第2話 夏に呼ばれた少女
転校生の綾瀬灯は、驚くほど早くクラスに溶け込んでいった。
まるで、ずっと昔からそこにいたみたいに。
彼女はいつも誰かの輪の中にいて、絶えず笑顔を浮かべていた。休み時間になれば、男子も女子も関係なく彼女の席に集まってくる。どこから来たの、前の学校はどんなところ、彼氏はいるの。矢継ぎ早に飛んでくる質問にも、彼女は嫌な顔一つせず、時にユーモアを交え、時に巧みにはぐらかしながら、その全てを乗りこなしていた。
完璧なコミュニケーション能力。非の打ちどころのない、理想の転校生。
だが、俺には分かった。
いや、ファインダー越しに世界を覗く癖がついてしまった俺だからこそ、気づけたのかもしれない。
ふとした刹那、会話が途切れた一瞬に、彼女の表情からすっと色が抜け落ちる瞬間があることを。誰にも向けられていないその横顔は、まるで遠い場所に取り残された子供のように、途方もない孤独を映し出していた。
そして、誰かの視線に気づくと、また慌てて完璧な笑顔の仮面を貼り付けるのだ。
綾瀬灯は、その明るさの裏側に、何かとても深くて暗いものを隠している。
俺は、カメラを構えるまでもなく、直感的にそう感じていた。
「おいハルト、ぼーっとしてないでお前も来いよ」
昼休み。いつものようにカメラ雑誌を読んでいた俺の腕を、佐伯悠真がぐいと引っ張る。引きずられていった先は、案の定、綾瀬さんを中心とした人だかりだった。
「紹介するぜ綾瀬さん、こいつが俺の親友のハルト! 見ての通り無口で愛想なしのコミュ障だけど、根はいい奴なんだ」
「悠真、余計なこと言うな」
「へえ、水瀬くん」
綾瀬さんは俺を見て、くすりと笑った。その瞳が、昨日踏切で向けられた悪戯っぽい光を帯びる。
「佐伯くんからいつも話聞いてるよ。『俺の親友はカメラの腕だけは天才的なんだ』って」
「ちょ、おい綾瀬さん! なんでそれをバラすんだよ!」
慌てる悠真を見て、周りがどっと笑う。俺は気まずさにどうしていいか分からず、ただ黙って頭を掻いた。
「……別に、天才ってわけじゃない。ただの趣味だ」
「謙遜しちゃってまあ。こいつ、マジですごいんだぜ? 町のフォトコンテストで賞取ったりしてんだから」
「すごいね、写真かあ。素敵だな」
綾瀬さんは、真っ直ぐに俺の目を見て言った。その視線に射抜かれて、俺は思わず目を逸らしてしまう。心臓が、またあの時みたいに跳ねた。
「……ありがとう」
何か気の利いたことの一つでも返せればいいのだが、生憎と俺にはそんなスキルは備わっていない。結局、絞り出したのはそんな素っ気ない一言だけだった。
綾瀬さんは、そんな俺の態度を気にするでもなく、ただ面白そうに俺を見つめていた。彼女の瞳に見つめられていると、まるで心の奥底まで全部見透かされてしまうような、そんな不思議な感覚に陥る。
この人は、一体何者なんだろう。
知りたい、という欲求が、夏の入道雲のように、俺の心の中でむくむくと膨れ上がっていくのを感じていた。
◇
放課後の、蒸し暑い空気の中。
俺は、ほとんど使われていない旧校舎の一室、写真部の部室でカメラの手入れをしていた。といっても、部員は俺一人。実質、俺の私物置き場と化している。使い古した机の上で、レンズを専用の布で拭いていると、背後でギィ、とドアの開く音がした。
「……水瀬くん、いた」
振り返ると、そこに綾瀬灯が立っていた。
夕方の西日が彼女の背後から差し込み、その輪郭を淡い金色に縁取っている。まるで、一枚の絵画のようだった。
「綾瀬さん……。どうしてここが」
「佐伯くんに聞いたの。『水瀬くんなら、きっとあそこにいる』って」
彼女はそう言って、躊躇うことなく部室に入ってきた。埃っぽい部屋の中、彼女の周りだけ空気が澄んでいるように錯覚する。
「探し物?」
「ううん。水瀬くんを探してた」
「俺を?」
「うん」
彼女はこくりと頷くと、俺の目の前までやってきて、机の上に広げられたカメラのパーツに興味深そうに目を向けた。
「……あのさ」
俺は意を決して口を開いた。
「昨日のこと、ごめん。踏切で、勝手に撮ったりして」
「ううん」
彼女は首を横に振った。
「謝らないで。撮られてるの、気づいてたから」
そして、顔を上げて俺を見た。
「それより、見せてほしいな。どんな写真になったの?」
「いや、あれは……」
失敗作だ、と言いかけて、やめた。彼女にそんな言い訳は通用しないような気がした。俺は黙ってカメラの電源を入れ、再生ボタンを押す。液晶モニターに、昨日の写真が映し出された。
ピントは甘く、少し手ブレしている。けれど、彼女のあの儚げな表情と、瞳の奥の強い光は、確かにそこに捉えられていた。
綾瀬さんは、小さな画面をじっと見つめていた。長い沈黙。俺は、彼女が何を思うのか分からず、息を詰めてその横顔を見ていた。
やがて、彼女はぽつりと呟いた。
「そっか……。私、こんな顔してたんだ」
「……ごめん、変な顔に撮って」
「ううん、違うの」
彼女は顔を上げた。
「なんだか、すごく正直な写真だね、って思っただけ。私が普段、誰にも見せてない顔、ちゃんと写ってる」
そう言って、彼女は寂しそうに微笑んだ。
その笑顔は、教室で見せる完璧なそれとは全く違う、彼女の本当の心の一部が零れ落ちたような、そんな気がした。
「なあ、綾瀬さんは、どうしてこの町に?」
気づけば、そんな言葉が口をついて出ていた。
彼女は少しだけ驚いたように目を丸くした後、窓の外に視線を移した。グラウンドから聞こえる野球部の掛け声と、遠くに聞こえる教会の鐘の音。喧騒と静寂が入り混じる、放課後の空気。
「さあ、どうしてだろうね」
彼女は、まるで自分自身に問いかけるように言った。
「……呼ばれたのかも。この町の、夏に」
その答えは、答えになっていなかった。けれど、それ以上踏み込むことを許さない、不思議な響きがあった。
彼女は一体、何を見て、何を感じて、今ここにいるんだろう。
もっと知りたい。もっと、君のことを。
そんな感情が、夏の熱に浮かされたみたいに、俺の頭をぼうっとさせた。
◇
やがて、終業式が終わり、俺たちの最後の夏休みが始まった。
受験生といえど、どこか浮き足立つ空気の中、俺のスマホには悠真から「夏祭り、マジで来ねえの?」というメッセージが日に何度も届いていた。俺はそれに曖昧なスタンプを返すだけで、まだ心を決めかねていた。
行きたくないわけじゃない。ただ、怖いのだ。
あの日の記憶が、夏の郷愁と共に蘇ってくるのが。
『お兄ちゃん、早く! りんご飴、売り切れちゃうよ!』
『分かってるよ、美月。走ると危ないぞ』
『だって、花火も始まっちゃうもん! 一番良い場所、取らなきゃ!』
手を引かれ、人混みをかき分けて進む。幼い妹のはしゃいだ声。綿菓子の甘い匂い。夜空を焦がす大輪の花。
それが、俺が覚えている、美月との最後の夏祭りの記憶だった。
この思い出に浸ると、その後に訪れた絶望的な喪失感が、必ずセットで心を苛むのだ。だから、俺はずっと夏祭りから逃げ続けてきた。
そんな俺の元に、一通のメッセージが届いた。
『水瀬くんは、夏祭り、行くの?』
送り主は、綾瀬灯だった。
クラスのグループLIMEで、いつの間にか連絡先を交換していた。短い文章。スタンプも何もない、シンプルな問いかけ。
なのに、その一行が、俺の心を大きく揺さぶった。
彼女も、夏祭りに行くんだろうか。
あの白いワンピースを着て、夜店の明かりに照らされて、笑ったりするんだろうか。
その姿を、見てみたい。
そして、もし叶うなら――この手で、写真に収めてみたい。
気づけば、俺は悠真に電話をかけていた。
『もしもしハルト? どうした、やっと行く気になったか!』
「……ああ。俺も、行くよ。夏祭り」
『お、マジか! よっしゃ! じゃあいつもの神社の前で七時に集合な!』
電話を切った後、俺は綾瀬さんに『俺も行くつもりだよ』とだけ返信した。すぐに「そっか、楽しみだね」と、猫が笑っているスタンプ付きで返事が来た。
それだけのやり取りで、俺の心は驚くほど軽くなっていた。
今年だけは、行ってみよう。過去に背を向けるのではなく、過去と共に、今の夏を生きてみよう。
綾瀬灯という転校生が、俺の固く錆びついていた心の扉を、いとも簡単にこじ開けてしまったようだった。
そして、運命の日は、やってきた。
八月十五日。
けたたましく鳴り響く目覚まし時計の音で、俺は目を覚ました。カーテンの隙間から差し込む日差しは、今日という日が紛れもない真夏日であることを告げている。
壁にかけられたカレンダーの、赤い丸で囲まれた「15」の数字が、やけに強く目に焼き付いた。
この一日が、これからの俺の全てを決定づける、長い長い一日になるなんて。
この時の俺は、まだ知る由もなかった。