真っ白な空間で
森ノ宮勇那は、学校からの帰宅途中、気が付けば知らない空間にいた。
「え?」
「ようこそ、聖女として呼ばれた子」
目の前に、銀髪の美しい女性が立っていた。白い翼を背負い、草の王冠に足首まで隠す裾の長い白い服の姿は、天使か女神かといった印象を与えた。
「ここどこ? 貴方は……」
「ここは狭間の異空間。私は、オイローパの世界を管理する者。人間からは女神と呼ばれています」
女神と名乗った女性は優し気な微笑みを浮かべ歓迎するかのように両手を開いているが、 右を見ても左を見ても真っ白な異常空間に、勇那の背には嫌な汗が流れた。
夢かと思って頬を引っ張ってみるも、定番のように痛みを感じた。
「まず、貴方に謝らなければならないことがあります」
「謝る?」
「貴方は異世界にあるシュテルン王国の禁術により、異世界召喚されました、もう元の世界に戻ることはないでしょう。私の監督不行き届きです。ごめんなさい」
「は?」
突然頭を下げた女神の言葉に、勇那は目を見開いた。意味が分からなかった。
「どういうこと?」
「召喚魔法により、貴方の体と魂は世界の壁を超えてしまいました。元の世界に戻るために再び壁を超えるには、人間の体も魂も脆弱過ぎる。二度目は命を落とすどころか、跡形もなく消滅するかもしれません」
憐憫を含んだ表情で告げられる言葉に、勇那は呆然としながらも心臓は痛いくらいに鼓動を打っていた。心が理解を拒んでも、とてつもなく嫌なことが起こっていることは分かってしまう。こめかみを滑った汗が、つうっと頬を流れて落ちた。
「じょ、冗談でしょ」
そうであってほしいという思うと共に、半笑いで吐き出した勇那の言葉に、女神は憐れむような眼差しを向けた。
「夢だよね?」
「先ほど確認したのでは?」
勇那の希望を砕くような言葉を告げ、女神は手を振った。すると、二人の横にある空間に黒い穴のようなものが現れた。見るからに不気味な穴に、勇那は鳥肌がたった腕を庇うように身を抱きしめた。
「これは、瘴気の穴です。シュテルン王国は長くこの穴から吹き出す瘴気という毒に苦しんできました。瘴気に侵された大地は何も育たなくなり、人はゆっくりと腐り死んでいきます。瘴気を浄化する魔法は存在するのですが、この穴自体を浄化できるほどの強力な浄化魔法を使える人間はごく僅かであり、その人間は聖女と呼ばれてきました」
女神が再び手を振ると、黒い穴は消えた。
「今までは、瘴気が濃くなるとそれを浄化する聖女も同時期に現れていたのですが、現状のシュテルン王国には、どれだけ探しても聖女は現れませんでした。ゆえに、彼らは古文書を元に禁術に手を出し、異世界から聖女となれる人間を召喚することにしたようです」
突然の説明に目を白黒させていた勇那だったが、女神の言いたいことが分かってしまいぎゅっと眉を寄せた。抱きしめた自分の体が震えているのが分かる。
「その聖女が、私?」
勇那の問いに、女神が頷く。しかし、憂いを帯びた顔は気まずげに視線を逸らした。
「ですが、本来この世界の聖女となるべき人間は、既に生まれているのです。色々な巡り合わせによって、その人間は真価を発揮できないまま現状まできてしまった。ゆえに、今のシュテルン王国には聖女がいないのです」
そこでやっと、最初の女神の謝罪の意味が分かった。分かりたくないのに分かってしまって、勇那は否定してほしくてそれを口にした。
「それって、本当なら呼ぶ必要のない召喚で呼ばれて、わたしは帰れなくなったってこと?」
「その通りです」
「っ、なんでっ‼」
静かに頷いた女神に、勇那の中でぐわりと激情がこみ上げてきた。
突然の不条理に、意味が分からな過ぎて言葉も出てこない。胸の内には今まで感じたことないほどの激情が暴れまわっているのに、それを表す言葉を勇那は持っていなかった。口を開けば、獣のような叫びが飛び出してしまいそうで、勇那は歯を食いしばってうつむいた。
いつもの帰り道だった。今日の宿題が面倒くさいとか、明日は数学が嫌だとか話ながら友達と分かれて、あと少しで家に帰りつくというところだった。家にはきっと母がいて、ただいまと言ったらおかえりと返ってきただろう。
そういえば、家が見えたあたりで小さな黒猫を見つけた。よろよろと歩くまだほんの子猫で、思わず何かあげられるものはないかとポケットを探したけど、出てきたのは飴玉ばかり。家でにぼしでもあげられないかと、連れて帰ろうと抱き上げたところ、突然足元が光ったのだ。
「みゃー」
不意に聞こえた鳴き声に、勇那ははっとして足元を見た。
あの黒猫が、勇那の足元で怯えるように震えながら寄り添っていた。勇那が大声をあげたから、怯えたのかもしれない。
「……この子、あの時の子猫」
「貴方が抱き上げていたため、附属物として一緒に来てしまったようですね」
震える腕で抱き上げると、猫もふるふると震えているものの、温かい命の体温を感じた。その熱を感じて、初めて勇那は息をつけた気がした。
「この子も、帰してやれないんですか」
「そうですね。まだ幼く、人間以上に脆弱な生き物です。間違いなく死ぬでしょう」
子猫は勇那の腕の中で数回撫でられると、ほっとしたように体の力を抜いた。まるでここなら安全と言わんばかりにリラックスする姿に、勇那はなんだか泣きたくなった。でも、ここでは絶対に泣きたくないと、歯を食いしばって堪えた。
「この世界に、猫っているんですか?」
「猫に類似した種族は存在します。余程精密に検査されなければ異世界の生き物とは思われないでしょう」
「そうですか」
未だ混乱と怒りがくすぶっている。それでも、少しだけ冷静になれた頭で言葉を探した。
「女神様は、なんで私をこの場所に呼んだんですか。私は、シュテルン? 王国に呼ばれたんですよね。ならその国に行きつくと思うんですけど」
「ええ、この場所から出たら、召喚により強制的にシュテルン王国の聖堂に飛ばされるでしょう。ですからその前に、貴方に謝罪と現状の説明、そしてお詫びをお渡ししようと思って呼んだのです」
女神が手のひらを上にすると、そこに無数の光の玉が浮いた。
「この世界には属性魔法と、無数のスキルが存在します。属性魔法は火、水、風、土、光、闇の六つの属性に付随した魔法です。対して、スキルは一つの目的に特化した能力で、収納や防御、身体強化などがあります。貴方には、出来る限りこの世界で過ごしやすいように望む力をお与えします。無論、人間の身に与えられる力の上限はありますが、出来る限り要望には応えましょう」
「……慰謝料ってわけ。どうしてそこまでしてくれるんですか? 貴方が私を呼んだわけじゃないのに」
勇那の言葉に、女神はゆっくりと瞳を伏せた。
「私はオイローパの守り神です。我が子が過ちを犯したのなら、償うのは親の役目でしょう。今回の異世界召喚は、自世界の負債を他の世界の人間を攫って押しつけるようなもの。それを見逃し続ければ、やがては神同士、世界同士の争いにもなりかねないのですよ」
「だったら、呼ばれる前に止めて欲しかったです」
不満も露わに勇那が告げると、女神は首を振った。
「それを言われてしまうと辛いですが、私は直接人間世界に干渉してはならないのです。見守ることが神の本分。ですが、今回のことはあまりに度が過ぎている。貴方がオイローパに降り立ってしまった後ではもう何の手助けも出来ませんが、その前に力を授けることはできます」
女神の手には六つの色が違う光があった。あれが属性魔法だろう。さらに周囲に複数浮かぶ光の玉には、それぞれスキルが込められているらしい。
ファンタジー好きにはきっと夢の様な展開なんだろう。でも、それと引き換えに家族と故郷から強制的に引き離されたと思えば、勇那は決して嬉しいとは思えなかった。
今も、胸の内で暴れる激情がある。でも、それを目の前の女神にぶつけてもなんにもならないことも分かる。だから、勇那は自棄になった頭で考えた。
「……どんな魔法でももらえるんですね?」
「命を弄ぶものでなければ」
女神の言葉を受けて、勇那は少し考えると言った。
「なら、異世界転移できる魔法をください」