第18話 夏凪のセカイの、その先へ
あれから、数日が過ぎた。
八月十五日という呪縛から解き放たれた世界は、当たり前のように時を刻み、夏休みはゆっくりと、その終わりへと向かっていた。
学校の補習授業。
教室の窓から見える入道雲は、心なしか、以前よりもその勢いを失っているように見えた。
「で、結局お前ら、あの夏祭りの夜、二人でどこで何してたんだよ」
前の席から振り返った悠真が、ニヤニヤしながら聞いてくる。机に突っ伏していた俺の隣で、綾瀬灯は、くすりと悪戯っぽく笑った。
「んー、それは、私と水瀬くんだけの秘密」
「うわ、出た! 絶対なんかあっただろ!」
騒ぐ悠真を、俺は穏やかな気持ちで眺めていた。
説明なんて、できっこない。
俺たちが、五日間のループの中で、死と絶望と戦い、時を超えた真実に辿り着いたなんて。誰も知らない、二人だけの、そして、今はもういない妹と、その親友を加えた四人だけの、壮大な秘密。
それで、いい。
放課後、俺は、久しぶりにカメラを手に取った。
写真部の部室。俺たちの司令室だったその場所で、俺は、窓辺に立つ灯に、ファインダーを向けた。
夕方の柔らかい光が、彼女の髪を蜂蜜色に透かしている。
以前の俺なら、きっと、この光景に妹の美月の面影を重ねて、感傷に浸っていただろう。
だが、今は違う。
ファインダー越しに見えるのは、紛れもない、綾瀬灯という一人の少女の、かけがえのない「今」だった。
カシャ。
乾いたシャッター音が、静かな部屋に響いた。
液晶モニターに映し出された彼女は、少しだけ驚いたように、でも、最高に綺麗に、笑っていた。
◇
数日後、相沢美咲さんから、俺にメッセージが届いた。
『今度、息子と一緒に、美月ちゃんのお墓参りに行ってもいいかな?』
短く、『はい、ぜひ』とだけ返信した。
彼女もまた、長い後悔の夜から、ようやく朝を迎えようとしていた。
夏休みが、終わる、最後の日。
俺と灯は、二人で、美月が眠る、小高い丘の上のお墓を訪れていた。
蝉の声はもう聞こえず、涼やかな秋の風が、コスモスの花を揺らしている。
俺は、墓石の前に、美月が好きだったラムネと、そして、全ての始まりとなった、あの赤いスーパーボールを供えた。
「……美月」
俺は、静かに語りかけた。
「お前が救った未来は、ちゃんと、ここにあるぞ。……すげえな、お前は。俺の、自慢の妹だ」
隣で、灯も、静かに手を合わせていた。
「美月ちゃん、ありがとう。……あなたのぶんまで、私、ちゃんと、幸せに生きるから。だから、見ててね」
彼女が顔を上げた時、その瞳は、涙で潤んでいたけれど、とても強く、澄みきっていた。
俺たちは、しばらくの間、眼下に広がる町の景色を、黙って眺めていた。
どこまでも青い空。きらきらと輝く海。俺たちが、守り抜いた、この世界。
「……なあ、綾瀬」
俺は、意を決して、隣に立つ彼女に向き直った。
「俺は、お前が好きだ」
風が、俺たちの間を吹き抜けていく。
「妹が救った命だからとか、そういうのじゃない。俺は、綾瀬灯っていう、一人の女の子に、救われたんだ。だから、これからも、ずっと、隣にいてほしい」
灯は、驚いたように目を見開いた後、ふわりと、花が綻ぶように、笑った。
「……うん」
その一言だけで、十分だった。
「私も、水瀬くんが好きだよ。ううん……遥斗くんが、好き」
俺たちは、どちらからともなく、そっと、手を繋いだ。
帰り道。俺たちは、あの白い廃灯台がよく見える、岬の公園に立ち寄った。
夕日が、水平線へと沈んでいく。
終わらない夏は、終わった。
ループを繰り返した、あの静かな夏凪のセカイの中で、僕らは絶望し、抗い、そして、かけがえのない真実を見つけた。
君は、妹が命を懸けて遺してくれた、希望の光だった。
そして、いつしか、僕自身の光にもなっていた。
だから、この新しい世界で、君はもう一度、何度でも、強く、美しく、輝いていく、瞬いていくんだ。
俺は、もう、ファインダー越しに世界を覗くことはしない。
この目で、しっかりと、隣で微笑む君の姿を、焼き付けていく。
繋いだ手に、力を込める。
僕たちの、本当の夏は、きっと、ここから始まる。
新しい季節の、始まりの匂いがした。




