結婚初夜。離縁されたらおしまいなのに、夫が来る前に寝落ちしてしまいました
マール王国第五王女、シーラ。
私はこの度、レックス・ウォルター伯爵様と結婚しました。
伯爵様は情熱的な赤い髪と瞳をおもちの騎士様で、王国西部に度々出没する海獣の討伐で功績をあげ、ウォルター伯爵位を賜りました。いかにも熱血漢という見た目とは裏腹に、とても不愛想……失言でした。とても寡黙なお方です。
伯爵様と私の出会いは、王都から少し離れた、セルモという町の市場でした。王都から人を探しに来たと言われ、私は彼を警戒しました。というのもその時、私はすでに知っていたのです。自分がマール国王陛下の落し胤だと。
私の亡き母は踊り子。絶世の美女だった母のひそかな自慢は、高貴なお方と一夜を共にして子をもうけたこと。それが私だったわけです。
今でこそ隠していませんが、私の髪と瞳はこの国の西部にあるベルデ海を思わせるターコイズブルー。その色を、母は薬で茶色く変えて育てていました。
私を産んでからも母の美貌は衰えず。売れっ子でしたので、生活は苦しくありませんでした。しかし生前、母は口癖のように言っていました。あなたが十五歳になったら、一緒に王都へ行こうと。そうすればこんな暮らしとおさらばできると。
母は「こんな暮らし」と言っていましたが、私は気に入っていました。母が仕事に行っている間、市場のみなさんが私の面倒を見てくれて、そのうち仕事のお手伝いをするようになりました。母はよくお酒を飲む人でしたので、私を残して早逝してしまうのではないかと市場のみなさんは心配していたそうです。
おかげで私は育てた野菜を売るようになり、自分ひとりで食べていく分には困らない程度に稼げるようになりました。それもこれも市場でともに働くみなさんのおかげです。
そして皆さんの予想は的中。私が十五歳になる日を前に、母は突然倒れました。肝臓が悪かったそうです。当時、私は野菜以外にも薬草を育てるようになっていましたが、弱り切った母には何の効果もありませんでした。
母は死に際に教えてくれました。私が、マール国王陛下との間にできた子だと。王宮に行けば陛下がきっとお前を助けてくれる。私の分まで幸せになっておくれと。それが、母の最期の言葉でした。
母を弔った後、私は王宮へ行き……ませんでした。なぜならマール王室にはすでに、四人のお姫様がおられたからです。私が一番年下なので、ようするに腹違いのお姉様ですね。
突然現れた第五王女。踊り子の娘。対して、お姉様たちの母君はどなたも名家のご出身です。平民かつ市井で育った私は、どう考えても歓迎されません。私を味方してくれたであろう母も、すでに亡くなっています。
贅沢な暮らしをしたいがために、冷遇されるのが目に見えている環境に飛び込むのと、このまま市場の一員として優しい皆さんに囲まれてひっそり暮らすのと、どちらが私にとって幸せかと問われれば、圧倒的に後者だったわけです。
母の遺言にそむくのを申し訳なく思いつつ、私はそれからもセルモの町で暮らしました。そのうち、薬草を煎じて薬を売るようになり、ささやかながら貯金する余裕も出てきました。
そんなこんなで順調にひとり暮らしをしていたわけですが、ある日、トラブルが起きました。母が飲ませてくれていた、髪と瞳の色を変える薬。亡くなる間際の話から、おそらくこの薬を飲まなければ外見でマール王家の血筋だとばれてしまうのだろうと察し、母が亡くなってからも飲み続けていました。
その日も薬の残りがなくなったので、いつも調合を頼んでいる薬師のところに買いに行ったのです。しかし作り置きの薬がなく、材料の在庫も切らしているので取り寄せなければならないと。
薬の効果が切れる前に、私は別の薬で髪を茶色く染めましたが、瞳の色はどうにもならず。いつもの薬が手に入るまでの辛抱だと、暑い中、フードを目深に被ってごまかしていました。貯金があるとはいえ、その薬はなかなか値が張る品。王族の血をひいているとばれないためには、一生飲み続けなければなりませんから。
そうしてしばらくの間、ごまかしごまかし働いていたところに、当時まだリーヴァ男爵家の四男でいらしたレックス・リーヴァ卿がやってきたのです。
暑い中でも律儀に騎士服を着こんでおられたので、ひと目見て王都からやってきた騎士様だと分かりました。
レックス卿は市場のみなさんに、「ターコイズブルーの瞳をした町娘を探している」と聞いて回っていました。まさに私もその場に居たのですが、みなさんは私が茶色い瞳だと思っていますから「そんな娘が市場にいるわけないだろう」と笑いました。
私も一緒になって笑って、すぐ自分の露店に戻りました。ここは貯金よりも、王族だとばれないことのほうが大事です。あの騎士様がセルモの町を出て行くまで休業しようと店を片付け、薬草と薬を箱に詰めて家に持ち帰ろうとした、その時でした。
慌てるあまり小走りだった私の頭からフードが取れ、ちょうどその目の前に、レックス卿がおられたのです。ばっちり目が合って、もう何の言い逃れもできませんでした。
レックス卿の話では、セルモの市場でターコイズブルーの瞳をした娘を見たという噂が王都で流れており、それが国王陛下のお耳に入って、卿が探しに来たのだそうです。
私が浅はかでした。フードを目深に被ったくらいではごまかせていなかったのです。つまり先程、市場のみなさんが「そんな娘が市場にいるわけないだろう」と笑ってくださったのもおそらく、私が隠したがっているようだからと助けてくださったのでしょう。
見つかってしまったなら仕方ない。私が行かないと言ったところで、レックス卿は王命を受けてきているわけですから。逆らっても無駄だろうと抵抗をやめ、私はその日のうちに市場のみなさんに別れを告げました。
かくして母の遺言どおり、私は王宮へ。
道中は馬車でしたが、その時からレックス卿は寡黙でした。時折「疲れておりませんか?」とたずねられる以外は無言。薬の効果が切れて私の髪が元の色に戻っても、特に驚く様子もありません。
私も私で、騎士様が楽しめるような話題が何も思いつかなかったものですから、無言のままあっという間に本当の実家に到着。すぐにマール国王陛下と謁見することになりました。
国王陛下にお会いして、驚きました。陛下は私とまったく同じ髪と瞳の色で、これはマール王族の特有色なのだと言われました。そして自分の子でこの色を受け継いだのは、王太子だけなのだとも。
その話を聞いて、母が王宮に行くようにと言った理由がわかりました。私のお姉様たちは皆、金髪だったり黒髪だったり、母君ゆずりの容姿。つまり母には、自信があったのです。マール王族の特有色をもつ娘を、国王陛下が可愛がらないわけがないと。
母の予想通り、国王陛下は私のことを大層可愛がってくださりました。しかし陛下には跡継ぎの王太子殿下、王妃様とご愛妾が三人。そしてそれぞれにひとりずつ、美しいお姫様――私のお姉様たちがおられるわけで。
ここから私の悲惨な王宮生活が幕を開けました。
まず王妃様。妾が三人もいるのに王都の外でまた面倒なことをと、なぜか私がお叱りを受けました。
ご愛妾の三人からは「私たちは貴族の出だけれど、あなたの母親は平民だから。一緒にしないでちょうだい」と、私がご挨拶もしないうちから牽制されました。
そして四人のお姉様からは「その髪色はお前に似つかわしくないから染めろ」だの、「母親のように男をたぶらかして生きてきたのか」だの、「卑しい血の流れたお前となど一緒に住めない」だの、「この王宮から生きて出られると思わないことよ」なんて散々に言われました。
母が「十五歳になったら王宮に」とこだわっていた理由がよくわかりました。こんな仕打ち、幼いうちにされたらひとたまりもありませんでしたから。
そうして私は王宮のすみっこで使われていなかった宮に追いやられたのですが、幸いにも薬草や野菜の種を持ってきていました。荒れ放題の庭園を耕して畑に。魔力を注いで収穫を早めました。
数日経って様子を見に来たお姉様たちに驚かれました。私がまだまだ元気そうだったからです。
誰に世話をしてもらっているのか吐けと言われましたが、そんな人はいません。
私の場合、どれだけ土仕事をしても、自分で作った傷薬を塗ればすぐに手がきれいになりますから、まさか誰からも世話をされず生き延びているなんて思わなかったのでしょう。母が亡くなってからずっとひとり暮らしだったので、家事には慣れっこだったのです。
身の回りのものやドレスは、国王陛下が贈ってくれた品々があります。唯一困ったのは食材がひとつもない厨房でしたが、お隣の宮の侍女にこっそり傷薬を融通して、ご自宅のお塩を分けてもらいました。
欲を言えば小麦粉なんかも欲しいところですが、私との繋がりがばれればこの侍女さんは即クビですから、最小限の行動しか頼めません。
となると、食べられるのはお野菜だけ。葉物のお野菜は早いものだと一日もあれば育ちますが、じゃがいもやカボチャのように実を結ぶものは魔力を注いでも育ちが遅いのです。
はじめてじゃがいもが収穫できた時は、ようやくお腹いっぱい食べられるという喜びを感じながらも、貯蔵する分と次の種イモにする分を冷静に選別していました。
こうなってくると、最早ただの農家……いや、野菜を売りに行けないので、農家より大変かもしれません。
こっそり王宮を抜け出して市場で売ってはどうかとチャレンジしたこともあるのですが、マール王宮では私の外見だけですぐに王族だとばれてしまいます。当然、頭を隠しても確認されてしまいます。
外に出ようとするのはもうおやめください、国王陛下と王妃殿下に我々が罰せられてしまいますと門番さんに懇願され、外出はあきらめました。
そして、王宮の中では慎ましやかなのでしょうが、平民暮らしだった私からすれば雨風をしのぐには豪勢過ぎる、お手入れが大変なだけのお屋敷。私以外誰も居ませんから、薬草や野菜の世話以外の時間はほとんどお掃除です。
そのうち、そこに午後からマナーの授業が入るようになりました。体も頭もたくさん使い、疲れでぐっすりと眠れるところはそう悪くないのですが……そうそう。お茶の授業も、勉強の一環としてお菓子を食べられるのでとても助かりました。
◇
その後、お塩の侍女さんとは季節が過ぎるごとに絆が深まり、王宮での出来事を教えてくれるようになりました。
マール王国の要は海からの恵み。今でこそ豊かな国ですが、西部の海辺に度々現れる海獣を果敢に討伐してきた、マール王宮騎士団なくしてはここまで発展していなかったと言われています。今も海獣が現れた時は、騎士団の皆さんがご活躍なさっているとのこと。
しかし、海辺での戦いは砂に足を取られ、時には船の上で戦うことも。海獣との戦いの最中、海に落ちればまず命はないという、とても過酷なお仕事。海獣が現れない平時でも、王宮の警備を務めながら日々の鍛錬が欠かせないそうです。
そんな話を聞いて、さぞ生傷が絶えない毎日を送っていらっしゃるのだろうと思いました。ちょうど余ってもったいないと思っていた薬草があったので傷薬にし、騎士団の修練場にお裾分けに行ったのです。
騎士団長に渡せばいいかなと思っていたら、ちょうど団長の隣にレックス卿がおられて、私と目が合うなりすたすたと歩いて来られました。
「第五王女殿下にレックス・リーヴァがご挨拶申し上げます」
「あっ、お久しぶりですね……!」
「はい。ご無沙汰しております」
その後お変わりありませんかとか、何か不自由なことはございませんかとか、そういった会話が続くことなく、ただじっと私のほうを見ておられました。追いかけてきた騎士団長が、私とレックス卿を交互に見て、気まずそうになさっておりましたね。
「それで姫様。どのようなご用件で?」
「あっ! 騎士団のみなさんのご活躍を耳にしまして、差し入れを持ってきたのです。海獣の討伐や日々の修練で大変かと思いますので、よろしければ傷に塗ってください」
「……ありがとうございます」
持って行った傷薬は団員の方々にとても喜んでいただけて(レックス卿はほぼ無言でしたが)、私も薬草を無駄にせず済んでいいこと尽くめ。るんるんと屋敷に戻ったところまではよかったのですが……
やられました。そう、倉庫に貯蔵していたじゃがいもを奪われたのです。嫌な予感がして庭園(という名の畑)に行ってみますと、大きくなりかけていたカボチャも全部見当たりません。他のお野菜たちも乱雑に踏み荒らされています。
ちょっと自分の生活に余裕が出てきて、余った薬草で騎士の皆様に傷薬をと思っただけだったのに、またしても大ピンチ。次の収穫までまた葉物のお野菜でシャクシャクと食べ繋いでいかなければいけませんでした。
時々、国王陛下がこっそりお茶に誘ってくださる時の軽食が、どんなに美味しかったことか。
それにしても陛下は、私が来た時より痩せていこうが何の言及もされないんですよね。こっそりお茶に誘ってくるところからして、おそらく王妃様から私に構うなと言われているんだなと察せられました。
いいんですよお父様。こうしてたまにお肉たっぷりのサンドイッチやら、バターとお砂糖がたっぷり入った焼き菓子をいただけるだけで。
もっと言えば定期的に小麦粉や卵、チーズなんかを宮に手配していただけると嬉しいのですが、そうしていただいたところで私が不在にしている間にお姉様たちの手先に奪われるのが関の山。ご機嫌を損ねないように、私はこのまま不健康そうな体で過ごすしかないんだと、胃袋いっぱいに軽食を詰めこみました。その場限りの幸せです。
三日と日をあけず訪れる災難(お姉様たち)にもめげず、相変わらず自給自足の農家と化していた私ですが、騎士団に傷薬を持って行くことは続けていました。
そんなある日。相変わらず寡黙なレックス卿に、小さな紙袋を渡されました。
「第五王女殿下。これを」
「……私にくださるのですか?」
「はい」
「あっ、ありがとうございます」
「いえ。それでは」
あんなに語彙が少なくて大丈夫なのか心配になりましたが、そんなことより何をくださったのかが気になりました。食べ物だといいなと思いながら紙袋を開けると、小瓶に丸い飴玉が入っていました。
もう最高です。そのまま食べてもいいですし、お湯に溶かせば甘い飲み物だって作れます。しかも長く保存できますし、小さな瓶に入っているので出かける時にお塩と一緒に持ち運べば、不在の間に奪われることもありません。
それからというもの、私が傷薬を持って行く度に、レックス卿が物々交換するかのごとく飴をくれました。こんなところに連れて来られた時こそ恨む気持ちもありましたが、今となっては救世主です。飴の騎士様です。
四人のお姉様からぴしぴしと鞭を与えられ、時折レックス卿が飴をくださる。そんな鞭鞭鞭鞭飴生活を送ること数年。私は無事に生き延び、成人の日を迎えたのです。
奇しくもその日、お祝いの宴会で国王陛下がレックス卿を呼び立て、褒美を授けられました。なんでも、先日の遠征で単独討伐した海獣が三百頭に到達したそうです。
これは本当にすごいことで、十歳の時から二十九歳に至るまでの十九年間で割ると、年に十五~十六匹も海獣をおひとりで倒してこられた計算です。国の平和にこれでもかと貢献しておられるのだなと、自分のことのように誇らしくなりました。
与えられた褒美はなんと、海岸に近いウォルター伯爵領。男爵家の四男だったレックス卿が晴れて伯爵に! おめでとうございます!
それも嬉しかったのですが、もっと嬉しかったのは国王陛下がレックス卿に王族との婚姻を勧めたことです。陛下が「余の娘から好きな姫を選ぶといい」とおっしゃるのを聞いて、私は思いました。これは私が王宮を出る、唯一のチャンスかもしれないと。
レックス卿が普段私にするように、黙ってじっと見つめました。
飴の騎士様! 本日からレックス・ウォルター伯爵様!
お姉様たちは誰とでもご結婚できるでしょうが、私にはあなたしか助けてくださりそうなお方が居ないのです。こんな貧相な妻はお嫌かと思いますが、なにとぞ、なにとぞこのシーラをよろしくお願いします!
そんな願いが通じた……というより、私の顔があまりにも切実で、とてもお姉様たちを選べなかったのだと思います。レックス卿は国王陛下に言いました。「第五王女殿下を伴侶として迎えたく存じます」と。
ものすごく仕方なさそうなお顔でしたが、私はお行儀よく椅子に座っているのが苦しいほど、心の中で跳ね回っていました。
最高です。これでようやく王宮を出られます。一度出てしまえばこちらのものです。もう何を育ててもお姉様たちも奪いに来ないでしょう。
しかし、すぐにまた別の不安が。そう、離縁されたらおしまいなのです。独身になったらまた王宮に戻らなければなりません。その上、これまでのようにレックス卿から飴の差し入れも貰えなくなってしまいます。
なんとか飴の騎士様こと伯爵様に気に入っていただけるように頑張らなければ。そう意気込んでいたのですが……
「……来ないわね」
結婚式を終えた私は、自分の部屋で伯爵様を待っていたわけです。もう望まれれば何でもするつもりで待っておりましたよ。
来ません。来ないんです。もう夜中の二時なのに。
やっぱりこんな貧相な体では抱く気になれないと。そういうことでしょうか。
初夜の支度をしてくれた侍女さんにも心配されました。お体が細いのでご無理なさらず、旦那様をひっぱたいても大丈夫だと。
もちろん私の命綱である伯爵様に無礼を働くつもりはありませんでしたが、そもそも私に夫婦の営みをお望みでもなかったようです。
「……いや、望みを捨てては駄目よ」
まだ大丈夫。まだ私は起きていられる。ひょっとしたら準備に手間取って(?)なかなか私のお部屋に来られないだけなのかもしれない。
そう思って耐えていましたが、窓の外が白み始めた頃。ちょっとだけ……とベッドに横たわったのが失敗でした。結婚式の疲れも相まって、私はそのまますやすやと眠ってしまったのです。
◆ ◆ ◆
私――レックス・リーヴァ……いや、今はもうレックス・ウォルターか。私は今、自室を出ようとしては席を立ち、しかし踏ん切りがつかずソファーに戻るという行為を繰り返している。
今日をもって私の妻になった、第五王女のシーラ姫様は、国王陛下とセルモの踊り子の間にできた御子で、随分大きくなってから見つかった。
髪と瞳に現れる、王族の特有色。陽を浴びた海面のように輝くターコイズブルーは、ひと目見ればマール王家の血をひいていると明らかに分かる。
当時王都で「ターコイズブルーの瞳をした娘をセルモの市場で見た」という噂がながれ、それを耳にした国王陛下から、心当たりがあるので見つけたら王宮に連れてくるようにと命じられたのが私、レックスだった。
王都から少し離れたセルモは、小さい町ながら活気ある市場で有名だった。
陛下のお話では、もし自分の娘であれば十五歳ほどだろうとのことだった。しかしマール王族の特有色が発現しているなら、十五年も見つからず暮らすのは至難の業。きっと誰かが見間違えたのだと思いながら、とりあえず市場を調べたのだが……
居た。
見るからに怪しい、フードを深く被った、十五歳くらいの娘が。とりあえず「ターコイズブルーの瞳をした町娘を探している」と聞いてみたが、皆が口を揃えて「そんな娘が市場にいるわけないだろう」と笑っていた。
しかしその娘は一緒になって笑った後、逃げるようにその場を後にした。
どう考えても怪しい。あの娘に違いないと追いかけたら案の定、フードが取れた顔にはターコイズブルーの瞳が輝いていた。
シーラ姫様の話では、母君はすでに亡くなっており、マール国王陛下の御子だという事実は母君がお亡くなりになる間際にようやく教えてもらったのだとか。
そしてこれまでひっそりと暮らせていたのは、値の張る薬で髪と瞳の色を変えていたからだと。いつも入手していたその薬の在庫が切れて、数日だけの辛抱だと思ってフードを被って商売を続けていたらしい。
そのたった数日で、王都にまで噂が広まってしまったのがシーラ姫様の悲劇の始まりだった。
これまで姫様の面倒を見てきた市場の者たちは皆温かく、姫様もセルモに残りたがっていた。しかし残念ながら、姫様のお望みどおりにはできなかった。陛下から「見つけたら連れてくるように」と命じられた手前、私は陛下に従うしかなかったのだ。
シーラ姫様に会う前こそ、一夜限りの相手が身籠っていただなんてと明らかに面倒がっていた国王陛下も、ひと目見るなり態度をがらりと変えた。他の姫様たちが受け継いでいないターコイズブルーの髪と瞳がいたく気に入ったご様子だった。
母君とお会いしたことはないが、平民の踊り子(国王陛下は歌姫とおっしゃっていたが、姫様曰く踊り子だったらしい)が陛下に呼ばれたのだから、相当美しい人だったのだろう。シーラ姫様も見目麗しかった。なぜ過去形なのかというと、今となっては不健康なか細さでその美しさが薄れてしまっているからだ。
私がセルモへ探しに行った時はふっくらとまではいかずとも健康的な体型だったのが、王宮で暮らすにつれて少しずつ痩せていった。男爵令息とはいえ平民と変わらない生活をしていた私にはなんとなくわかった。まともに食事にありつけていないような痩せ方だと。
一夜限りのつもりだった国王陛下の落とし胤。母君もすでに亡くなられている。王宮の中で、シーラ姫様はさぞ肩身の狭い思いをしていたのだと思う。
そんなシーラ姫様も、騎士団での人気は凄まじい。薬草が育つ度に作ってくださる傷薬が非常に好評なのだ。差し入れられた傷薬は団員たちでありがたく使わせてもらった。
これほど良い品、高値で売っても欲しがる者がごまんと居る。あのままセルモの市場で働いていたほうが幸せに暮らせただろうにと、姫様をお見かけする度に申し訳ない気持ちになっていた。
最悪なことに、騎士団での評判が広まるにつれて、姫様はさらに痩せてしまった。
元々、王妃殿下やご愛妾、他の姫様たちは、突然現れた第五王女がマール王族の特有色を発現していたのが気にくわなかったのだと思う。
それが見目だけでなく能力もある人材で、国王陛下もシーラ姫様とふたりきりでお茶を楽しまれるようになった。陛下の御子とはいえ半分は平民の癖にと、なおさら気に障るようになったのだろう。
一方、私も姫様と似たようなところがあって、いくら武功で副騎士団長の座までのぼりつめたといっても、没落寸前の男爵家出身というところは変わらない。下級貴族の出身者が、こんなに高い役職に居るのはマール王宮騎士団史上、初めてのことらしい。
同じく下級貴族の騎士からはお前は私たちの希望だなんだと言われる。
しかし、王宮騎士の要職は高位貴族が大半を占める。
海獣が出てきた時は実家の家格が低い順から隊長に招集されて、「他の者たちは万一の時に備えて城を守らなければならない。討伐はお前たちに任せる」以上、解散だ。
中には怪我で引退せざるを得なくなった者も、殉職した者もいる。しかし言わずもがな、実戦を経験した者のほうがより強くなる。私もそれで現在の地位までのぼりつめた。
もちろん、高位貴族出身の騎士、皆が皆悪いわけではない。
生まれた時から家に立派な剣があり、良き師を仰げる。そんな環境で真面目に鍛錬して騎士団に入れば、要職に就くのはごく自然な流れ。問題は、真面目に働いてくれない大貴族の坊ちゃまたちだ。
彼らは家柄を笠に、好き放題振舞っている。
海獣討伐を自ら志願することはなく、民の命が自分の剣に懸かっているという危機感が薄れている。そのせいで日頃の修練にすら身が入らず、そのくせ口は達者。私に対しても「役職がつこうが所詮は男爵令息」だとか「没落寸前の、継ぐ爵位も持っていない者に従えというのか」などと言うこともしばしば。
団長にも相談したが、実力で敵わないのが悔しいから家柄で優位に立つしかない、ああいう奴らの家はそのうち没落するから気にするなと。
しかし副騎士団長なんて役職がついてしまえば、従わない者がいるのは騎士団の恥。
どうすれば彼らに責務をまっとうさせられるだろうか。
そう悩んでいた私を救ってくださったのが、シーラ姫様だったのだ。
その日もシーラ姫様は、騎士団に傷薬を差し入れてくださった。しかしお帰りになるその後ろを、件の団員たちが三人でついて行く。嫌な予感がした私は、団長に断って彼らの後をつけた。
姫様が住まう宮の近く。人気がなくなったところで、彼らは姫様に声をかけた。
「シーラ姫。少しよろしいですか?」
「ああ、よかった。どこまでついてくるのかと思ったわ」
「すみません。助言すべきか迷っていたら、こんな寂れたところまで来てしまいました」
姫様は驚く様子なく、彼らの声かけに応じた。私が柱の陰に隠れていることにはお気づきでないご様子だ。
彼らの表情は見えなかったが、言葉の端々から姫様のことを敬っていないのだと感じられる。
「そんなに伝えづらいことだったの?」
「はい。もう副騎士団長に傷薬を渡すのはやめたほうがいいかと」
「どうして?」
「奴があの傷薬を、城下で売り払っているからです」
事実無根の話に、思わず柱の陰から出てしまいそうになった。
姫様から受け取った傷薬は騎士団の詰め所に保管し、団員たちの治療に使っている。古傷にも効くとのことで、差し入れていただいて一週間ほどですべて使い切ってしまうのだ。
しかし彼らは自分たちの話をさも本当のことのように、真実を織り交ぜながら姫様に聞かせた。
「ご存じないかもしれませんが、あいつの実家は没落寸前でして」
「奴は給金だけでは足りず、傷薬を売った金も実家に送っているようなのです」
「その証拠に。我々は一度も、姫様の傷薬を使ったことがないのですよ」
実家が没落寸前なのは本当の話。給金を実家に仕送りしている話も本当だが、傷薬は売っていない。そして彼らが傷薬を使ったことがないのは本当の話。なぜなら、傷ができるような働きをしていないからである。
「どうです姫様。そんな奴、副騎士団長に相応しくないと思いませんか?」
その時。私はほんの少しだけ、柱の陰から顔を出した。シーラ姫様の反応が気になったのだ。もし姫様が彼らの話を信じてしまったらどうしようかと。
しかし姫様は、三人に向かってきっぱりとおっしゃった。
「そうは思わないわ。レックス卿は副騎士団長に相応しいお方よ」
「……はぁ」
「どうやら姫様は、我々の話を理解できなかったようですね」
「まあ仕方ないだろう。姫は平民として暮らしておられたのだから」
自分たちの話を信じないシーラ姫様に、彼らは揃って溜息をついた。明らかに、姫様を小馬鹿にしている。しかし姫様は怒りもせず、ただ彼らにたずねた。
「じゃあ聞くけれど。レックス卿が城下で私の傷薬を売り払っているところを、実際に見たことがあるの?」
姫様からのご質問に、彼らはしばらく黙り込んだ。
嘘を吐くなら貫き通せばいいものを、私が傷薬を売り払っているのを見たと返す者はひとりも居ない。結局のところ、彼らは嘘を吐いてでも私を貶めるという覚悟すらなかったのだ。
「……いえ。直接見たわけでは」
だいぶ間が空いて、彼らのうちのひとりがそう答えた。
「それなら、ただの噂かもね。レックス卿は副騎士団長のお仕事と修練で忙しくなさっているから、そんな暇は無いと思うのよ。同僚のあなたたちも、彼の働きぶりを見てそう思わない?」
「それはまあ……しかし、奴の家が困窮しているのは本当の話です」
「そうね。幼い頃は平民同然の暮らしだったと聞いたことがあるわ。そこから副騎士団長になったのだからすごいわよね」
「どこがすごいのです? ただ現れた海獣を倒していたらそうなっただけで」
「そもそも、奴の家は騎士の家系でもありません」
「家に剣が一本もないからと、幼い頃は斧で戦っていたらしいですよ?」
息を吹き返したようにけたけたと笑う三人。しかしどれも本当の話だ。私が幼い頃から海獣を倒していたのは家が貧しかったからで、最初の頃は家にあった斧で戦っていた。それも戦闘用ではなく、薪割り用の。それしか武器にできるものがなかったのだ。
シーラ姫様にも笑われてしまうだろうかと思ったが、姫様だけは少しも笑っていなかった。
「そんな話で笑うということは、あなたたちは生まれた時から家に剣があったのね。剣を一本買うのが、どれほど大変なことか知らないんでしょう?」
「ははっ! そんなこと、姫様もご存じない――」
途端に、彼らの笑いが止まった。
そう。シーラ姫様は知っておられるのだ。平民として市場で働いておられたのだから。
姫様はこう続けた。
「剣術を習うにもお金が要るし、なけなしのお金を払っても、まともな師を仰げないことだってあるの。それで今の地位までのぼりつめたのだから、レックス卿の苦労は途方もないものだったのでしょうね」
姫様の言葉に、とうとう一言も返せなくなった三人。姫様はご自分の宮のほうに踵を返した。
「さてと。次はあなたたちも使えるように、もっと傷薬を持って行くわ。そのうち、レックス卿みたいに強くなれるでしょう。だってマール王宮騎士団のみなさんは、修練に励む仲間を決して馬鹿にしないもの」
そう言い残すと、姫様は爽やかに去っていかれた。
年上の騎士三人を前にして物怖じしないお姿は、平民として育ったとは思えないほど凛として。しかし平民の暮らしがどのようなものか身をもって知っておられるからこそ、私の苦労をよく理解してくださっていた。
おそらくこの時に、私はシーラ姫様に対して恋心を抱いてしまったのだと思う。
◇
その後。姫様からの言葉が胸に響いたようで、彼らの勤務態度が著しく改善された。見回りにも修練にも励むようになったし、私に手合わせを申し込んでくることもあった。
何より驚くべきは、彼らが自ら海獣討伐を志願したことだった。修練のかいあって、彼らにとって初めての討伐遠征は成功。皆が大きな怪我なく帰ってこられた。
自分たちの手で国を守ったことで自信がついたのか、三人とも良い顔になったと思う。打ち上げでシーラ姫様を娶りたいなどと抜かしていたので、一生仲良くなれないと思ったが。
おかげで私の悩みは解決した。しかしその間も、シーラ姫様は痩せていく一方。お住まいになっている宮の寂れ具合からしても、満足に食事を与えられていないことは最早疑いようがなかった。
国王陛下がそんなことをなさるはずがないと思うと、王妃様か、ご愛妾たちか、はたまた他の姫様たちの仕業か。はっきりと分からないので、私は何かこっそりと、姫様に食べ物を渡すことにした。
何をお渡しするのが一番良いだろうか。
できればそのまま食べられて、長期保存でき、なおかつ取り上げられずに隠しておける大きさがいい。
――つまり……飴だな。
それからというもの、姫様が傷薬を持っていらっしゃる度に飴をお渡しした。一度にたくさんお渡しすると持ち運びに困るだろうと思い少量ずつ。バターが入った飴は特に喜ばれた。
渡し続けるうちに、姫様の見た目が以前よりは少し健康的になった。
もっと早く思いつけばよかった。しかしあまり元気そうになると、姫様への嫌がらせが今よりも激しくなってしまうおそれがある。
根本的に解決するには、結婚して王宮から出るしかないだろうと思っていた矢先に、シーラ姫様が成人の誕生日をお迎えになった。
国王陛下は姫様のために盛大な宴を催した。姫様が公の場に出るのはこれが初めてだったが、明らかにマール王族と分かる容姿はやはり人目を引き、並んで座っていた他の姫様たちは妬ましさを隠しきれていなかった。
これはまた、シーラ姫様へのやっかみが酷くなってしまいそうだと思っていたら、宴会の最中に国王陛下が私をお呼びになった。なんでも、私が単独で討伐した海獣の数が三百頭に到達し、その功績で伯爵領を与えてくださるらしい。
賜ったウォルター伯爵領は海辺からそう離れておらず、港町までの街道も丈夫で、何度も通ったことがある。海獣を倒すために滞在するにはちょうどよい土地だ。これからも一層討伐に励めという国王陛下からのお達しかと思われる。
褒美はそれだけではなかった。なんと陛下は、王族との婚姻まで勧めてくださったのだ。どうやら副騎士団長に相応しい身分と伴侶をとお気遣いいただいたらしい。
「余の娘から好きな姫を選ぶといい」と言われたが、心はもう決まっていた。私自身がシーラ姫様を娶るだなんて無理がありすぎて考えすらしていなかったので、まさに降ってわいた幸いだった。
第一王女から第四王女まで「男爵家の四男風情が私を娶れると思うなよ」とでも言いたげな顔でこちらを睨みつけてくる。
その末席で第五王女のシーラ姫様が、捨てられた子犬のような目で私を眺めておられたので、喜んで姫様を指名した。
ただ、私が嬉しそうな素振りを見せてしまうとお妃様や他の姫様たちから結婚を妨害されるかもしれないので、あくまでも仕方なさそうな顔でだ。
こうしてシーラ姫様と婚約した私は、着々と姫様を迎える準備をしていた。
王宮で苦労させてしまった分、毎日十分に食べさせて、姫様が望むだけ好きなものを買い与えて、のんびり過ごしてもらおうと。仕事でほとんど帰っていなかった屋敷をきれいに修繕して、侍女を雇って、姫様が好きな薬草で埋め尽くしてもいいように、荒れ放題だった庭園も整備させた。
しかし結婚式が近くなるにつれ、私は次第に焦り始めた。
シーラ姫様から見た私の印象は、おそらく「騎士団に傷薬を持って行くとなぜか飴を渡してくる不愛想な男」もしくは、「私を無理やり王宮に連れてきた不愛想な迷惑男」だ。
いや、圧倒的に後者の印象が強いだろう。もし私があの時、姫様を王宮にお連れしなければ、今もセルモの町で幸せに暮らしておられたのだ。飴程度で償えることではない。もちろん、これから一生かけて償う予定だが。
しかし私の焦りはそれだけに留まらなかった。
今日の日中、教会で挙げた結婚式。シーラ姫様の花嫁姿がまぶしすぎて直視できず、誓いの口づけでうっかり歯をぶつけてしまった。完全に距離を見誤り、ガチッと音が鳴ってしまったのだ。
つまり私は、公衆の面前で早くも妻に恥をかかせた夫というわけだ。
「よし……一旦落ち着こう」
自室のソファーに再び腰かけ、深呼吸を繰り返す。
まずは姫様から平穏な暮らしを奪ってしまったことを謝罪しよう。僅かばかりの差し入れで、罪を償えたとも思っていない。これからは姫様が望むものなら何でも差し上げると。
そして何より、誓いの口づけで歯をぶつけたことを謝らねば……と考えるうちに、ソファーに深く腰掛けていた私はうっかりうたた寝してしまったのである。気づけば、窓の外が白んでいた。
――もう日の出……だと?
最早初夜ではなくなっている。
それでようやく、私は自分の部屋を飛び出したのだ。
◆ ◆ ◆
私――シーラが目を覚ました時。大きな窓からさんさんと陽の光が降り注いでいました。
すっかり寝過ごしてしまった。こんないいお天気、なかなかありません。さあ急いで支度して庭園(という名の畑)を耕そう……と思って気づきました。私はもう、王宮を出たのだったと。
そうです。昨日はレックス卿と結婚式を挙げ、私はこの部屋で初夜の準備を整えてお待ちしていたのです。しかし待てども待てどもお見えにならず。ちょっとだけ横に……と思っての、今です。
鏡を見ればきっと顔面蒼白。そんな私の後ろから、殿方の声が聞こえました。
「……姫様。お目覚めですか」
「はっ、伯爵様!?」
振り向けば、レックス・ウォルター伯爵様がベッドのふちに腰掛けておられるではありませんか!
悲壮感漂う赤い瞳と目が合った瞬間、私の脳裏に「離縁」という言葉がよぎりました。
思い返せば伯爵様は、私を伴侶にとおっしゃった時から仕方なさそうなお顔をなさっていました。結婚式では私に一瞥もくれず、まさかこの場で婚約破棄を言い渡されるのではと思ったほどです。
しかし誓いのキスで伯爵様のお顔が近づいてきて、無事に結婚できそうだとほっとした……のも束の間、伯爵様がなさったのは誓いの口づけではなく、前歯による体当たりだったのです。完全に油断していました。
これはもう初夜でお気に召していただくしかないと思っていたのに、伯爵様がいらした時、私はすでに夢の中。そして起きたのは昼前。初夜はとっくに通り過ぎ、今はもう初昼(?)です。
どこをとっても、最悪としか言いようがありません。
このままでは離縁必至。しかしそれだけはご勘弁いただきたい。せっかく出て来られた王宮に返品されるのだけは、本当にご勘弁いただきたいのです!
最大限の謝罪をと思い、私は速やかに土下座しようとしました。しかしなぜか、伯爵様に先を越されました。大きな体がコンパクトに折りたたまれています。
「申し訳ありません姫様。私は姫様を無理やり王宮に連れて行き、厳しい環境で痩せ細らせた挙句、結婚式で歯をぶつけ、うっかりうたた寝して初夜に間に合わなかった最低な夫です……」
伯爵様の言動に、私の中で安堵と驚きが入り混じりました。
来られなかった原因がうたた寝であれば、わざと来なかったわけではないということ。そして歯をぶつけた件について謝られているということは、あれも故意ではなかったのでしょう。そこはひとまず安心しましたが、伯爵様がこんなに長々と喋っておられることに驚きを隠せません。
しかし私の驚きはそれだけで終わりませんでした。
なんと伯爵様は頭を下げたまま、私にこうおっしゃったのです。
「好きなだけ罵っていただいて構いません。しかし姫様。どうか、離縁だけはご勘弁を……!」
――それは私の台詞では!?
離縁しないでくださいと縋りたいのは私のほうです。伯爵様はちゃんと部屋を訪ねてくださったのですから、何の落ち度もありません。
「伯爵様、お顔をあげてください。最低なのは私のほうです。空が白みだした頃はまだ起きていたのですが」
「そんな時間までお待ちに? 本当に、申し訳ありませんでした……!」
「いえいえ! 仕方なく私と結婚してくださったのに、初夜にいらっしゃるのも待てないなんて妻失格です……ですが、どうか離縁だけはご勘弁ください!」
私がそうお願いすると、伯爵様がやっと顔をあげてくれました。
「……姫様。仕方なく、というのはどういうことです?」
「えっ?」
「もしや私が、仕方なさそうな顔をしていたせい……でしょうか?」
「そ、うですね。見るからに仕方なさそうなお顔でしたので」
次の瞬間、せっかくあげてもらえた伯爵様の顔が、寝台にどすんと沈みました。
「本当に、申し訳ありません。ああいう顔をしなければ、他の姫様たちに妨害されるのではないかと思いまして」
「……あっ! つまり、私を助けてくださるつもりであのようなお顔を?」
「はい。王宮に連れてきてしまったことをずっと悔やんでおりましたので……」
伯爵様の思慮深さと優しさに、私は感動してしまいました。
あの時、伯爵様が誰の目から見ても仕方なさそうな顔で私を選んでくださった。だからこそ私は、誰にも邪魔されず結婚できたのです。お姉様たちからすれば「相手が乗り気でない可哀そうな結婚」に見えて、さぞ愉快だったでしょうから。
「本当にありがとうございます! 私を助けてくださろうと、結婚式でもこちらを見ないようにしておられたのですね?」
そう。昨日の結婚式で、伯爵様は誓いの口づけの時以外、一度も私のほうをご覧になりませんでした。それで退場する時、参列しておられたお姉様たちがとても満足そうに笑っていらしたのです。きっと、この結婚が絶対に上手くいかないとお思いになったのでしょう。
さすがは伯爵様……と思ったら、なぜか首を横に振っておられます。
「違います。あれは単に、姫様の花嫁姿がまぶしくて直視できなかっただけです」
「そうだったんですか!?」
「はい。それで距離を見誤って歯をぶつけてしまいました。姫様たちはそれを笑っていらしたのかと」
「あっ。そういう……」
やっと前歯体当たり事件の真相が分かりました。あれは私との距離を掴み損ねただけだったのですね。あまりに勢いが良かったので、前歯でも体当たりができるのだなとばかり。
しかし私の花嫁姿がまぶしかった、ということはですよ?
伯爵様は私を助けるために仕方なく娶ってくださったのではなく、私との結婚を喜んでおられた。ということになりませんか……?
「伯爵様。まぶしくて直視できなかったということは、私のことが好きだったり……します?」
あれこれ考えるより、これはもうご本人に聞くのが早かろうと、私は思い切って伯爵様にたずねました。髪が赤いので分かりづらいですが、耳が赤く染まっています。
「……はい。それで、直視できませんでした」
今にも消え入りそうな声で律儀にご回答いただき、申し訳ない気持ちがもたげてくるほどです。
しかしおかげで納得できました。私に飴をくださったのも、こうして娶ってくださったのも、私のことを好いてくださっているからだったのですね。
何がきっかけだったのか気になるところですが、それはまたの機会にしようと思います。これ以上何かたずねると、伯爵様のお顔まで真っ赤になってしまいそうです。
「伯爵様。助けていただき本当にありがとうございました」
「いえ。姫様を助けるためではありましたが、伴侶に迎えたいという私的な気持ちもありましたので。感謝されるようなことでは……」
「そんな! 飴も大変助かりましたし、王宮から出してくださった恩人でもあります。助けていただいたからには伯爵様のお望みどおりの妻になります!」
さあ何なりとお望みをどうぞと待ち構えていたら、伯爵様が少し考えた後、私にこうおっしゃいました。
「……私が姫様に望むことは、まずはこの屋敷でのんびりとお過ごしいただくことです。十分に食べて、昼間は城下にお出かけになってもいいですし、庭園も整備しましたので何か植えて楽しんでいただいても結構です」
「そっ、そんな贅沢をさせていただいてもよろしいのですか?」
「はい。欲しいものがあれば何でもおっしゃってください」
「何でも……?」
「はい。姫様のお望みとあらば何でも、ご用意します」
私が伯爵様のお望みを聞くはずだったのに、気づけば立場が逆転しています。寡黙なお方だと思っておりましたが、まさか伯爵様は話術も巧みなのでしょうか。
欲しいもの。一昨日までなら間違いなく「小麦粉、卵、バター!」とお願いしたでしょうが、嬉しいことにこれからは食べるものに困りません。それなら一体、私は何が欲しいのか。そう考えると、ひとつだけ思いつきました。
「伯爵様。私、温かい家庭が欲しいです」
「温かい……家庭ですか?」
首を傾げる伯爵様に、私はこくこくと頷きました。
母は忙しく働きながらも私にたくさん愛情を注いでくれましたし、セルモの市場でお世話になっていたみなさんも、私にとっては家族のような存在でした。しかし母は亡くなりましたし、セルモにはあれから一度も行けていません。
「国王陛下がお父様だとはわかりましたが、離れて育ったからか家族という感じがなかなか……ですので、伯爵様と子どもと私と、笑顔で暮らせるような家庭が欲しいのです」
私がそう話していたら、急に伯爵様が両手でお顔を覆いました。何かに耐えるかのごとく、肩が小刻みに震えています。
「……あっ。申し訳ありません! うたた寝で初夜に来られなかったことを責めているわけでは決してありませんので!」
私としたことが、うっかり子供の話をして、伯爵様が気に病んでおられたことを蒸し返してしまいました。いくら「何でも」と言われたからといって、もっと配慮すべきでしたね!
しばらくの後、両手をするりと外した伯爵様のお顔には、まだ少し動揺が残っているように見えます。
「申し訳ありません。変なお願いをしてしまって……」
「いえ、大変失礼しました。差し支えなければ今、誓いの口づけだけやり直しても構いませんか?」
「やり直しの必要が?」
「はい……式では耐えておられましたが相当痛かったですよね? 本来はああではありませんので」
「そういうことでしたらどうぞどうぞ!」
伯爵様がやり直したいご様子とくれば、私は応じるだけです。目を閉じてお待ちしていると、私の唇にそっと温かいものが触れました。とても静かです。本来はガチッと音が鳴らないものだったのですね。
ほどなくして唇が離れて、私は少し感動してしまいました。昨日結婚式で交わした口づけが嘘のように、何の痛みもありません。
「うふふ……やり直し成功ですね」
「は、はい。今回はどうでしたか?」
「初めては痛いと聞いたことがありましたが、このことだったのですね。二度目は痛くなかったです」
私がそう言うと、伯爵様は真っ赤なお顔で口をぱくぱくさせておられました。何かおっしゃいたいようですが、言葉が出て来ないご様子です。
結局、伯爵様は無言のまま部屋を出て行ってしまいました。
誓いの口づけ(再)が無事上手くいって、これから夫婦として仲良くやっていこうという時に、私はまた何か失態をおかしてしまったのでしょうか……
とにかく、今晩こそは寝落ちしないで伯爵様をお待ちしようと思います。
離縁だけは本当に、ご勘弁いただきたいですからね!
最後までお読みいただきありがとうございました:)
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