第12話 夏休みと残された謎
八月十六日の朝は、驚くほどに普通だった。
テレビからは、夏休みで混雑する高速道路の情報が流れ、キッチンからは母親が作る味噌汁の匂いが漂ってくる。昨日までとは違う、新しい一日。確かに前に進んでいる日常。
その、あまりにも当たり前の光景に、俺は言いようのない違和感を覚えていた。
まるで、長い間潜水していて、急に水面に顔を出した時のような、世界の解像度に脳が追いつかない感覚。
俺は、ベッドの上で、まず最初にスマホを手に取った。
そして、たった一言、『8月16日だ』と、綾瀬灯にメッセージを送った。
数秒と経たずに、返信が来る。
『うん、16日だね』
猫が笑っている、いつものスタンプが添えられていた。
その短いやり取りだけで、俺の心は不思議と凪いでいった。
そうだ。この世界で、俺はもう一人じゃない。この狂った夏を共に戦い抜いた、たった一人の共犯者がいる。それだけで、この新しい日常に立ち向かう勇気が湧いてくるようだった。
夏休みに入ったとはいえ、俺たち受験生には補習授業があった。
学校へ行くと、教室は夏祭りの話題で持ちきりだった。
「昨日の花火、マジやばかったよな!」
「分かるー! 浴衣の子、めっちゃ可愛かったし!」
クラスメイトたちの浮ついた会話が、やけに遠くに聞こえる。彼らが経験したのは、たった一度の、楽しい夏祭りの夜。俺たちが経験した、あの血と絶望にまみれた五日間とは、全く違う世界。
「おー、ハルトに綾瀬さん! 昨日はお二人さん、花火の途中でどこ行ってたんだよー」
悠真が、ニヤニヤしながら俺たちの席にやってきた。
「えー、なんのことー?」
俺が言葉に詰まっていると、隣の席の綾瀬さんが、悪戯っぽく笑って答えた。
「ちょっとね、秘密」
「うわ、怪しすぎ! マジでお前ら、付き合ってんのか?」
「さあ、どうでしょう?」
綾瀬さんは、ひらりとかわす。その横顔を見て、俺は少しだけ笑ってしまった。
誰も知らない。俺たちが、あの夜、世界の運命を賭けた、壮大な革命を起こしていたことなんて。この秘密は、俺と彼女を、他の誰とも違う、特別な絆で結びつけているようだった。
◇
放課後。
俺と綾瀬さんは、どちらからともなく、あの写真部の部室へと向かっていた。
もうループは終わったというのに、この場所は、俺たちにとっての聖域であり、司令室であることに変わりはなかった。
俺は、机の真ん中に、昨夜持ち帰った赤いスーパーボールを置いた。
『みつき』と書かれた、全ての謎の始まり。
「……これから、どうしようか」
俺の問いに、綾瀬さんは真剣な表情で頷いた。
「まず、分かっていることを整理しよう」
彼女は、俺のノートを手に取ると、新しいページにペンを走らせた。
①ループは、水瀬くんの妹・美月さんの死と、深く関係している。
②ループの起点となったスーパーボールは、美月さんの遺品だった。
③私(灯)が死ぬ運命だったことと、美月さんの死には、何らかの共通点があるはず。
そして、彼女は最後に、一番大きな謎を書き出した。
④あのボールを持っていた『男の子』は、一体誰なのか?
「……やっぱり、一番の手がかりは、このボールを持っていた男の子だよね」
「ああ。だが、祭りの人混みの中から、顔も知らない子供一人を探し出すなんて、ほとんど不可能に近い」
「だよね……。じゃあ、こっちから調べてみない?」
彼女が指差したのは、③の項目だった。
「私と、美月ちゃんの共通点。……それを見つけるには、まず、美月ちゃんのことを、もっと知る必要があると思うんだ」
彼女の提案に、俺は息を呑んだ。
それは、俺がずっと避けてきたこと。妹の死と、真正面から向き合うということだった。
一人では、怖くてできなかっただろう。
でも、今は。隣に彼女がいる。
「……分かった」
俺は、頷いた。「行こうか。……あいつが、死んだ場所に」
◇
夏の午後の強い日差しが、川面に反射して、きらきらと輝いていた。
神社の裏手を流れる、小さな川。
ここが、数年前、美月の時間が止まった場所だった。
ループを乗り越えた今、俺は初めて、自分の意志でこの場所に戻ってくることができた。綾瀬さんが、黙って隣を歩いてくれている。その存在が、心強かった。
「……ここで、ボールが落ちて……」
俺は、当時のことを、綾瀬さんに説明していた。
川べりの、少しぬかるんだ地面。美月が足を滑らせたのは、おそらくこの辺りだろう。
川の流れは、見た目以上に速い。子供の力では、ひとたまりもなかったはずだ。
後悔と罪悪感が、再び胸の奥で渦を巻き始める。
俺があの時、もっと強く止めていれば。
俺が、あいつの手を掴んでいれば――。
その時だった。
「……ねえ、水瀬くん。あれ」
綾瀬さんが、川べりの少し奥まった場所を指差した。
そこには、苔むした小さな地蔵が、ひっそりと佇んでいた。おそらく、昔からこの辺りで起きた子供の水難事故を、慰霊するために置かれているものだろう。
その、地蔵の足元に。
誰かが供えたらしい、まだ真新しい、小さなひまわりの花束。
そして、その花束に寄り添うようにして、一つの赤いスーパーボールが、置かれていた。
「……!」
俺は、息を呑んだ。
昨日、俺たちが回収したものとは、別のボールだ。だが、同じ種類のものに違いない。
誰かが、定期的に、この場所を訪れている。
美月の死を悼んで、花と、そして彼女が好きだったスーパーボールを、供えに来ている。
その人物は、一体誰なんだ?
そして、その人物は、祭りの夜にボールを持っていた、あの男の子と、何か関係があるのだろうか?
ループは終わった。
だが、世界の謎は、まだ何一つ解けてはいなかった。
それどころか、俺の忘れたはずの過去と絡み合い、より深く、より複雑に、俺たちの目の前に横たわっている。
俺と綾瀬さんは、顔を見合わせた。
俺たちの、本当の夏休みが。
本当の謎解きが、今、始まったのだ。




