第17話 命の恩人
相沢美咲さんの言葉が、夕暮れの部屋の静寂に、鋭く突き刺さった。
『あなた、そっくりなのよ。あの時、美月ちゃんが、私と一緒に、川から引き上げてくれた、見知らぬ、小さな女の子の顔に……』
「――え……?」
俺と綾瀬灯は、同時に、凍りついた。
綾瀬さんが、自分の顔を指差す。
「……わ、たし……?」
「うん……」
美咲さんは、確信に満ちた目で、力強く頷いた。
「間違いないわ。あの日、あの場所に、あなたは、いたのよ」
灯の顔から、血の気が引いていくのが分かった。
「嘘……。だって、私、この町に来たのは、この夏が初めてのはず……。それに、そんな記憶、どこにも……」
彼女の声は、か細く震えていた。自分の知らない過去を、突然目の前に突きつけられた人間の、当然の反応だった。
俺は、混乱する頭で、必死に思考を巡らせた。
美月が助けた、もう一人の少女。
それが、綾瀬灯?
そんな馬鹿な偶然があるか? いや、この夏、俺たちが経験してきたことは、偶然という言葉では到底説明できない奇跡と運命の連続だったじゃないか。
「詳しく、聞かせてください」
俺は、前のめりになって美咲さんに詰め寄った。
「あの日、一体何があったんですか。俺は、美月が川に落ちたところしか見ていない」
「……うん」
美咲さんは、遠い目をして、あの日の光景を思い出すように、ゆっくりと語り始めた。
「私が川に落ちて、美月ちゃんが私を助けようとしてくれた、その時だったの。少し離れた浅瀬で、同じように遊んでいた、別の女の子がいた。その子も、私たちのすぐ後で、足を滑らせて、川に流されかけていたのよ」
「……!」
「美月ちゃんは、本当に、すごかった。パニックになってもおかしくないのに、彼女は、最後の力を振り絞って、私と、その女の子を、二人まとめて岸の方へぐっと突き飛ばしてくれた。……そして、自分だけが、力尽きて、川の真ん中へと流されていって……」
彼女は、再び、声を詰まらせた。
「私は、ショックで気を失いそうになって、周りの大人に助けられたから、その後、あの子がどうなったのかまでは、分からなかった。ただ、助けられる間際に見た、怯えた瞳だけが、ずっと、忘れられなくて……」
灯は、美咲さんの話を、呆然としたまま聞いていた。
やがて、彼女は、何かを思い出すように、ぽつり、と呟いた。
「……私、小さい頃の記憶が、あまりないんです」
「え……?」
「両親が、事故で亡くなって……。その時のショックで、事故の前後の記憶が、ほとんど抜け落ちてる。……お医者様には、心的外傷による解離性健忘だって」
彼女が、ループの中で時折見せていた、あの寂しさの正体。
それは、家族を失ったという、あまりにも大きな喪失感から来るものだったのだ。
「……その、ご両親の事故って、いつ……」
俺が、恐る恐る尋ねる。
灯は、答えた。
「……夏でした。確か、私が小学校低学年の頃の……家族旅行の、帰り道だったって、親戚から聞いています」
――家族旅行。
――夏。
全てのピースが、音を立てて、はまった。
灯は、あの日、偶然、この町を訪れていたのだ。
そして、あの川で、美月と美咲の事故に巻き込まれ、美月に命を救われた。
だが、その直後か、あるいは同じ旅行中に、別の事故で両親を亡くし、そのあまりのショックで、美月に助けられたという、命に関わる重大な記憶さえも、心の奥底に封印してしまった。
「……まさか」
灯は、震える手で、首にかけていた小さなロケットペンダントを、ぎゅっと握りしめた。それは、彼女がいつも、お守りのように身につけていたものだった。
彼女は、ゆっくりと、その蓋を開ける。
中に入っていたのは、一枚の、古くて小さな写真だった。
ひまわり畑を背景に、幸せそうに笑う、若い夫婦。そして、その二人に抱きかかえられた、幼い頃の、綾瀬灯。
彼女は、その写真を、テーブルの上に置いた。
美咲さんが、その写真を覗き込み、息を呑む。
「……この場所……」
写真の背景に写り込んでいる、黄色いひまわり畑。
それは、この町の、夏の風物詩でもある、港の近くの丘にある公園の風景だった。
間違いない。
あの日、綾瀬灯は、この町に、いた。
これで、全ての謎が解けた。
ループの、本当の目的。
それは、俺と美咲さんの後悔を解き放つためだけじゃない。
美月に命を救われたにも関わらず、その事実さえも忘れてしまった灯に、その尊い記憶を思い出させるため。
美月の、優しくて、勇敢で、自己犠牲に満ちた、最後の行動。
その記憶を、あの日あの場所にいた、全ての関係者が、正しく受け継ぎ、未来へと繋いでいくこと。
それこそが、この夏に起きた、長くて短い奇跡の、本当の意味だったのだ。
「……そっか」
灯の瞳から、一筋、涙がこぼれ落ちた。
でも、それは、悲しみの涙ではなかった。
「……私、助けられてたんだ。……美月ちゃんに」
彼女は、俺と美咲さんに、向き直った。そして、深く、深く、頭を下げた。
「……思い出させてくれて、ありがとう」
そして、ゆっくりと顔を上げると、まるで、この部屋のどこかにいるはずの、妹に語りかけるように、空を見上げて、微笑んだ。
「美月ちゃん。……本当に、ありがとう」
その笑顔を見て、俺は、ようやく、全てを理解した。
綾瀬灯。
彼女は、妹が、その命と引き換えにしてまで、この世界に残した、希望の光そのものだったんだ。
だから、俺は、ループの中で、あんなにも必死に、彼女を守ろうとしたのだ。
魂が、覚えていたのかもしれない。
彼女こそが、俺の妹が繋いだ、未来そのものである、と。
全ての呪縛が解けた、静かな夜。
俺と灯は、相沢さんの家を後にした。
帰り道、俺たちは、何も話さなかった。
だが、沈黙は、少しも気まずくなかった。
ただ、隣を歩く彼女の存在が、とてつもなく愛おしい。
妹が救った、この命を。
今度は、俺が、一生をかけて、守っていきたい。
そんな、新しい決意が、夏の夜空の星のように、俺の胸の中で、静かに輝き始めていた。
物語は、まだ終わらない。
本当の物語は、ここから、始まるのだから。




