静寂の対価
空気が擦れる音さえ聞こえてきそうな静寂の中、控えめに本のページを捲る音が散発的に聞こえてくる。
平日の昼間、私は傘岡市立図書館で受験勉強をしていた。
登下校時の肌寒さが増し、街路樹も小綺麗になった晩秋の頃、学生各々の志望校に向けた自主学習の為に、私の高校では午後は教室での自習か自宅学習のどちらかを自由に選べるようになっている。
学校に残っていても体力を持て余した同級生たちの雑音で勉強に集中できないし、自宅に帰ったらそれはそれで娯楽の誘惑が多すぎて集中できない。第三の選択肢として高校近くの喫茶店で勉強をする同級生も数名いるようだが、席代を兼ねたお茶に数百円も出すのは勿体ない気がして、私は市から無料で提供されている勉強の場として図書館を選んだ。高校からも自宅からも近くはないが、ちょうど通学路の通り道にあるので自然とこの場所が私の学習拠点となっていた。
図書館は静かさを求められる場だが、何より静かすぎないのが受験勉強にはちょうど良かった。監視というわけでもないが、他者の目があるのも怠惰を押さえるのに役立つ。市の財政が厳しいのか、この頃は暖房の効きが控えめでコートを着たままでないと寒気がするのが玉に瑕ではあったが、これ以上贅沢を言うつもりはなかった。
中庭から差し込む曇り色の日差しに手元を照らされながら、志望校の過去問を反復的に解き続ける。
空調が暖気を吐き出す音、遠くでページが捲られる音、短い毛足の床が踏みしめられる音、誰かの腰かけた椅子がきしむ音、そして鉛筆が紙を擦る音。鉛筆。シャーペンが問題を解く鋭い音ではなく、鉛筆が線を描く滑らかな音だった。
ふと音のする方に首を回すと、学生服を着た青年がクロッキー帳を抱えて先の長い鉛筆を走らせていた。その時、私は初めて自分の隣の席に同級生が座ったことに気が付いた。
苗字を思い出すことさえ不安になる程度の、入学してからほとんど言葉を交わしたことのない男子学生だったが、教室の隅の方でよく美術部の仲間たちと一緒に談笑しているのを見かけたことがある。
クラスメイトだからといって、ほぼ他人と挨拶する必要もないだろう。何にせよ、ここは図書館だ。沈黙の価値が尊ばれる場である。向こうは手元の画材に視界を奪われて、私が彼の顔を盗み見たことには気づいていないようだった。彼は無言で鉛筆を走らせている。
目線を分厚い過去問に戻してシャーペンの芯を出し直す。再び問題を解き始めようとしたが、隣席から響く鉛筆の芯が擦れる音が気になって、問題文が頭に入ってこない。多少の抗議の意味も含めて、私は浅くため息をついて席を立った。鞄から財布を探り出して出入り口近くの自販機へと向かう。休憩を兼ねた水分補給をしてこよう。隣席の彼もスケッチを一枚描き終えたら大人しくなるだろう。
出入り口付近は寒気が満ちていて、頭を冷やすのにちょうどよかった。冷たいミルクティーを飲みながら、掲示板のイベント案内や美術館の告知を眺めて十五分ほど時間を潰した。頭が冷えたついでに身体も冷えたようで、思わず身震いをしてしまった。温かいミルクティーにすべきだったか。
暖を求めて席に戻ると彼も休憩していたようで、鉛筆を置いて雑誌を読んでいた。鉛筆の音も止んで、これでようやく勉強に集中できる。そう安堵したのも束の間、私が過去問のページを開くと同時にまたも彼の鉛筆の音が隣から響き始めた。思わず長いため息が出てしまった。
彼の手元から鳴り響く図書館に不釣り合いな音のなかでは問題文が頭に入ってこないので、私はしょうがなく参考書を開いて問題の解説を読み流しながら彼の手が止まるまで時間を潰すことにした。
二十分は経っただろうか、ようやく彼の手が止まり図書館に静寂が戻った。隣の様子を盗み見ると彼は満足げな表情で画材を鞄にしまって机上のゴミを集めていた。どうやら帰るようだ。良かった。これで勉強が再開できる。
深い安堵のなか過去問を解き始めると、静かな足音と共に私の視界に一枚の紙が舞い込んできた。
私の手元を覆った薄い上質紙には、椅子に座り勉強をする女子学生の横顔が描かれていた。顔を上げると、名前も定かではないクラスメイトが微かに笑みを浮かべていた。
「デッサンに疲れたから一般科目の勉強しようと思って来たんだけど、田村さんの一生懸命な顔があんまりにも綺麗だったから、ついつい描いちゃった。」
イタズラっ子のように笑う彼は小声でそう言うと、そのまま振り返らずに図書館から出ていった。
私の手元には綺麗な筆致の、実物以上に美しい少女のデッサンが残された。
私は深くため息をついた。
若い芸術家の体温が微かに残る上質紙を丁寧に鞄にしまうと、私は静寂のなか受験勉強を再開した。自然と口角が緩んでしまうのは、きっと静かな学習環境が取り戻されたからだろう。
この問題を解き終わるまでは、そういうことにしておこう。
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