第15話 記憶の地図を広げて
相沢美咲。
その名前は、まるで魔法の呪文のように、俺の頭の中で何度も繰り返されていた。
灯台からの帰り道、俺と綾瀬灯は、ほとんど口を利かなかった。互いに、あまりにも大きな真実を前にして、言葉を失っていたのだ。
あの日、あの場所に、もう一人いた。
妹の、美月の友達が。
そして、その子が、今も美月の死を弔い続けている。
祭りの夜に、ループの引き金となるボールを持った男の子を連れていた、あの女性こそが、成長した相沢美咲その人なのだ。
俺の家のリビング。
俺たちは、再び、赤いボールを挟んで向かい合っていた。
だが、状況は灯台へ行く前とは全く違っていた。俺たちは今、次に何をすべきか、明確に分かっている。
「相沢美咲さんを、探す」
綾瀬さんが、きっぱりと言った。その瞳には、もう迷いはない。
「ああ。だが、どうやって? 手がかりは、名前だけだ」
「それに、名字が変わっている可能性もあるよね。結婚していたら」
「……だよな」
俺は、頭を抱えた。相沢美咲という名前だけを頼りに、この町で一人の人間を探し出すのは、砂漠で一粒のダイヤを探すようなものだ。
「……アルバム」
俺は、呟いた。
「え?」
「美月の、アルバムだ。小学校の時の。そこに、写ってるかもしれない」
そうだ。美月が亡くなったのは、小学四年生の夏。その頃の卒業アルバムや、遠足の写真。そこに、相沢美咲という少女の姿が記録されている可能性は高い。顔が分かれば、何か新しい手がかりが見つかるかもしれない。
俺は、再び、クローゼットの奥から、美月の遺品が入った段ボール箱を引っ張り出した。
今度は、ためらいはなかった。
これは、過去に浸るための行為じゃない。未来へ進むための、必要な儀式なのだ。
箱の中から、分厚いアルバムを数冊取り出す。
ページをめくると、色褪せた写真の中に、日焼けした肌で笑う、幼い妹の姿があった。俺がカメラを向けると、いつもピースサインをしていた、あの頃の美月。
胸が、締め付けられる。
だが、今は感傷に浸っている場合じゃない。
俺と綾瀬さんは、頭を突き合わせるようにして、アルバムの一枚一枚を、食い入るように見つめた。
美月の隣で、いつも一緒に写っている女の子が、何人かいる。
「この子かな……」
「いや、こっちの子かも……」
だが、どの写真にも、名前は書かれていない。どの笑顔も、同じように無邪気で、見分けがつかない。
「……だめか」
最後のアルバムの、最後のページをめくり終えた時、俺は深いため息をついた。
結局、顔を特定することはできなかった。
万策尽きた、と思った、その時。
アルバムの、最後のページに貼り付けられた、茶色い封筒に、綾瀬さんが気づいた。
『6年生をおくる会 みつきより』
と、美月の拙い字で書かれている。
おそらく、卒業する六年生に宛てて書いた手紙か何かだろう。渡す前に、あいつは死んでしまったから、母親がここに仕舞っておいたのかもしれない。
「開けてみても、いいかな?」
綾瀬さんの問いに、俺は頷いた。
封筒の中に入っていたのは、一枚の、折りたたまれた画用紙だった。
広げると、そこに描かれていたのは、二人の女の子が、手を繋いで笑っている絵だった。クレヨンで、力強く描かれている。
一人は、美月だろう。もう一人は、おかっぱ頭で、少しだけ背が高い。
そして、その絵の隅に、こう書かれていた。
『みつきと、みさきちゃん。ずっと、ともだち』
「……みさきちゃん」
綾瀬さんが、息を呑んだ。
間違いない。この絵に描かれているおかっぱ頭の女の子こそ、相沢美咲だ。
そして、ただの友達じゃない。『ずっと、ともだち』。二人は、親友だったのだ。
絵の裏側を、見てみる。
そこには、手紙が書かれていた。
おそらく、卒業する別の六年生のお姉さんに宛てたものだろう。
『おねえちゃんへ。
そつぎょう、おめでとう。
わたしも、はやく六年生になりたいです。
わたしには、みさきちゃんという、しんゆうがいます。
みさきちゃんは、すこしだけ、体がよわいです。
だから、わたしが、まもってあげたいです。
こんど、わたしのたからものの、あかいボールをあげます。
おまもりです。
みさきちゃんが、げんきになりますように。』
「……お守り」
俺は、愕然とした。
あの赤いボールは、ただの宝物じゃなかった。
病弱だった親友、相沢美咲のために、美月が贈ろうとしていた、お守りだったのだ。
だが、その願いは、叶わなかった。
ボールを渡す前に、美月は死んでしまったから。
そして、もう一つ。
俺は、手紙の最後に書かれた、追伸の言葉に、目を奪われた。
『P.S.
みさきちゃんのおうちは、おかあさんがピアノのせんせいです。
みなとのちかくの、しろいおうちです』
「……港の近くの、白い家」
綾瀬さんが、その言葉を繰り返した。
「……ピアノの先生」
全てのピースが、カチリ、と音を立ててはまった。
顔も、名前も、そして、今、住んでいる場所さえも。
俺たちは、ついに、全ての謎の鍵を握る人物へと、辿り着いたのだ。
「行こう」
俺は、立ち上がった。手には、美月が描いた、二人の親友の絵を、固く握りしめている。
「うん」
綾瀬さんも、力強く頷いた。
窓の外は、もう、夕暮れが始まっていた。
俺たちは、最後の目的地へと、駆け出した。
全ての真実が待つ、港の近くの、白い家へ。
妹が遺した、古い記憶の地図だけを、道標にして。




