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第11話 八月十六日の朝

時間が、止まったようだった。

俺と綾瀬(あやせ)(あかり)は、神社の片隅で、ただ一つの小さなゴムボールを前にして、言葉を失っていた。

祭りの喧騒が、まるで厚いガラスを隔てた向こう側のように、遠く聞こえる。


『みつき』


その、拙い文字。

数年前、俺の目の前で命を落とした、妹の美月(みつき)が書いたそれに、間違いなかった。

どうして。

なぜ、美月のボールが、このループの中心に存在する?

なぜ、あの男の子が、これを持っていた?

偶然か?

いや、違う。この狂った世界で、俺は学んだ。意味のない偶然など、存在しない。全ての偶然は、必然へと繋がる、運命の歯車なのだから。


「……水瀬くん、これ……」


綾瀬さんが、心配そうに俺の顔を覗き込む。彼女の手の中で、赤いボールが不気味な存在感を放っていた。


「……分からない」


俺は、かろうじて声を絞り出した。


「分からない。けど、これは……確かに、俺の妹のボールだ」


初めて掴んだ、運命への勝利。

その喜びは、一瞬にして、より深く、暗い謎の霧の中へと掻き消えていった。



俺たちは、祭りの喧騒から逃げるように、その場を後にした。

どこへ行くというあてもなく、俺の足は、自然と自宅へと向かっていた。綾瀬さんも、何も言わずに、その後ろをついてくる。

ループが始まってから、初めてのことだった。俺のプライベートなテリトリーに、彼女を招き入れるのは。


「散らかってるけど……上がって」


自室のドアを開けると、本やカメラの機材が雑然と置かれた、いつもの光景が広がっていた。

綾瀬さんは、黙って部屋の中を見回している。壁に貼られた、風景写真の数々。そして、本棚の隅に、一枚だけ、ひっそりと飾られた古い写真。

夏祭りの夜、綿菓子を頬張り、満面の笑みを浮かべている、幼い頃の美月と俺が写っていた。


俺は、彼女に構うことなく、部屋のクローゼットの奥を漁り始めた。

目当ては、段ボール箱に詰め込まれた、美月の遺品だ。

母親が、「思い出が辛すぎるから」と、俺の部屋の隅に追いやった、開かずの箱。

ガサガサと音を立てて中身をぶちまける。クレヨン。リボン。ビー玉。ガラクタのような、けれど、あいつにとっては宝物だったものたち。

そして、一番底から、小さな木箱を取り出した。美月が、「たからものばこ」と呼んでいたものだ。

震える指で、蓋を開ける。

中には、あの日と同じように、色とりどりの宝物が詰まっていた。

だが、一点だけ、違う場所があった。

ボールが一つ、ぴったりと収まるように作られた、丸い窪み。

そこだけが、まるで主を失ったかのように、ぽっかりと、空っぽだった。


「……ない」


俺は、確信した。

綾瀬さんが、今、手にしているこの赤いボールは。

間違いなく、あの日、美月が持っていた、最後の宝物だった。



リビングのテーブルの上。

赤いスーパーボールが、ことり、と置かれている。

俺たちは、それを挟んで、向かい合っていた。

沈黙が、重い。

何を、どこから話せばいいのか。


「……あの日も、今日みたいに、蒸し暑い夜だった」


俺は、ぽつり、ぽつりと語り始めた。今まで、誰にも話したことのなかった、あの日のことを。


「美月は、このボールが、昼間の縁日で当たったんだって、すごく喜んでた。ずっと、これで遊んでたんだ。……祭りの帰り道も」

「……」

「神社の近くに、小さな川があるんだ。あいつ、その川べりでボールを弾ませてて……それで、手を滑らせて、川に落としちまった」


思い出すだけで、喉が焼けるように熱くなる。


「俺が止めるのも聞かずに、『宝物だから』って、拾おうとして……それで、足を滑らせて……。流れが、思ったより、速くて……」


俺は、それ以上、言葉を続けられなかった。

綾瀬さんは、ただ黙って、俺の話を聞いていた。その優しい瞳が、俺の心を少しだけ、凪がせてくれた。


「……もしかしたら」


しばらくして、綾瀬さんが、震える声で言った。


「このループは、水瀬くんのために、起きてるのかもしれない」

「え……?」

「私が、水瀬くんの妹さんの運命を、なぞらされてるんだとしたら……。私が助かることが、ループを終わらせる条件じゃなくて……」


彼女の言葉の続きを、俺は、直感的に理解してしまった。


――俺が、妹の死という過去を、乗り越えること。

――あるいは、あの日の死の真相に、辿り着くこと。


それこそが、このループの、本当の目的なのではないか?

だとしたら、なぜ、綾瀬灯が?

なぜ、今?

謎は、雪だるま式に膨れ上がっていく。

ただ一つ確かなのは、この物語の本当の主役は、綾瀬灯だけじゃない。

俺と、そして、もうこの世にいないはずの、水瀬美月でもあるということだった。



夜が更け、綾瀬さんは家に帰っていった。


「また、明日ね」


別れ際に彼女が言った、その何気ない一言が、今は途方もなく重たい意味を持っていた。

本当に、俺たちに「明日」は来るのだろうか。


俺は、一人、自室のベッドに横たわった。

右手には、美月の赤いボールを固く握りしめている。

眠れなかった。

目を閉じれば、美月の笑顔と、綾瀬さんの泣き顔が、交互に浮かんでは消えていった。


どれくらいの時間が経ったのか。

意識が、微睡みの中に沈みかけた、その時。


ジリリリリリリ――!


けたたましいアラームの音が、鼓膜を突き刺した。

俺は、心臓を鷲掴みにされたかのように、ベッドから飛び起きた。

またか。

また、あの朝が来たのか。

運命は、俺たちの小さな勝利を、認めはしなかったのか。

絶望的な気持ちで、震える手で、スマホを掴む。


そして、画面に表示された日付を見て、俺は、息を呑んだ。


『8.16 WEDNESDAY 午前7:00』


「……はちがつ、じゅうろくにち……」


声が、震えた。

ループは、終わっていた。

終わったんだ。

俺たちは、確かに、あの悪夢のような一日から、抜け出したのだ。


だが、安堵はなかった。

歓喜もなかった。

あるのは、これから始まる、本当の物語への、静かな予感だけ。

ループからの脱出は、ゴールなんかじゃなかった。

それは、ようやくスタートラインに立ったという、合図に過ぎなかったのだ。


俺は、窓を開け放った。

昨日とは違う、新しい朝の空気が、肺を満たしていく。


「……始まったんだな」


赤いボールを、強く、強く握りしめながら。

俺は、静かに、そう呟いた。

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