第8話 運命という名のからくり人形
四度目の夏祭りの夜。
その喧騒は、俺たちの耳にはもう届いていなかった。
行き交う人々の楽しげな笑い声も、屋台から漂う甘いソースの香りも、全てが現実感を失った、遠い世界の出来事のようだった。
俺と綾瀬灯は、明確な目的を持って、人混みをかき分けていた。
目指すは、最初の死の現場。神社裏へと続く、あの石段だ。
「ハルト、綾瀬さん! お前ら、どこ行ってたんだよ!」
案の定、悠真たちに見つかる。
「悪い、ちょっと二人で話したいことがあって」
俺は、あらかじめ用意していた言い訳を口にした。悠真は、俺と綾瀬さんの深刻な顔を見て、何かを察したらしい。
「お、おう……邪魔して悪かったな」
と、ニヤニヤしながらも、それ以上は追及してこなかった。
俺たちは、悠真たちと別れると、目的の場所へと急いだ。
石段が、見えてくる。
あの日、彼女が命を落とした場所。忌まわしい記憶が蘇り、足がすくみそうになる。
「……大丈夫か?」
隣を歩く綾瀬さんの顔は、青ざめていた。
「……うん。大丈夫」
彼女は、小さく、しかし力強く頷いた。その瞳には、恐怖と、それを上回る強い意志が宿っている。俺たちはもう、ただ怯えるだけの被害者じゃない。この狂った世界の謎に挑む、共犯者であり、探偵なのだ。
俺たちは、石段を直接上り下りする人の流れからは少し外れた、木々の影になる場所へと身を潜めた。
ここからなら、石段の最上部、ちょうど彼女が転落した辺りを、客観的に観察することができる。
俺は、カメラを構えた。
だが、シャッターを切るためじゃない。望遠レンズを、双眼鏡代わりにするためだ。
ファインダーを覗き込む。
「時刻は、午後九時四十分。……もうすぐだ」
「……うん」
綾瀬さんは、俺の隣で固唾を飲んで、石段の上を見つめている。
ファインダーの中、楽しげに行き交う人々の姿が、やけにスローモーションで見えた。老夫婦、浴衣姿のカップル、走り回る子供たち。
この中に、「運命」が仕掛けた罠がある。
一体、どんな形で、それは牙を剥くのか。
「……九時四十一分」
「……四十二分」
壁の時計の秒針のように、俺たちは時間をカウントしていく。
心臓の音が、うるさいくらいに響く。
頼むから、何も起きないでくれ、と願う心と。
早くその正体を見せろ、と渇望する心が、矛盾したまま俺の中で渦巻いていた。
「……九時四十六分。あと、一分」
その時だった。
ファインダーの中、俺は一つの変化に気づいた。
石段の最上部で、小さな男の子が、手に持っていたスーパーボールを落としたのだ。赤いボールが、カン、カン、と軽快な音を立てて、石段を転がり落ちていく。
「あ!」
男の子が、それを追いかけようと駆け出す。
「危ない!」
母親らしき女性が、慌ててその子の腕を掴んだ。
その拍子に、母親が持っていたビニールの買い物袋が、隣を歩いていたサラリーマン風の男の足元に落ちる。
「おっと」
サラリーマンは、それを避けようとして、少しだけ体勢を崩した。
その崩した体が、すぐ後ろを歩いていた、スマホを見ながら歩いていた女子高生の肩に、ドン、とぶつかった。
「きゃっ!」
女子高生は、驚いて声を上げると、スマホを落とさないように、前へとよろめいた。
――そして、その女子高生がよろめいた先こそ。
一度目のループで、綾瀬灯が、立っていたはずの場所、そのものだった。
「…………ああ」
俺の口から、声ともつかない、乾いた音が漏れた。
隣で、綾瀬さんが息を呑むのが分かった。
そうか。
そういうことか。
犯人なんて、いなかったんだ。
誰かの明確な悪意があったわけじゃない。
ただ、いくつもの、ごくありふれた「偶然」が、まるで精密に組まれたからくり人形のように、連鎖して。
たった一つの、「死」という結末へと、収束していく。
子供がボールを落とす。
母親が腕を掴む。
袋が落ちて、男がよろける。
女子高生が、ぶつかられる。
そのどれか一つでも欠けていれば、事故は起きなかった。
けれど、運命は、それら全ての駒を、完璧なタイミングで、完璧な場所に配置してみせたのだ。
まるで、神の視点を持つ脚本家が書いた、完璧なシナリオのように。
俺たちが戦っている相手は、人じゃない。
この世界を支配する、「因果律」そのものだった。
その事実に気づいた瞬間、俺は、今までのどんな恐怖とも違う、もっと根源的な、冷たい恐怖に全身を貫かれた。
「……逃げよう」
綾瀬さんが、震える声で言った。
「ああ……」
俺たちがここにいてはならない。
運命は、本来死ぬはずだった綾瀬さんが、ここにいないという「矛盾」に気づいているはずだ。
そして、その矛盾を「修正」するために、必ず、次の手を打ってくる。
俺たちは、その場から駆け出した。
どこでもいい。とにかく、この場所から離れなければ。
その、直後だった。
俺たちが身を潜めていた、すぐ頭上の木。
その、太い枝が、何の前触れもなく、メキメキッ、と不気味な音を立てたのだ。
見上げると、巨大な枝が、俺たち目掛けて、ゆっくりと、しかし確実に、落ちてくるところだった。
老朽化? それとも、虫に食われていた?
そんなはずはない。さっきまで、そんな兆候は微塵もなかった。
これもまた、「運命」の仕掛けなのか。
「うわあああああっ!」
俺は綾瀬さんの体を突き飛ばし、自分も地面を転がった。
轟音と共に、枝が地面に叩きつけられる。土煙が舞い上がり、破片が俺の頬をかすめていった。
あと一秒、判断が遅れていたら、俺たちは二人とも、あの枝の下敷きになっていただろう。
「……はぁ、はぁ……」
荒い息を繰り返しながら、俺たちは顔を見合わせた。
助かった。
そう思ったのも、束の間だった。
ヒュルルルル……。
空気を切り裂く、あの音。
花火だ。フィナーレの、最後の花火。
だが、その音は、いつもと少しだけ違っていた。
真上に上がらず、低い弾道で、明らかにこちらへと向かってきている。
まさか、打ち上げに失敗したのか?
夜空に、一瞬、閃光が走る。
それは、大輪の華などではなかった。
暴発した花火の玉が、まるで意志を持ったかのように、俺たちがいるこの森の、すぐ真上へと降り注いでいた。
一つ、また一つと、火の粉が、乾いた夏草の上に落ちていく。
そして、あっという間に、炎が燃え上がった。
「火事だ……!」
熱風が、俺たちの背中を舐める。
周囲は、瞬く間に火の海と化していた。逃げ場は、もう、どこにもない。
ああ、そうか。
石段で殺せなかったから、枝で潰そうとした。
それでも駄目だったから、今度は、焼き殺すつもりなのか。
なんて、執念深い。
なんて、残酷な。
炎に包まれ、遠ざかっていく意識の中で、俺はなぜか、ひどく冷静だった。
俺たちの敵は、悪魔だ。
絶対に、人間には勝てないように作られた、この世界のルールそのものだったんだ。
ならば。
ならば、俺たちがやるべきことは、もう、一つしかない。
――ルールそのものを、ハッキングするしかないじゃないか。
そんな、馬鹿げた考えが頭に浮かんだのを最後に、俺の四度目の八月十五日は、灼熱の地獄の中で、幕を下ろした。