第9話 神様への宣戦布告
五度目の、八月十五日。
俺は、静寂の中で目を覚ました。
アラームが鳴る数分前。焼きついた体内時計が、寸分違わず俺をこの忌まわしい朝へと叩き起こす。
もう、絶望はない。怒りもない。
あるのは、燃えるような灼熱の中で、俺の脳裏に最後にひらめいた、一つの確信だけ。
『ルールそのものを、ハッキングするしかない』
そうだ。
この世界が、神様か悪魔か知らないが、何者かが作った精巧なゲームだというのなら。
プレイヤーである俺たちが、そのルールを書き換え、バグを突く。
それしか、このクソゲーをクリアする方法はない。
学校の教室。
五度目の転校生紹介を終えた綾瀬灯と、目が合った。
彼女の瞳には、もう涙も、諦めもなかった。
そこにあったのは、俺と同じ、覚悟の色だった。昨夜の炎の中で、彼女もまた、同じ結論に辿り着いたのかもしれない。
俺たちは、言葉を交わすまでもなく、互いの意志を確認した。
もはや、俺たちは共犯者じゃない。
共に神に弓を引く、革命の同志だった。
◇
放課後。写真部の部室は、作戦司令室と化していた。
俺は、ノートの新しいページを開くと、真ん中に大きくこう書いた。
『運命のからくりを、ハッキングする』
「昨日の――四度目のループで、俺たちは敵の正体を知った」
俺は、ペンでノートを叩きながら言った。
「俺たちの敵は、因果律そのものだ。いくつもの小さな偶然を連鎖させて、必ず『綾瀬灯の死』という結末に導く、世界のシステム。ドミノ倒しみたいなもんだ」
「うん……」
綾瀬さんは、固唾を飲んで俺の言葉に耳を傾けている。
「だから、ドミノが倒れ始めてから、途中で止めようとしても無駄なんだ。別の場所から、新しいドミノが倒れ始めるだけ。……二度目のループの、暴走車みたいにな」
「じゃあ、どうすればいいの……?」
「最初の一個を、倒させなければいい」
俺は、きっぱりと言い切った。
「全ての原因の、始まり。あの、からくりの最初の歯車。俺たちは、それを破壊する」
俺は、ノートに一度目の事故の連鎖を書き出していった。
①午後九時四十七分、石段の上で、男の子が赤いスーパーボールを落とす。
②母親が、男の子を捕まえる。
③その拍子に、買い物袋が落ちる。
④サラリーマンが、それを避けてよろける。
⑤スマホを見ていた女子高生に、ぶつかる。
⑥本来その場所にいたはずの、綾瀬灯が突き飛ばされて、転落する。
「……これだ」
俺は、①の項目を、ペンで力強く囲った。
「全ての始まりは、このスーパーボールだ。たったこれだけの、子供の遊びが、最終的にあんたの死に繋がっている。なら、俺たちがやるべきことは一つ。この男の子に、スーパーボールを落とさせない。それだけだ」
それは、あまりにもささやかで、馬鹿げているとさえ思える作戦だった。
世界を支配する強大な運命に、たった一個のゴムボールで立ち向かうなんて。
だが、綾瀬さんは、俺の突拍子もない作戦を、真剣な眼差しで聞いていた。
「……でも、どうやって?」
「それが問題だ」
俺は、腕を組んだ。
「無理やり取り上げたり、男の子に話しかけたりすれば、それが新しい『偶然』の引き金になって、別の、もっと予測不可能な死のドミノが倒れ始めるかもしれない」
「うん……。運命を、刺激しちゃいけないんだね」
「ああ。俺たちがやるべきは、破壊じゃない。修正だ。ごく自然に、誰にも気づかれず、最初のドミノがそこから無くなるように、そっと介入する」
俺たちは、そこから何時間も、頭を突き合わせて議論を続けた。
どうすれば、最も自然に、子供のボール遊びを止められるか。
いくつもの案が出ては、消えていった。
風船を配る屋台のふりをして、ボールと交換してもらう? いや、目立ちすぎる。
母親に話しかけて、注意を逸らす? いや、会話の内容が予測できない。
そして、長い議論の末、俺たちは一つの結論に辿り着いた。
「……これしか、ないか」
「うん。危険だけど、一番確実かもしれない」
俺たちの作戦は、こうだ。
まず、問題の親子が、九時四十七分に石段の上に現れるまで、俺たちは気配を殺して待つ。
そして、男の子がスーパーボールを地面に弾ませ始めた、その瞬間。
俺が、全く別の方向から、もっと子供の興味を引くものを、彼らの視界に投げ込む。
例えば――。
「……猫じゃらし、とか」
「いいね、それ」
猫じゃらしが、風に吹かれて偶然飛んできたように見せかけて、子供の足元に転がす。子供の注意がボールから猫じゃらしに逸れた、その一瞬の隙に。
綾瀬さんが、母親の死角から、転がっているスーパーボールを、素早く回収する。
そして、何事もなかったかのように、その場を立ち去る。
全てを、ほんの数秒で、完璧にやり遂げる必要があった。
それは、サーカスの綱渡りのような、繊細で、危険な作戦だった。
少しでもタイミングがずれれば、全てが崩壊する。
「……怖いな」
綾瀬さんが、ぽつりと呟いた。
「ああ」
「なんだか、神様の領域に、土足で踏み込んでいくみたいで」
「そうかもな」
俺は、静かに頷いた。
「でも、俺たちから全てを奪おうとするのが神様なら、そいつは俺たちの敵だ。敵に、遠慮する必要なんてないだろ」
俺は、そっと立ち上がると、窓の外を見た。
夕日が、校舎を茜色に染めている。
夏祭りが、始まる時間だ。
「行こうか」
俺は、振り返って彼女に言った。
「うん」
彼女は、覚悟を決めたように、強く頷いた。
俺たちは、写真部の部室を後にした。
五度目の、決戦の舞台へ。
ポケットには、作戦の鍵となる、百円ショップで買った、ふわふわの猫じゃらしが一つ。
そして、心には、神にさえ反逆してみせるという、燃えるような闘志を秘めて。
今日、俺たちは、被害者であることをやめる。
運命の操り人形であることを、やめる。
今宵、俺たちは、この世界の理そのものに、宣戦布告をするのだ。
たった一つのスーパーボールを奪い取るという、史上最も小さく、そして、最も壮大な革命を起こすために。