第1章 目覚めの味 第1話
翅空が回る。
思い浮かべた言葉は、締切、原稿、撮影、校正——。
「まだ、終わっていない。百選の特集が……」
佐々木慎は自分の声で目を覚ました。
眩しい。
頭上に広がるのは見覚えのない森の木々。
木漏れ日が顔を撫でる。
「ここは……?」
慎はゆっくりと上体を起こした。
白い筆記用紙のような清潔な匂いのする草原。
周囲には色とりどりの見知らぬ花が咲いている。
「まさか、俺……」
最後の記憶は、山奥の宿での頭痛だった。
次号の特集メモを書きながら、視界が暗くなり——。
「過労死、したのか」
その言葉を口にした瞬間、奇妙な納得感が広がった。
いつかはこうなると、半ば覚悟していた。
35年の人生はフラッシュバックのように脳裏を駆け抜ける。
料理雑誌の編集者として走り続けた日々。
視線を落とすと、自分の膝元に見覚えのある木製の椀が置かれていた。
「旅人の椀……」
最後の取材で古老から聞いた伝説の器。触れた者は千の味を知る旅に出るという。
隣には革装丁の分厚い本。手に取ると、表紙には「旅食手帳」と金文字で刻まれていた。
「これは……」
手帳を開くと、最初のページに文字が浮かび上がる。
_「本当の美食を求めて旅をせよ。そこに真実の物語がある」_
慎は首を振った。
幻覚か、それとも死後の世界か。
しかし肉体は確かに存在している。
服装は取材先で着ていたままのジャケットにシャツ。
ポケットを探ると、万年筆と手帳、そして小さなナイフが出てきた。
「お腹が……」
現実感を取り戻すように訪れた空腹感。
死んだはずなのに、体は生きている証を告げていた。
慎は立ち上がり、周囲を見渡した。
森の中に小道が見える。とりあえず進むしかない。
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小道を30分ほど歩いたところで、慎は小さな流れに出くわした。
清らかな水が岩間を縫って流れている。喉の渇きを覚え、手を使って水を掬い飲んだ。
冷たく甘い、今まで飲んだどの水よりも美味しい。
「こんな美味しい水、日本にあっただろうか……」
水辺の岩に腰掛けると、何かが跳ねる音が聞こえた。
目を凝らすと、上流で小魚が飛び跳ねていた。透明な体に虹色の斑点。
見たことのない魚だ。
「食材になるだろうか」
職業病だろうか、すぐに料理の可能性を考えてしまう。
慎はポケットのナイフを取り出し、水辺の細い木の枝を切り落とした。即席の釣り竿を作る。
シャツのボタンを一つ外し、即席の釣り針に。
「……編集部だったら、こんな原始的な方法、ボツにするだろうな」
自嘲気味に笑いながら、慎は釣りを始めた。
驚くべきことに、すぐに魚が針にかかった。
3匹目を手に入れたところで、慎は満足して釣りを終えた。
次は火だ。
取材で学んだ知識を総動員し、摩擦で火を起こすことに成功。
小さな焚き火の上で魚を焼く。
シンプルな塩もないので、そのまま焼くしかない。
香ばしい匂いが立ち上る。
「いただきます」
一口食べると——驚愕した。
塩も調味料も使っていないのに、魚の身は甘く、微かな塩味と香草のような風味がある。
「なんだこれは……」
もう一度食べる。
確かに調味料なしなのに、完璧な味わいだ。
まるで素材そのものが調味料を内包しているかのよう。
「ガストロニア世界の食材は自然の味わいが強いのかもしれない」
ふと、そんな地名が頭に浮かんだ。
「ガストロニア」——美食の国。
自分がいる世界の名前が、まるで既知の情報のように脳内に存在していた。
魚を食べ終えると、満腹感とともに不思議な高揚感が訪れた。体が軽くなり、視界が鮮明になる。
「これは……食材の力?」
編集者として様々な食の取材をしてきたが、こんな即効性のある食材は見たことがない。
慎は「旅食手帳」を取り出し、万年筆で記録を始めた。
_「彩虹魚——透明な体に七色の斑点を持つ小魚。調理法:直火焼き。
特徴:調味料なしでも完璧な塩加減と香草の風味がある。
効能:視覚の鋭敏化と身体の軽量化。
産地:ガストロニア南部の清流」_
不思議なことに、彩虹魚という名前も、自分がいる場所も、自然と理解できていた。
まるで何かが情報を直接脳に送り込んでいるかのようだ。
「これが『旅人の椀』の力なのだろうか……」
手帳に記入し終えると、ページが微かに光った。
そして次のページに新たな文字が浮かび上がる。
_「旅立ちの儀式は完了した。これより汝を『食の旅人』と認めよう。見よ、北へ進めば人の集う村がある」_
慎は手帳を閉じ、立ち上がった。
腰にナイフをしまい、「旅人の椀」と「旅食手帳」をジャケットの内ポケットに収めた。
「北へ、か……」
太陽の位置から方角を判断し、北へと歩き始める。
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「あれ?あなた、旅人?」
村の入り口で、慎は小さな声をかけられた。
振り返ると、そこには——誰もいなかった。
「ここだよ、ここ!」
視線を下げると、空中に浮かぶ青い光の玉があった。
よく見ると、それは人の形をしている。
身長は10センチほど、透き通るような青い体に、蝶のような翅を持つ小さな存在だった。
「き、君は……?」
「僕はピコ!このフォレッジ村の案内妖精だよ!」
妖精。本当に異世界に来たのだと実感する。
慎は目を瞬かせながら、小さな存在に挨拶を返した。
「佐々木慎だ。確かに旅人……らしい」
「へえー、変わった名前だね。でもさっきから気になってたんだ。あなたから美味しそうな匂いがするよ!」
慎は思わず自分の服を嗅いだ。
確かに少し魚を焼いた匂いがするかもしれない。
「あ、それもだけど、」
ピコは慎のポケットを指差した。
「その椀!それって『旅人の椀』でしょ?」
慎は驚いて椀を取り出した。
「知っているのか?」
「もちろん!伝説の道具だよ。持ち主は『食の旅人』になれるんだ!村長さんに会わないと!」
そう言うと、ピコは慎の肩に飛び乗った。
「案内するよ!フォレッジ村へようこそ!」
慎は村の門をくぐった。
家々は木と石で作られ、屋根には色とりどりの花が植えられている。
人々は人間のようだが、耳が少し尖っているのが特徴的だ。皆、慎に好奇心の視線を送ってくる。
「どうやら、もう一つの人生が始まったようだな」
慎はそう呟き、新たな世界への一歩を踏み出した。
『月刊 美食探訪』副編集長としての人生は終わり、「食の旅人」としての物語が始まろうとしていた。
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村長の家は、大きな樫の木の下にあった。
扉を開けると、温かいスープの香りが漂ってくる。
「お邪魔します」
「おや、新しい旅人かね?」
白髪と長い髭を蓄えた老人が、暖炉の前に座っていた。彼の横には若い女性が立ち、スープを煮込んでいる。
「はい。佐々木慎と申します」
「わしはトロム、このフォレッジ村の長だよ。そしてこちらは孫のリナ」
リナは微笑み、頭を下げた。
「よろしく、旅人さん」
「ピコが言うには、あなたは『旅人の椀』の持ち主だとか」
慎は椀を取り出して見せた。
トロム村長の目が輝く。
「本物だ……伝説の品が、また現れたか」
「この椀について、何か知っていることがあれば教えていただけませんか」
トロム村長は頷き、リナにジェスチャーした。
彼女はスープの入った器を慎に差し出した。
「まずは腹ごしらえだ。旅の話は食事と共にするものだよ」
スープは森の香りがする。
マッシュルームと根菜、そして見たことのない香草が入っている。一口すすると、体の疲れが溶けていくようだった。
「美味しい……」
「リナの『森の恵みスープ』だよ。
村の名物でもある」
慎の編集者としての習慣が顔を出す。
「このスープの作り方を教えていただけますか?」
リナは少し驚いた様子だったが、喜んで説明してくれた。慎は「旅食手帳」に記録する。
不思議なことに、手帳に書き込むと、材料の正確な名前や特性まで浮かび上がってきた。
「『旅人の椀』は千の味を知る者だけに姿を現す。そして、その持ち主は『味の記憶』を引き出す力を持つと言われている」トロム村長が語り始めた。
「味の記憶?」
「そう。料理に込められた思いや記憶を、食べる者に直接伝える力だ。失われた味を再現したり、料理に込めた感情を伝えたりできるという」
慎は椀を見つめた。
「なぜ私がこの椀の持ち主に?」
「それはわからん。だが、椀が選んだのだから理由があるのだろう」
会話の間も、慎は手帳にスープのレシピと村長の話を記録していた。
そのプロフェッショナルな姿にリナは興味を示した。
「旅人さんは、前の世界では何をしていたの?」
慎は一瞬躊躇った。
異世界転生という状況は、この世界では珍しくないのだろうか。
「料理の……記録者だった。人々の作る料理を言葉にして残す仕事だ」
「素敵な仕事ね」リナは目を輝かせた。
「あなたなら『旅人の椀』の力を使いこなせるかもしれない」
トロム村長がうなずく。
「明日は村の収穫祭だ。よければ参加していってはどうだ?」
慎は申し出を受け入れた。
この村で一晩過ごし、この世界について学ぶ絶好の機会だった。
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村の宿に案内されたが、宿代はなかった。
「食の旅人はどこでも歓迎されるんだよ」とピコが説明した。
部屋に入ると、窓の外では夕日が森の向こうに沈みかけていた。慎は一日の出来事を振り返りながら、手帳に詳細な記録を残した。
_「ガストロニア世界初日——フォレッジ村に到着。"旅人の椀"と"味の記憶"について知る。明日は収穫祭。この世界の食文化を学ぶ最初の機会となりそうだ。」_
ペンを置き、慎は窓の外を見つめた。前世では常に締切に追われ、景色を眺める余裕もなかった。
異世界での人生は、こうして静かに夕暮れを見つめることから始まるのだろうか。
「本当の美食を求めて旅をせよ、か……」
かつての自分は、常に他人の料理を伝える立場だった。これからは自分自身が料理を通じて何かを伝える立場になる。
その違いは、想像以上に大きな変化かもしれない。
「明日からが本当の旅の始まりだな」
慎はそう呟き、静かに目を閉じた。
疲れ切った体には、久しぶりの安らかな眠りが訪れようとしていた。