第13話 地蔵と二つのボール
川のせせらぎと、遠くで鳴くヒグラシの声だけが聞こえていた。
俺と綾瀬灯は、小さな地蔵の前に供えられた、もう一つの赤いスーパーボールを前に、立ち尽くしていた。
ポケットの中にある、妹・美月のボールが、まるで共鳴するかのように、微かな重みを増した気がした。
「誰、なんだろう……」
綾瀬さんが、ぽつりと呟いた。
「家族以外で、美月のことを覚えていて、あいつが好きだったボールまで知ってる人。そんな人、いたなんて……」
俺の記憶の引き出しを、いくら引っ掻き回しても、該当する人物は浮かんでこない。美月の交友関係は、ほとんどが同じ小学校の子供たちだったはずだ。卒業し、中学に上がり、数年も経てば、記憶は薄れていくのが普通だ。
なのに、こんなにも丁寧に、弔い続けている人物がいる。
「……触ってみても、いいかな?」
綾瀬さんが、おずおずと地蔵の前のボールに手を伸ばした。俺は黙って頷く。
彼女がそっと手に取ったボールは、俺が持っているものと全く同じ、安物のゴムボールだった。ただ一つ違うのは、こちらには何も文字が書かれていないことだけ。
「……何か、分かるか?」
「ううん、何も……。でも、なんだか、温かい気がする」
彼女はそう言って、ボールを元の場所へとそっと戻した。
◇
俺たちは、近くの公園のベンチに腰を下ろし、改めて状況を整理することにした。
テーブル代わりのベンチの上に、二つの赤いボールが並べられる。
一つは、ループを止めた、美月の名前が書かれたボール。
もう一つは、今しがた地蔵の前で見つけた、無記名のボール。
「この二つのボールは、きっと同じ人物に繋がってる」
綾瀬さんは、探偵のように鋭い目でボールを見つめながら言った。
「うん」
「お供え物をしている人物が、祭りの夜にボールを持っていた男の子の保護者、と考えるのが一番自然だよね」
「ああ。だが、そうだとしたら、謎はもっと深まる」
俺は腕を組んだ。
「なぜ、彼らは美月の遺品を持っていた? そして、なぜ祭りの夜、あの時間に、あの場所で、息子にボール遊びをさせていた? まるで、事故が起きることを知っていたみたいに……」
「……敵、なのかな」
綾瀬さんの言葉に、俺は首を横に振った。
「分からない。だが、こんな風に、何年も妹のことを弔ってくれている人間が、悪意を持っているとは、どうしても思えないんだ」
敵か、味方か。
それとも、俺たちが知らない、全く別の役割を持った存在なのか。
「……手がかりが、なさすぎるね」
綾瀬さんが、ため息をついた。
その通りだった。謎の人物の正体も、目的も、何も分からない。ただ、この場所に定期的に現れる、ということ以外は。
「……張り込むか」
「え?」
「いつ来るか分からないけど、ここで待ってれば、いつか会えるかもしれない」
「でも、それは非効率すぎるよ。夏休みが終わっちゃう」
彼女の言う通りだった。もっと、何か具体的な手がかりが欲しい。
その時、綾瀬さんがハッとしたように顔を上げた。
「そうだ。待つんじゃなくて、聞いてみようよ」
「聞く?」
「うん。この辺りに住んでる人に。『このお地蔵さんに、いつもお花を供えに来る人、知りませんか』って」
それは、俺にとって、少しだけ勇気のいることだった。
妹の死という、家族だけの、そして俺だけの傷跡だと思っていた出来事を、赤の他人に話さなければならない。
だが、俺はもう一人じゃなかった。
「……そうだな」
俺は、隣に座る彼女の顔を見て、頷いた。
「やってみよう」
◇
俺たちは、川辺の近くで畑仕事をしている、腰の曲がったおばあさんに声をかけた。
突然見知らぬ高校生二人に話しかけられ、おばあさんは最初、怪訝そうな顔をしていた。
だが、俺が意を決して、
「数年前に、この川で妹を亡くしまして……。あそこのお地蔵さんを、いつも綺麗にしてくださる方がいると聞いて、お礼が言いたいんです」
と事情を話すと、彼女の表情はふっと和らいだ。
「ああ、あんた、あそこで亡くなった子の……そうかい、そうかい。大変だったねぇ」
おばあさんは、汚れた手で自分のエプロンを拭いながら、優しく言った。
「あのお地蔵さんなら、確かに、いつも綺麗にしとる人がおるよ」
俺と綾瀬さんは、身を乗り出した。
「どんな人か、分かりますか?」
「そうさねぇ……」
おばあさんは、空を見上げて記憶を辿るように言った。
「まだ若い、女の人だねぇ。時々、小さな男の子も、一緒におるよ」
間違いない。あの親子のことだ。
「その人は、いつ頃、ここに来るんですか?」
「さあ、それは決まってないみたいだけどねぇ……。でも、ほら、あの子が亡くなった日、お盆だったろ? ああいう、月命日の近くだったり、何か特別な日に、来とるのかもしれないないねぇ」
――月命日。
その言葉が、雷のように俺の頭を撃ち抜いた。
美月が死んだのは、八月十五日。
毎月、十五日の前後に、その女性はここを訪れている可能性が高い。次のチャンスは、九月十五日。まだ一ヶ月近くも先だ。
「……そうですか。ありがとうございます」
大きな手がかりを得た。だが、すぐに会えないという事実に、少しだけ落胆しながら、俺が頭を下げた、その時。
おばあさんは、何か思い出したように、あ、と声を上げた。
「そういえば、その女の人、時々、あそこをずーっと見てるよ」
おばあさんが、しわくちゃの指で指し示した先。
そこにあったのは、この町の港に立つ、古びた、白い建物だった。
今はもう使われていない、廃灯台。
ループの中で、綾瀬さんの命と俺の記憶を引き換えにする、最後の切り札として、その伝承を調べた、あの場所。
なぜ、あの灯台を?
謎の女性と、あの灯台に、一体どんな関係があるというんだ。
俺と綾瀬さんは、顔を見合わせた。
一つの謎に近づいたと思えば、また別の、より大きな謎の扉が、目の前でゆっくりと開き始めていた。
俺たちは、導かれるように、白い灯台の方へと、歩き出した。




