く、自分のパンプスの音だけがやけに大きく反響する。すれ違う年配の職員たちは、紺色の腕差しに厳しい目を光らせ、新入りの私を値踏みするように一瞥して通り過ぎていく。
壁には、色褪せた広報紙や、達筆すぎて読めない標語が並んでいる。この迷宮のような建物の中で、私は本当に一人の人間として機能していけるのだろうか。
配属先の「市民課」という木の看板が見えた時、心臓の鼓動はリクルートスーツを突き破らんばかりに速くなっていた。
「今日から配属になりました、佐藤結です。よろしくお願いします!」
大きな声で挨拶をすると、一斉に視線が集まった。
「お、今年の新人は元気だね」
課長の温かい言葉とともに拍手が起こる。十名ほどの職員が詰めるその部署は、独特の活気に満ちていた。カチカチと乾いた音を立てて弾かれる算盤の音、分厚い事務提要をめくる紙の音。至る所で朱肉の匂いが漂い、木製の印鑑が書類に命を吹き込むように次々と押されていく。
初日は、業務の概要を駆け足で説明され、先輩たちの動きを見学するだけで終わった。
「今日はここまで。明日からは八時半には来てね」
そう言われて退庁する際、結は夕闇に包まれ始めた庁舎を振り返った。明日からは、自分もこの大きな歯車の一部になる。その高揚感だけで、冷たい夜風も心地よく感じられた。
翌朝。
結は誰よりも早く登庁した。
まだ誰もいない執務室。自分の席に付き、これからお世話になる傷だらけの木製デスクを、そっと掌で撫でてみる。支給されたばかりの黒いボールペン、プラスチックの器に入った黄色い海綿、そして一ページも汚れていない事務日誌。彼女はその最初の一ページに、震える手で自分の名前を書き込んだ。
先輩たちが登庁し始めた頃、同じ部署の女性職員、小野寺が結を呼び止めた。
「佐藤さん、これ。袖が汚れるから着けて」
渡されたのは、紺色の「腕差し」だった。事務仕事の象徴であるそれに腕を通すと、ゴムの締め付けが「お前はまだ、一番下の使い走りだ」と言っているようで、身が引き締まる思いがした。
「さあ、まずは全員分の茶碗を温めて。これが一番大事な仕事よ」
小野寺に連れられて向かった給湯室には、十人分の異なるコップが並んでいた。
「課長はあそこの渋い湯呑み。次長は青いラインの入ったやつ。男性陣のは茶托を忘れないで。佐藤さんは、自分のを持ってきた?」
結は一つひとつのカップの特徴を必死に覚えようと、手帳を取り出してペンを走らせようとした。しかし、小野寺の手がそれを遮った。
「ダメよ。いちいちメモを取ってたら、手が止まるでしょう。仕事の流れは全部、一回で頭に入れて。メモは後で、誰も見ていない時に記録するの。それがここでのやり方」
「……はい、すみません」
結は慌てて手帳をポケットにねじ込んだ。行動の一つひとつ、目に見える景色のすべてを記録したいという新人の熱意は、ここでは「非効率」として切り捨てられるのだ。
執務室に次々と職員が入ってくる。
彼らは席に着くなり、当たり前のようにタバコに火を点けた。瞬く間に青白い煙が蛍光灯の下で層を成し、空気が濁っていく。算盤の激しい音が、朝の静寂を打ち消していく。
「佐藤さん、お茶」
「はい!」
結は給湯室で丁寧に淹れたお茶を、トレイに載せて運ぶ。海綿に指を浸して、流れるような手つきで台帳をめくる男性職員の横に、音を立てないように茶碗を置く。自分の仕事が、高校で学んだこととは無縁の「お茶汲み」から始まることに、微かな戸惑いがなかったわけではない。
八時五十分。
執務室の空気が、目に見えて張り詰め始めた。ジーッという蛍光灯の微かな異音が、静まりかえった室内に異様に響く。それまで談笑していた男性職員たちが、最後の一服を灰皿に押し付け、腕差しを直して算盤の手を止める。
課長が入って来て朝礼が開始された。
課長からの言葉は、
「市長から男女雇用均等法について……」
五分以上の長い言葉。結には何を言っているのか理解できなかった。
朝礼が終わり、各自が席に着いた。
結は、自分のデスクにある黄色い海綿に、そっと指先を押し当てた。湿りすぎてもいけない。指の腹がわずかに吸い付く程度の、その絶妙な加減を小野寺から教わったばかりだ。
ガチャン、ガチャン。
隣のデスクで、分厚い台帳に日付印を叩きつける規則的な音が始まった。それはまるで、新しい一日という「型」に、時間を刻み込んでいるかのような冷徹な音だった。
遠くで、玄関の重いシャッターが巻き上がるガラガラという音が響いてくる。それは、静かな執務室に、予測不能な「生きた人間」がなだれ込んでくる合図だった。
結は、大切に持っていた花柄のマグカップを引き出しの奥へと仕舞い込んだ。自分らしさを隠し、完璧な「公務員」という仮面を被る準備を整える。
一瞬の静寂の後、九時の時報が鳴った。
結は、デスクの引き出しの奥に忍ばせた手鏡を、そっと開いた。
そこには、緊張で少し強張ってはいるが、期待に瞳を輝かせた十八歳の自分が映っている。
「よし、頑張ろう」
鏡の中の自分に小さく頷き、結は黒いボールペンを握りしめた。
その時、窓口の重い扉が開き、最初の一人が入ってきた。
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