第6話 運命という名の悪魔
三度目の、八月十五日が始まった。
けたたましく鳴り響くアラームを、俺は殴りつけるようにして止めた。カーテンの隙間から差し込む日差しが、今はひどく憎らしい。
壁にかけられたカレンダーの、「15」の赤い丸。俺はベッドから起き上がることすらできず、ただそれを睨みつけていた。
『綾瀬灯は、どう足掻いても、「死ぬ」』
昨夜――いや、数時間前の出来事が、脳裏に焼き付いて離れない。
石段には近づかなかった。人混みも避けた。完璧なはずの計画だった。
それなのに、世界はまるで俺たちの行動を嘲笑うかのように、全く別の形で彼女の命を奪い去った。暴走した車。落下してきた広告看板。あれは、偶然じゃない。
運命が、その強大な力で無理やり帳尻を合わせたのだ。
「死ぬ」という結末を、何としてでも実行するために。
「……くそっ」
ベッドのスプリングが軋むほど、強く拳を叩きつける。
どうすればいい。何をすれば、この悪夢から抜け出せる?
出口のない迷路に放り込まれたような、圧倒的な無力感が、鉛のように俺の体にのしかかっていた。
学校へ行っても、俺の頭は全く働かなかった。
授業の内容など、何一つ頭に入ってこない。ただ、時間が過ぎるのを待つだけ。
三度目の転校生紹介。
三度目の自己紹介。
綾瀬灯は、教壇の上から、真っ直ぐに俺を見ていた。
その瞳に浮かんでいたのは、もう諦めの色だった。希望なんてどこにもない、ただ、同じ絶望を共有する者同士の、痛々しい眼差し。
俺は、目を逸らすことしかできなかった。
◇
放課後。写真部の部室。
窓の外では、相変わらず野球部員たちの威勢のいい声が響いている。その「日常」の音が、今は俺たちのいるこの非日常的な空間とのコントラストを、より一層際立たせていた。
俺と綾瀬さんは、机を挟んで向かい合ったまま、どちらも口を開けずにいた。
重苦しい沈黙が、部屋を支配している。
先にその沈黙を破ったのは、彼女の方だった。
「……駄目、だったね」
か細い、消え入りそうな声だった。
「ああ」
俺は、それしか答えられない。
「私、死んだんだね。また。……今度は、どんな風に?」
「……事故だ。車が突っ込んできて、看板が落ちてきた」
「そっか……」
彼女は、どこか他人事のように呟いた。
「ねえ、水瀬くん。これって、もしかして、どうやっても無理なんじゃないかな」
その言葉は、俺が心の奥底で感じていた、最も恐ろしい可能性そのものだった。
「……弱音を吐くな」
俺は、自分に言い聞かせるように言った。
「諦めたら、そこで終わりだ。まだ、試してないことはいくらでもある」
「例えば?」
「……夏祭りに行かない」
「え?」
「そうだ。祭りに行かなければ、事故に遭う確率も格段に減る。人混みも、車も、危険な場所も、全部避けられる。俺たちは今日、この学校から一歩も出ない。そうすれば、さすがの運命とやらも、手出しはできないはずだ」
それは、我ながら苦し紛れの策だった。
まるで、嵐が過ぎ去るのを、ただ息を潜めて待つような、消極的で、情けない作戦。
だが、それ以外に思いつかなかったのだ。
積極的に動けば動くほど、世界は俺たちの行動を予測し、その裏をかくように新たな死のトラップを仕掛けてくる。ならば、もう何もしない。それが唯一の対抗策ではないか。
綾瀬さんは、俺の提案に、静かに首を横に振った。
「……やだ」
「なんでだよ。一番安全な方法だろ」
「だって、それじゃあ、生きてるって言えないよ」
彼女の瞳に、初めて強い光が宿った。それは、抵抗の光だった。
「死ぬのが怖いからって、部屋に閉じこもって、息を殺して、ただ時間が過ぎるのを待つだけなんて。そんなの、生きてるって言えない。私は……たとえ今日死ぬとしても、ちゃんと今日を生きたい」
「綺麗事を言うな!」
俺は、思わず声を荒らげていた。
「生き残ることが、最優先だろ! 生きてさえいれば、明日があるんだ! 俺は、あんたに死んでほしくないんだよ!」
「……!」
綾瀬さんは、俺の剥き出しの感情に、息を呑んだ。
俺自身も、自分がこれほどまでに必死になっていることに、驚いていた。
どうして、ここまで。
昨日今日会ったばかりの、転校生のために。
……違う。
違うんだ。これは、もう綾瀬さんだけの問題じゃない。
これは、過去、妹の美月を救えなかった俺自身の、贖罪のための戦いなんだ。
ここで綾瀬さんを救えなければ、俺は、今度こそ本当に壊れてしまう。
「……ごめん」
先に折れたのは、俺の方だった。
「俺は、ただ……もう、目の前で誰かが死ぬのは、見たくないんだ」
その言葉は、ほとんど嗚咽に近かった。
綾瀬さんは、何も言わなかった。ただ、そっと立ち上がると、俺の隣にやってきて、震える俺の拳の上に、自分の手をそっと重ねた。
温かかった。
生きている人間の、確かな温もりだった。
「……分かった」
しばらくして、彼女は言った。
「水瀬くんの言う通りにしよう。今日は、どこにも行かない。二人で、ここにいよう。……でも、一つだけ、約束して」
「……なんだ?」
「もし、ちゃんと明日が来たら……八月十六日の朝を迎えることができたら、その時は、私のお願い、一つだけ聞いてくれる?」
「……ああ、分かった。約束する」
俺は、彼女の手を握り返した。
この温もりを、絶対に失わせはしない。
何に代えても。
◇
そして、夜が来た。
俺たちは、写真部の部室の電気もつけず、窓から差し込む月明かりだけを頼りに、息を潜めていた。
窓の外からは、遠く、夏祭りの喧騒が聞こえてくる。楽しげな祭囃子や、人々の笑い声。それはまるで、俺たちがいるこの静寂な世界とは断絶された、別の惑星の出来事のようだった。
壁の時計の秒針が、カチ、カチ、と無機質な音を刻んでいく。
その音が、やけに大きく聞こえた。
「……綺麗だね、月」
綾瀬さんが、窓の外を見上げながら呟いた。
「ああ」
俺も、彼女の隣に並んで、夜空を見上げた。
雲一つない夜空に、満月が煌々と輝いている。
祭りの明かりも、ここからではほとんど見えない。ただ、静かな、夏の夜があるだけ。
こんな風に、誰かと二人きりで、静かな夜を過ごすのは、いつぶりだろう。
もしかしたら、生まれて初めてかもしれない。
運命の時刻、午後九時四十七分が、刻一刻と近づいてくる。
俺の心臓は、張り裂けそうなほどに高鳴っていた。
大丈夫だ。ここには何もない。車も、石段も、危険なものは何一つない。学校は、今は俺たち二人だけの、安全な聖域のはずだ。
俺は、強く、そう信じようとしていた。
「……ねえ、水瀬くん」
綾瀬さんが、俺の袖をくい、と引いた。
「ん?」
「もし、明日が来たら……私がお願いしたいこと、言ってもいい?」
「……ああ」
「……水瀬くんの、カメラで。私のこと、いっぱい撮ってほしいな」
「……」
「私、ここにいたんだよって、ちゃんと生きてたんだよって、証拠を残したいから」
彼女は、そう言って、寂しそうに笑った。
その笑顔を見て、俺は胸が締め付けられるような痛みを感じた。
彼女も、怖いのだ。俺と同じように。それでも、必死に気丈に振る舞っている。
俺は、彼女のその想いに、応えなければならない。
「……分かった。約束だ。明日になったら、嫌だって言うまで撮ってやる」
「ふふ、楽しみだな」
その時だった。
ゴゴゴゴゴ……という、地鳴りのような、低い音が、校舎の床下から響いてきた。
「……え、何? 地震?」
綾瀬さんが、不安げな声を上げる。
だが、揺れはなかった。音だけが、不気味に響き渡っている。
そして、俺は気づいた。
この音と、そして、鼻の奥をかすめる、この甘ったるい匂い。
これは――ガスの匂いだ。
「まずい、逃げるぞ!」
俺は綾瀬さんの腕を掴み、部室のドアへと走った。
旧校舎の、この写真部の部室の真下には、今はもう使われていないはずの、古い家庭科調理室がある。そこのガス管が、何らかの理由で――老朽化か、それとも、別の何かか――破損したのだ。
ドアノブに手をかける。
だが、開かない。
「くそ、なんでだよ!」
ガチャガチャと必死に捻るが、びくともしない。まるで、外から何かで固定されているかのように。
その瞬間、遠くで、ヒュルルルル……という、聞き覚えのある音がした。
窓の外。
夜空に、一筋の光が昇っていく。
夏祭りの、花火だ。
そして、夜空で大輪の華が咲いた、その直後。
世界が、閃光に包まれた。
凄まじい爆発音と、衝撃。
俺たちのいた部室の床が、一瞬にして崩落した。
宙に投げ出される、俺と彼女の体。
熱風が、肌を焼く。
薄れゆく意識の中で、俺が見た最後の光景は、俺の手を固く握りしめたまま、驚きに見開かれた瞳で俺を見つめる、綾瀬灯の顔だった。
ごめん。
ごめん、美月。
ごめん、綾瀬さん。
俺は、また、守れなかった――。
そして、三度目の世界は、轟音と共に、終わりを告げた。