第1話 ファインダー越しの君
蝉時雨が、脳の芯まで溶かしてしまいそうなほど降り注いでいた。
アスファルトから立ち昇る陽炎が、ありふれた街の風景を頼りなく歪ませる。ファインダーを覗き込む。絞りをF8まで絞り、シャッタースピードを稼ぐ。世界を四角く切り取るこの行為だけが、俺、水瀬遥斗にとって、この息苦しい現実と折り合いをつけるための唯一の方法だった。
カシャ、と乾いたシャッター音が響く。
液晶モニターに映し出されたのは、古びたバス停と、そのベンチで眠りこけている三毛猫。それだけ。何の変哲もない、退屈な夏の午後だ。
それでも、俺はこの行為をやめられない。
世界は、どうしようもなくありふれていて、そして、どうしようもなく美しい。
俺がこの手で何かを失ってから――ううん、この手で何かを守れなかったあの日から、世界は色褪せてしまったように感じていた。けれど、この黒い箱を通して世界を覗き込む時だけ、ほんの少しだけ、その色彩が戻ってくるような気がした。
失われたものは、二度と戻らない。
そんな当たり前の事実が、夏の高い空みたいに、ただどうしようもなくそこにあるだけだった。
「――おーい、ハルトー! 聞いてんのか?」
不意に背中を強く叩かれ、俺は現実へと引き戻される。振り返ると、汗で額に張り付いた前髪もそのままに、親友の佐伯悠真がニヤニヤと笑っていた。
「悪い、聞いてなかった」
「だろうと思ったぜ。お前、写真撮ってるときは完全に自分の世界だもんな。で、だ。さっきの話、聞いてたか? 夏祭り」
「夏祭り……」
悠真が口にしたその単語に、俺の心臓が微かに軋む。八月十五日。この町で一番大きな、夏の一大イベント。
「おう! 今年ももちろん行くだろ? なんでも、商店街のやつらがやけに気合入れてて、花火も例年より豪華になるって噂だぜ」
「……俺は、いいかな」
「はあ? なんでだよ。高三の夏だぜ? 受験勉強ばっかじゃ頭おかしくなるって。パーッと行こうぜ、パーッと」
おどけるように両手を広げる悠真に、俺は曖昧に笑い返すことしかできなかった。
悠真は知らない。俺にとって「夏祭り」という言葉が、どれだけ重たい意味を持つのかを。あの日、俺の日常が終わった日のことを。妹の、美月のことを。
「……まあ、気が向いたらな」
「なんだよ、つれねーな。あ、さてはアレか? 受験の天王山とかなんとか言って、一人でガリ勉するつもりか? それとも、俺に隠れて彼女でも作ったとか?」
「いないよ、そんなの」
「だよなー!」
悠真はあっけらかんと笑う。こういう屈託のなさが、こいつの良いところであり、時々ひどく羨ましくなる部分でもあった。俺が抱える黒い澱のような感情も、こいつの前では少しだけ息を潜める。
「まあ、気が変わったら連絡しろよ。俺は女子たち誘って行くつもりだからさ。お前がいれば、一眼レフで映える写真撮ってやるとか言って、もっと食いつきが良くなるんだがなー」
「カメラは人を撮るための道具じゃない」
「はいはい、ハルト先生のありがたいお言葉でした。じゃあな、また明日」
ひらひらと手を振って、悠真は教室を出ていく。一人残された俺は、再び窓の外に目を向けた。グラウンドでは野球部が練習に励んでいる。彼らの声も、焼けたアスファルトの匂いも、何もかもが「夏」だった。
俺だけが、あの夏から一歩も動けずにいるような、そんな錯覚に陥る。
◇
放課後、俺はいつものように愛用のカメラを首から下げて、あてもなく町を歩いていた。
俺たちの住むこの町は、海沿いにある、どこにでもあるような地方都市だ。古びた商店街と、新しいバイパス道路。山の手に開発された住宅街と、取り残されたように佇む古い港。そのちぐはぐな風景が、なぜか心地よかった。
目的もなく歩く足は、自然と海の方へと向かっていた。
潮の香りが、コンクリートの匂いに混じって鼻腔をくすぐる。カン、カン、カン、という単調な音が聞こえてきて、視線を上げると、小さな踏切の遮断機が下りていた。
ローカル線の、二両編成の電車が通り過ぎていく。
錆びれた線路、夏の草いきれ、車窓から見える人影。
――ああ、撮りたい。
衝動的にカメラを構える。ファインダーを覗き、通り過ぎる電車の速度に合わせてカメラを振る。流し撮り。背景だけが綺麗に流れ、被写体である電車が浮かび上がるはずだ。
息を詰め、シャッターを切るタイミングを計る。
その、瞬間だった。
ファインダーの向こう、踏切の向こう側に、一人の少女が立っているのが見えた。
白いワンピース。
夏の強い日差しを受けて、蜂蜜色に透ける長い髪。
彼女は、電車が通り過ぎるのを待っているようだったが、その視線は線路の先、どこか遠い場所へと向けられていた。
どこか、この世の果てでも見ているかのような、儚げな表情。
なのに、その瞳だけは、まるで燃え尽きる直前の線香花火みたいに、強い光を宿しているように見えた。
忘れていた。電車を撮るんだった。
だが、俺の指は、まるで意思を持ったかのように、その少女にピントを合わせていた。
カシャ。
シャッター音が、やけに大きく響いた。
電車が完全に通り過ぎ、遮断機がゆっくりと上がる。
少女が、ふと、こちらに視線を向けた。撮られたことに気づいたのだろう。少しだけ驚いたように、大きな瞳を見開いている。
まずい、と思った。盗撮だと思われたかもしれない。慌ててカメラを下ろし、何か言おうと口を開きかけた、その時。
少女は、ふわりと、花が綻ぶように笑った。
それは、悪戯が見つかった子供のような、人懐っこい笑顔だった。
俺が何か言う前に、彼女は小さく会釈をして、そのまま駅の方へと歩き去っていく。
その後ろ姿を、俺はただ呆然と見送ることしかできなかった。
心臓が、うるさいくらいに鳴っていた。
暑さのせいだろうか。それとも。
液晶モニターを確認する。そこに写っていたのは、背景の青い海と空、そして、こちらを真っ直ぐに見つめる少女の姿だった。ピントは甘いし、構図もめちゃくちゃだ。技術的に見れば、完全に失敗作。
なのに、なぜか、目を逸らすことができなかった。
俺が今まで切り取ってきたどの風景よりも、その一枚の写真は、鮮やかに色づいて見えた。
◇
翌日。
夏休み前の最後の授業日。ホームルームのざわめきの中で、俺は昨日のことを思い出していた。
あの少女は、一体誰だったんだろう。観光客だろうか。だとしたら、もう二度と会うこともないだろう。
そう思うと、胸の奥が少しだけちくりと痛んだ。
柄にもない感傷に浸っていると、教室の前のドアがガラリと開き、担任の山崎先生が入ってきた。その隣には――。
教室中の視線が、一点に集中する。
息を呑む音が、あちこちから聞こえた。
俺も、その一人だった。
「えー、皆に紹介する。今日からこのクラスに仲間入りする、転校生だ」
そこに立っていたのは、昨日、ファインダー越しに出会った少女だった。
白いワンピースではない、俺たちと同じ制服に身を包んでいる。それでも、あの夏の光の中で見た時と同じ、どこか儚げで、けれど凛とした空気を纏っていた。
「綾瀬灯です」
チョークで黒板に書かれた、丁寧な文字。
彼女はくるりと振り返り、クラス全体を見渡すと、昨日と同じように、ふわりと微笑んだ。
「夏休み前のこんな時期にすみません。卒業まで、短い間ですが、よろしくお願いします」
澄んだ声が、教室に響き渡る。
女子は「可愛い」と囁き合い、男子はどこか気もそぞろな様子だ。俺の隣に座る悠真も、「マジかよ、大当たりじゃん」と興奮気味に俺の肩を叩いている。
だが、俺は何も答えられなかった。
綾瀬灯。
彼女が、自己紹介の最後に、再び俺の方を見た。
教室には四十人近くの生徒がいるというのに、彼女の視線は、真っ直ぐに俺を捉えているのが分かった。
そして、彼女は小さく、本当に小さく、誰にも気づかれないくらいに、こくりと頷いてみせた。
それはまるで、「また会ったね」とでも言うような、秘密の合図のようだった。
――綾瀬灯。
このありふれた日常が、この日から少しだけ色を変えた。
その時は、まだ知る由もなかった。
彼女との出会いが、僕の夏を、僕の世界を、根こそぎ変えてしまうことになるなんて。
そして、終わらない、長い長い一日が、もうすぐ始まろうとしていることにも、まだ、気づいていなかった。