第3話 夏祭りの夜
けたたましく鳴り響くアラームの音で、俺は目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む日差しは、今日という日が紛れもない真夏日であることを告げている。
壁にかけられたカレンダーの、赤い丸で囲まれた「15」の数字が、やけに強く目に焼き付いた。
「…………は?」
声が、漏れた。
思考が、追いつかない。
俺は勢いよくベッドから起き上がると、震える手でスマホを掴んだ。画面に表示されている日付は、信じられないことに、こうだった。
『8月15日 火曜日 午前7時00分』
嘘だ。
ありえない。だって、昨日は……いや、今日こそが八月十六日であるはずだ。
昨日の夜、俺は夏祭りに行った。悠真たちと合流して、そして、綾瀬灯と二人で花火を見た。その帰り道、彼女は、石段から落ちて――。
そこまで考えて、俺は息を呑んだ。
夢?
そうか、夢だ。きっとそうだ。
あまりにもリアルで、残酷な悪夢。俺の心の奥底にこびりついた、妹・美月を失った時のトラウマが、綾瀬さんという転校生の姿を借りて、俺に見せた幻覚だ。
そうに違いない。そうでなければ、説明がつかない。
俺は乱暴に頭を掻きむしり、無理やり思考を打ち切った。
キッチンへ向かうと、母親が「遥斗、おはよう。早くしないと遅刻するわよ」と、昨日と全く同じセリフを口にする。テレビから流れてくるニュースキャスターの声も、伝えている内容も、昨日と寸分違わなかった。
「……悪い夢、か」
冷たい水を一気に飲み干し、俺は無理やり自分を納得させた。
今日は終業式で、明日から夏休み。そして夜には、夏祭りがある。
そうだ。今日、これから夏祭りに行くんだ。綾瀬さんも、きっと来る。昨日の悪夢のことなんて、おくびにも出さず、いつも通りに過ごせばいい。
しかし、学校へ向かう道すがら、俺の心に巣食った違和感は、どんどんその濃度を増していった。
すれ違うトラックの運転手の欠伸のタイミング。踏切で鳴る警報音の回数。道端で井戸端会議をしている主婦たちの会話の内容。
その全てが、昨日体験したことと、全く同じなのだ。
デジャヴ、というには、あまりにも鮮明すぎる。
教室のドアを開けると、昨日と同じ喧騒が俺を迎えた。
悠真が、昨日と全く同じタイミングで俺の肩を叩く。
「おーい、ハルトー! 聞いてんのか?」
俺は、返事ができなかった。
「どうした? 寝ぼけてんのか?」
「……いや」
「で、だ。さっきの話、聞いてたか? 夏祭り」
「……」
「おう! 今年ももちろん行くだろ? なんでも、商店街のやつらがやけに気合入れてて、花火も例年より豪華になるって噂だぜ」
昨日と、同じ。
一言一句、違わない。
俺は、ぞわりと背筋が粟立つのを感じた。これは、ただのデジャヴじゃない。何か、もっとおかしなことが起きている。
そして、ホームルームの時間。
担任の山崎先生が、昨日と全く同じタイミングで、教室のドアを開けた。
その隣に立っていたのは――。
「えー、皆に紹介する。今日からこのクラスに仲間入りする、転校生だ」
違う。
違うだろ。
綾瀬さんは、昨日、転校してきたはずだ。
なのに、どうして。
教室中が「可愛い」と色めき立つ中、俺だけが、血の気の引いた顔でその光景を眺めていた。
「綾瀬灯です」
黒板に書かれた、丁寧な文字。
彼女はくるりと振り返り、クラス全体を見渡すと、昨日と同じように、ふわりと微笑んだ。
「夏休み前のこんな時期にすみません。卒業まで、短い間ですが、よろしくお願いします」
そして、彼女の視線が、真っ直ぐに俺を捉えた。
俺は、その瞳に釘付けになった。
昨日、俺が見たのは、初対面のクラスメイトに向けられた、当たり障りのない笑顔だったはずだ。
けれど、今、俺に向けられている彼女の瞳は、明らかに違う色を宿していた。
それは、困惑と、不安と、そして、ほんの少しの――仲間を見つけたかのような、安堵の色。
綾瀬灯は、俺のことを「知って」いる。
心臓が、ドクン、と大きく跳ねた。
まさか。そんなはずはない。
けれど、彼女は、昨日と同じように、誰にも気づかれないくらいに、小さくこくりと頷いてみせたのだ。
それは、「また会ったね」なんていう、甘酸っぱい合図じゃない。
「あなたも、なの?」とでも問うような、必死のサインだった。
◇
放課後。
俺は、昨日の悪夢を振り払うように、半ば強引に写真部の部室へと逃げ込んだ。
頭が混乱して、何も考えられない。
世界が狂ってしまったのか。それとも、狂っているのは俺の方なのか。
机に突っ伏していると、背後で、ギィ、とドアの開く音がした。
振り返るまでもない。そこに誰がいるのか、俺には分かっていた。
「……水瀬くん」
そこに立っていたのは、綾瀬灯だった。
彼女は、クラスで見せた笑顔の仮面を剥ぎ取り、不安げな表情で俺を見つめている。
「やっぱり、ここにいた」
「……どういうことだ、綾瀬さん」
俺の声は、自分でも驚くほどにかすれていた。
「あんたは、昨日、転校してきたはずだ。なのに、どうして今日も『初めまして』みたいな顔をしてるんだ。それに、あんたは……あんたは、昨日の夜、死んだはずだ……!」
そこまで言って、俺は自分の言葉の異常さに気づいた。死んだはずの人間が、目の前にいる。こんな馬鹿げた話があるか。
だが、綾瀬さんは、俺の言葉を否定しなかった。
それどころか、彼女はまるで、ずっとその言葉を待っていたかのように、ほっと息を吐いた。
「……やっぱり、水瀬くんも、覚えてるんだね。『昨日』のこと」
「『昨日』……?」
「うん」
彼女は、震える声で言った。
「私も、覚えてる。昨日、このクラスに転校してきて、水瀬くんに会って、夏祭りに行って……そして、石段から落ちて……」
彼女の顔が、恐怖に歪む。
「……気づいたら、今朝だった。自分の部屋のベッドの上。カレンダーは、八月十五日を指したまま。全部、夢だったんだって思おうとした。でも、学校に来たら、みんな『初めまして』って顔で私のことを見る。まるで、昨日なんて一日、存在しなかったみたいに」
彼女は、俺の目の前まで歩み寄ると、懇願するような目で俺を見た。
「ねえ、水瀬くん。今、何が起こってるの? 私、頭がおかしくなっちゃったのかな?」
違う。
頭がおかしいのは、彼女じゃない。
この世界の方だ。
「……ループ、してるのか」
俺は、誰に言うでもなく呟いた。
映画や小説でしか見たことのない、非現実的な単語。
けれど、それ以外に、この現象を説明する言葉が見つからなかった。
「ループ……?」
「ああ。俺たちの世界は、八月十五日を繰り返してるんだ。何らかの理由で」
そして、その理由も、俺には何となく見当がついていた。
トリガーは、一つしか考えられない。
「……あんたの、死だ」
「え……?」
「あんたが死んだから、世界が巻き戻ったんだ。きっと、そうだ」
恐ろしい仮説。だが、妙な説得力があった。
綾瀬灯が死ぬ、という結末を迎えたから、神様か何かが、世界を「やり直し」させた。まるで、壊れたゲームをリセットするように。
そして、その記憶を保持しているのは、この世界でただ二人。
俺と、彼女だけ。
「そんな……」
綾瀬さんは、信じられない、というように首を横に振った。
無理もない。俺だって、信じたくない。
けれど、これは現実なのだ。
俺たちは、終わらない八月十五日に閉じ込められてしまった。
出口は、一つ。
「……綾瀬さん。あんたが、死ななければいいんだ」
「……」
「今日の夜、夏祭りで、あんたが石段から落ちなければ、きっと、明日はちゃんと八月十六日になる」
「……できるの? そんなこと」
「やってみるしかないだろ」
俺は、固く拳を握りしめた。
理由は分からない。どうして俺たちがこんな現象に巻き込まれたのかも。
だが、やるべきことは、はっきりしていた。
もう、二度と、目の前で誰かを死なせたりはしない。
美月の時、俺は無力だった。ただ泣くことしかできなかった子供だった。
でも、今は違う。
やり直せるチャンスが、ある。
「綾瀬さん、協力してくれ。俺一人じゃ、無理だ」
俺は、真っ直ぐに彼女の目を見て言った。
彼女は、しばらくの間、俺の顔をじっと見つめていたが、やがて、小さな、しかし力強い意志を宿した瞳で、こくりと頷いた。
「……うん。分かった」
こうして、俺と彼女の、奇妙な共犯関係が始まった。
終わらない夏から抜け出すための、たった二人の、孤独な戦いが。
この時の俺は、まだ知らなかった。
このループが、どれほどまでに残酷で、そして、どれほどまでに俺たちの心を蝕んでいくことになるのかを。