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第19話 幸運という名のバグ

あの、終わらない夏が過ぎ去り、季節はゆっくりと、しかし確実にその色を変えていた。

アスファルトから立ち昇っていた陽炎(かげろう)は姿を消し、代わりに空はどこまでも高く、澄み渡っている。時折、教室の窓を吹き抜けていく風は、秋の匂いを運んでくるようになった。

俺、水瀬(みなせ)遥斗(はると)の日常は、驚くほどに穏やかだった。

けたたましいアラームの音に絶望することも、カレンダーの日付に怯えることもない。当たり前のように朝を迎え、当たり前のように学校へ行き、当たり前のように、隣の席に座る彼女の横顔を眺める。

その、当たり前が、どれほどまでに尊く、かけがえのないものか。

俺は、身をもって知っていた。


「……また見てたでしょ」


不意に、隣の席の綾瀬(あやせ)(あかり)が、教科書から顔を上げずに、小さく呟いた。


「見てない」

「うそ。視線、すごく感じた」

「気のせいだろ」


俺は、素っ気なく答えながら、ノートの隅に意味のない落書きを走らせる。耳が、少しだけ熱い。

彼女は、くすくすと楽しそうに笑った。


「まあ、いいけど。……放課後、どうする? この前新しくできたカフェ、行ってみない?」

「いいな。行くか」


そんな、ありふれた恋人同士の会話。

あの夏、俺たちが命を懸けて手に入れた、宝物のような時間だった。

ループの中で起きた出来事は、今では俺と彼女だけの、切なくも大切な秘密だ。時々、二人で顔を見合わせては、あの時の苦労を思い出して笑い合う。それは、他の誰にも理解されない、俺たちだけの特別な絆の証だった。


放課後。

俺は、久しぶりに、写真部の部室でカメラを手に取っていた。

あの夏以来、人を撮ることへの恐怖は、すっかり消え失せていた。いや、むしろ、撮りたくて仕方がない。

特に、目の前で微笑む、この世界でたった一人の、俺の被写体を。


「はい、こっち向いて」


ファインダーを覗き込みながら言うと、灯は少しだけ照れたように、でも、嬉しそうにポーズを取った。

西日が差し込む部室。舞い上がる埃さえもが、光の粒子となってきらきらと輝いている。

カシャ。

シャッターを切る。

液晶モニターに映し出された彼女は、ループの中で俺が見た、どんな表情とも違っていた。

孤独も、不安も、恐怖も、どこにもない。

ただ、ひたすらに幸福で、穏やかで、そして、俺への信頼に満ちた、柔らかな笑顔。

これだ。

俺が、守りたかったものは。

妹の美月(みつき)が、その命と引き換えにしてまで、繋いでくれた未来は、確かに、この一枚の写真の中にあった。



新しくできたカフェ、というのは、駅前の商店街の路地裏にひっそりと佇む、お洒落な店だった。

俺と灯は、テラス席に座り、他愛ない話をしながら、甘いケーキを頬張っていた。


「んー、美味しい!」


幸せそうに目を細める灯の姿を、俺は、ただぼんやりと眺めていた。

この時間が、永遠に続けばいい。

ループなんていう歪んだ形ではなく、ただ、この穏やかな時間が、一日、また一日と、当たり前に積み重なっていけばいい。

そう、心の底から願っていた。


その、時だった。

事件は、本当に、何の前触れもなく起きた。


「危ないっ!!」


誰かの叫び声。

俺がハッと顔を上げると、一台のロードバイクが、猛スピードで、俺たちのいるテラス席に向かって突っ込んできていた。乗っている学生は、必死にブレーキをかけようとしているが、どうやら故障しているらしい。その顔は、恐怖に引きつっている。

まずい。

このままでは、灯に、直撃する。

俺は、咄嗟に立ち上がり、彼女を庇おうと腕を伸ばした。

だが、間に合わない。

自転車は、もう、灯の数メートル手前まで迫っていた。

あの夏の、悪夢のような光景が、脳裏をよぎる。石段から転落する彼女の姿。暴走車。ガス爆発。

またか。

また、俺は、守れないのか。

運命は、まだ、彼女を殺すことを諦めていなかったというのか。


「――え?」


だが、俺の絶望は、奇妙な形で裏切られた。

猛スピードで突っ込んできたはずの自転車が。

灯の、ほんの数ミリ手前で。

まるで、分厚いガラスの壁にでも激突したかのように、ガツン、という鈍い音を立てて、不自然に、止まったのだ。

そして、その勢いのまま、運転していた学生だけが、放物線を描いて宙を舞い、地面に叩きつけられた。

自転車は、まるで何事もなかったかのように、その場に、ことり、と倒れた。


「……きゃっ!」


灯は、ようやく事態に気づいて、小さな悲鳴を上げた。

周囲は、一瞬にして騒然となる。店の人間が飛び出してきて、倒れた学生に駆け寄っていく。幸い、学生はすぐに意識を取り戻し、打撲程度の軽傷で済んだようだった。

俺は、そんな周囲の騒ぎも耳に入らず、ただ、呆然と、その光景を見つめていた。

今の、は何だ?

偶然か?

いや、違う。物理法則を、完全に無視していた。あんな止まり方は、ありえない。

まるで、世界が、彼女を守るためだけに、無理やり、ルールを捻じ曲げたような……。


「……びっくりしたね。でも、運が良かったあ」


灯は、胸を撫で下ろしながら、あっけらかんと言った。


「……ああ」


俺は、曖昧に頷くことしかできなかった。

彼女は、気づいていない。今の現象の、異常性に。

俺の心の中に、あの夏とは質の違う、冷たくて、得体の知れない不安の種が、ぽつり、と落とされた。



その不安は、数日後、確信へと変わった。

学校の帰り道。俺と灯は、駅前の大通りに新しく建設中のビルの前を通りかかった。

その時、俺は見てしまった。

俺たちの、遥か頭上。工事用の足場の上で、作業員が誤って、一本の鉄パイプを落としたのを。

それは、重力に従って、真っ直ぐに、灯の頭上へと吸い込まれるように、落下してくる。


「灯っ!!」


俺は、叫びながら彼女を突き飛ばそうとした。

だが、それよりも早く、ありえないことが起きた。


どこからともなく、突風が、ビル風とは明らかに違う軌道で、渦を巻くように吹き荒れたのだ。

その風に煽られて、工事現場のフェンスに立てかけられていた、一枚の大きなベニヤ板の看板が、バタン、と大きな音を立てて、倒れた。

そして、その看板が。

まるで、彼女を守るための盾であるかのように、灯の頭上に、覆いかかぶさった。

直後、甲高い金属音と共に、鉄パイプが、その看板を貫いた。

もし、看板がなければ、今頃、灯の頭が、貫かれていたはずだ。


「……わ、私、また運が良かったみたい……」


腰を抜かした灯が、震える声で言った。

だが、俺は、それどころではなかった。

俺の視線は、別の場所へと注がれていた。

看板が倒れた、その先に。

たまたま通りかかった、別の学校の女子生徒が、倒れた看板の角に足をぶつけ、うずくまっていたのだ。


「痛っ……!」


幸い、大した怪我ではなさそうだったが、彼女の足首は、赤く腫れ上がっている。


――その光景を見た瞬間、俺は、全てを理解した。


これは、幸運などではない。

これは、呪いだ。

あの夏、俺たちが、運命をハッキングし、「綾瀬灯の死」という結末を、無理やり書き換えた。

その結果、この世界に、一つの、致命的な「バグ」が生まれてしまったのだ。

『綾瀬灯は、決して死なない』

という、絶対的なルール。

世界は、そのルールを遵守するために、あらゆる物理法則を捻じ曲げ、奇跡を起こして、彼女を護る。

だが、その奇跡には、必ず「代償」が伴う。

捻じ曲げられた運命の皺寄せは、必ず、周囲の誰かが、不幸という形で支払わされるのだ。

灯が「幸運」であればあるほど、この世界には、少しずつ、不幸の総量が、蓄積されていく。


俺たちは、運命に勝利したのではなかった。

ただ、もっと厄介で、巨大な呪いを、この世界に解き放ってしまっただけだったのだ。

俺は、何も知らずに自分の幸運を安堵する灯の隣で、血の気が引いていくのを感じていた。

言えない。

こんな、残酷な真実を、どうして彼女に告げられる?

だが、このままでは、いつか、取り返しのつかないことが起きる。

俺たちの起こした奇跡の代償として、誰かが、死ぬかもしれない。


俺は、固く、拳を握りしめた。

穏やかな日常は、幻想だった。

俺たちの戦いは、まだ、何一つ、終わってはいなかったのだ。

今度の敵は、死の運命なんかじゃない。

俺たちが、自らの手で生み出してしまった、この世界の「バグ」そのものだった。

俺は、空を仰いだ。

秋の、高く澄み切った空が、今はひどく、不気味に見えた。

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