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第10話 赤いボールと妹の名前

五度目の夏祭りの夜は、奇妙なほどに静かだった。

いや、もちろん、周囲はこれまでと同じ喧騒に満ちている。けれど、俺と綾瀬(あやせ)(あかり)の心は、嵐の前の静けさのように、研ぎ澄まされていた。

俺たちは、人混みを縫うようにして、決戦の地である神社裏の石段へと向かっていた。もう、この道を通るのは五度目だ。目を閉じていても歩けるくらい、全ての景色が脳裏に焼き付いている。


「……本当に、うまくいくかな」


隣を歩く綾瀬さんが、小さな声で呟いた。その手は、浴衣の袖を固く握りしめている。


「やるしかない」


俺は、短く答えた。


「俺たちの仮説が正しければ、必ず、うまくいくはずだ」


これは、ただの希望的観測じゃない。四度のループで得た情報に基づく、緻密な分析の結果だ。俺たちはもう、ただ怯えるだけの駒じゃない。この世界のルールを読み解き、その裏をかくプレイヤーなのだ。

綾瀬さんは、俺の力強い言葉に、こくりと頷いた。その瞳には、もう迷いの色はない。


石段が見渡せる、いつもの木陰。

俺たちは、息を殺して身を潜めた。時刻は、午後九時四十分。作戦開始まで、あと数分。

心臓が、肋骨を内側から叩いているかのようにうるさい。ポケットの中の、猫じゃらしの柔らかな感触だけが、今の俺の唯一の心の拠り所だった。

遠くで聞こえる祭囃子。夜空を淡く照らす提灯の明かり。風に乗って運ばれてくる、綿菓子の甘い匂い。

その全てが、この異常な状況の中では、ひどく非現実的に感じられた。


「……来た」


綾瀬さんが、息を呑んで呟いた。

俺も、ファインダー越しに、その姿を捉える。

人混みの中から、見慣れた親子の姿が現れた。母親に手を引かれた、小さな男の子。その手には、赤いスーパーボールが握られている。

間違いない。ターゲットだ。

俺は、綾瀬さんと無言でアイコンタクトを交わす。互いの額には、汗が滲んでいた。

時は、満ちた。


男の子が、母親の手を振りほどき、石段の最上部で、楽しげにスーパーボールを地面に弾ませ始めた。

一度。二度。

赤いボールが、夜店の明かりを反射して、鮮やかな軌跡を描く。

全ての始まりとなる、あの光景。


「――今だ」


俺は、ポケットから猫じゃらしを取り出すと、あらかじめ計算していた通りの角度と力で、そっと投げた。

それは、投げるというより、風に乗せる、という感覚に近い。

ふわふわの猫じゃらしは、まるで意志を持っているかのように、計算通りの軌道を描き、男の子の足元へと、ことり、と落ちた。

誰の目にも、それはただ、風で飛ばされてきたゴミか何かにしか見えなかっただろう。


「あ」


男の子が、猫じゃらしに気づいて、小さな声を上げた。

その視線が、手の中のスーパーボールから、足元の猫じゃらしへと移る。

時間は、わずか0.5秒ほど。

だが、俺たちにとっては、永遠とも思えるほどに十分な時間だった。


その一瞬の隙を突き、俺の隣の影が、すっと動いた。

綾瀬さんだ。

彼女は、音もなく男の子の背後に回り込むと、地面で弾んでいたスーパーボールを、まるで水の中から石を拾うように、静かに、そして素早く掴み取った。

そして、何事もなかったかのように、再び俺の隣の影の中へと、その身を滑り込ませた。

完璧な、連携だった。


「あれ?」


男の子が、ボールがなくなったことに気づいて、きょろきょろと辺りを見回す。

だが、母親が


「もう、行くわよ。置いてかれちゃうでしょ」


と、その手を強く引いた。

親子は、そのまま人混みの中へと消えていく。


――終わった。


俺と綾瀬さんは、顔を見合わせた。

まだ、声は出せない。だが、互いの瞳が、「やった」と雄弁に語っていた。

俺たちは、確かに、運命の最初の歯車を、抜き取ったのだ。


運命の時刻、午後九時四十七分が、過ぎていく。

何も、起きない。

誰かがよろめくことも、悲鳴が上がることもない。

四十八分。四十九分。五十分。

ただ、穏やかな祭りの夜が、そこにあるだけだった。

枝が落ちてくる気配も、火の手が上がる気配もない。


「……やった、のか」


俺は、震える声で言った。


「……うん。やった、みたい……!」


綾瀬さんの声も、喜びで上ずっている。

俺たちは、勝ったんだ。

あの、冷徹で、残酷で、巨大な運命に、俺たちは、二人だけで、勝利したんだ。

込み上げてくる達成感に、思わず、笑みがこぼれた。

綾瀬さんも、泣きながら、笑っていた。

初めて、俺たちは、八月十六日の朝を、迎えられるのかもしれない。


「……ははっ、やったな」

「うん……!」


安堵感から、俺は、その場にへたり込んだ。綾瀬さんも、隣に座り込む。

彼女の手の中には、勝利の証である、赤いスーパーボールが、固く握りしめられていた。


その、ボールを見て。

俺は、ふと、ある強烈な違和感に襲われた。


「……なあ、綾瀬さん」

「……なに?」

「そのボール……どこかで、見たことあるような……」


俺は、彼女の手から、そのスーパーボールを受け取った。

夜店の明かりに照らして、じっと見る。

それは、どこにでもあるような、安物のゴムボールだ。

だが、その赤い表面に、何か黒い文字が書かれているのが見えた。

子供の、拙い字。

油性のマジックで、それは、確かに、こう書かれていた。


『みつき』


「…………え」


声が、凍りついた。

全身の血が、逆流するような感覚。

みつき。

美月(みつき)

それは、他でもない。

数年前の夏祭りの日に、事故で死んだ、俺の妹の名前だった。


どうして。

どうして、このボールに、美月の名前が書かれているんだ?

このループと、美月の死に、一体、何の関係があるっていうんだ?

まさか、このボールは、あの時の……?


初めて掴んだはずの勝利。

その手の中にあったのは、更なる絶望へと誘う、不気味な道標だった。

呆然とする俺と綾瀬さんを、祭りの喧騒だけが、無情に包み込んでいた。

世界の謎は、まだ、始まったばかりだったのだ。

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