第16話 港の近くの白い家
夕暮れが、町全体を優しいオレンジ色に染め上げていた。
俺と綾瀬灯は、港へと続く坂道を駆け下りていた。潮の香りが、夏の終わりの少し寂しい空気と混じり合って、俺の胸を締め付ける。
妹が遺した、一枚の絵と、数行の手紙。
それが、俺たちを最後の目的地へと導く、唯一の羅針盤だった。
『港の近くの、白い家』
『おかあさんがピアノの先生』
その手がかりを頼りに、俺たちはすぐに目的の家を見つけ出すことができた。
少し古いが、手入れの行き届いた、可愛らしい洋館。門柱には、『相沢ピアノ教室』という、小さな木の看板が掲げられている。
家の窓からは、子供が練習しているのだろうか、たどたどしいソナチネのメロディが、夕暮れの空気に溶けるように流れてきていた。
ここだ。
間違いない。
俺は、門の前で、立ち尽くしてしまった。
あと一歩。インターホンに手を伸ばせば、全ての真実が明らかになる。
だが、その一歩が、途方もなく重たい。
真実を知るのが、怖かった。美月の死に、俺の知らないどんな事実が隠されているのか。それを受け止める覚悟が、まだできていなかった。
俺がためらっていると、隣にいた綾瀬さんが、俺の手を、そっと握った。
「……大丈夫。私が、一緒にいるよ」
その温もりに、俺は背中を押された。
そうだ。俺は、もう一人じゃない。
俺は、覚悟を決めて、インターホンのボタンを押した。
ピアノの音が、ぴたり、と止む。
数秒の沈黙の後、ガチャリ、とドアが開いた。
そこに立っていたのは、俺たちよりも少しだけ年上、二十代後半くらいの、優しそうな雰囲気の女性だった。
彼女は、俺の顔を見るなり、はっと息を呑んで、その大きな瞳を、驚きに見開いた。
その表情だけで、全てを悟った。
彼女は、俺を知っている。
「……もしかして」
女性の声が、微かに震えていた。
「……美月ちゃんの、お兄さん……?」
◇
家の中に通された俺たちは、アンティークのテーブルを挟んで、その女性――相沢美咲さんと、向かい合っていた。
リビングには、大きなグランドピアノが置かれ、壁にはたくさんの写真が飾られている。その中の一枚、ひときわ目立つ場所に、色褪せた写真があった。
日焼けした肌で笑う、二人の少女。
幼い頃の、美月と、美咲さんだった。
「あの……突然、すみません」
俺は、何から話すべきか分からず、美月が描いた絵と、赤いスーパーボールを、テーブルの上に置いた。
美咲さんの視線が、その二つに釘付けになる。彼女の瞳が、みるみるうちに潤んでいくのが分かった。
「この絵……。それに、このボール……」
「全部、思い出したんです」
俺は、意を決して、全てを話した。
夏祭りの日から始まった、奇妙なタイムループのこと。
何度やり直しても、綾瀬さんが死んでしまう運命にあったこと。
そして、この赤いボールが、ループを終わらせる最後の鍵だったこと。
俺の話を、美咲さんは、信じられない、という表情で、しかし、食い入るように聞いていた。
全ての経緯を話し終えた時、彼女の瞳からは、大粒の涙が、ぽろぽろと零れ落ちていた。
「……そうだったの……。そんなことに……」
彼女は、嗚咽を漏らしながら、言った。
「ごめんなさい……。ごめんなさい……!」
「どうして、相沢さんが謝るんですか」
「だって……!」
彼女は、顔を覆った。
「だって、美月ちゃんは……私のせいで、死んだんだから……!」
そして、彼女の口から語られたのは、俺が今まで、全く知らなかった、あの日の、本当の真実だった。
「あの日……私たちは、いつものように、あの川で遊んでた。私は、昔から体が弱くて、美月ちゃんは、いつもそんな私を守ってくれる、ヒーローみたいな子だった」
彼女は、涙で濡れた顔を上げた。
「あの日、美月ちゃんは、『これをあげる』って、このボールを私に差し出してくれた。『美咲が元気になる、お守りだよ』って。……でも、私は、その優しさが、少しだけ、悔しかった。いつも守られてばっかりの自分が、嫌だった」
だから、と彼女は続けた。
「私、少しだけ強くなったところを見せたくて、美月ちゃんから、このボールを、ふざけて奪い取って、川べりの方へ走ったの。『捕まえてみなさーい』なんて、馬鹿なこと言って……」
そこで、彼女の言葉が、途切れた。
「……それで、私が、足を滑らせて……。ボールと一緒に、川に、落ちそうになった」
「――え?」
俺は、耳を疑った。
「とっさに、美月ちゃんが、私の腕を掴んで、陸の方へ突き飛ばしてくれた。……でも、そのせいで、今度は美月ちゃんが、バランスを崩して……」
「…………」
「美月ちゃんは、ボールを拾おうとして死んだんじゃない。……川に落ちた、私を、助けようとして……!」
――頭を、鈍器で殴られたような衝撃だった。
そうか。
そうだったのか。
俺が見たのは、川に落ちていく美月の、最後の瞬間だけだった。
だから、俺は、ずっと。
あいつは、自分の不注意で、ボールを追って死んだのだと、そう、思い込んでいた。
そして、それを止められなかった自分を、責め続けてきた。
だが、違った。
美月は、親友の命を救うために、自らの命を投げ出したのだ。
あいつは、最後まで、美咲さんの「ヒーロー」だったんだ。
「ごめんなさい……私が、美月ちゃんの未来を、奪った……」
泣き崩れる美咲さんを前にして、俺は、かける言葉が見つからなかった。
長年、俺の心を縛り付けてきた罪悪感の正体が、全くの誤解だったという事実に、ただ、呆然とするしかなかった。
ループの、本当の意味が、ようやく分かった。
あれは、綾瀬さんを救うためのループなんかじゃない。
美月を救えなかったと、自分を責め続ける俺と。
自分のせいで美月を死なせてしまったと、自分を責め続ける、美咲さん。
歪んでしまった、二つの過去の記憶と、後悔。
それを、解き放つための、大掛かりな運命の修正だったのだ。
そして、綾瀬さんは、そのために、美月の身代わりとして、何度も死ぬ運命を、背負わされて――。
俺は、隣に座る綾瀬さんの顔を見た。
彼女は、静かに、涙を流していた。
俺たちのために、四度も、命を落とした少女。
俺は、彼女に、感謝しても、しきれない。
全ての真実が、明らかになった。
重苦しい、けれど、どこか清々しい沈黙が、部屋を包む。
その時だった。
美咲さんが、ふと、何かを思い出したように、綾瀬さんの顔を、じっと見つめた。
「……でも、不思議……。どうして、ループの身代わりに、あなたが……?」
彼女は、訝しげに、首を傾げた。
「だって、あなたは……美月ちゃんが、あの川で助けた、もう一人の……」
「――え?」
予想もしなかった言葉に、俺と綾瀬さんは、同時に、声を上げた。
美咲さんの、震える指先が、まっすぐに、綾瀬灯を指していた。
「あなた、そっくりなのよ。あの時、美月ちゃんが、私と一緒に、川から引き上げてくれた、見知らぬ、小さな女の子の顔に……」




