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なんて綺麗な朝だろう
まるで緑の海のように、視界いっぱいに広がる山々を露台から見下ろして少女は思う。 ここまで美しい光景を見たことがあっただろうか。 山を包む朝霧に昇り始めたばかりの太陽の光が差し込み、今まで見たこともないような幻想的な光景を作り出していた。
朝のそよ風に茶色のポニーテールがなびき、澄んだ茶色の目に陽の光が反射する。
でも、ここまで血で汚れたら台無しだ。
少女の背後にある部屋には、血に染まった老人の死体があった。 少女は血の海に沈む老人を一瞥した後、心の中で冷たく言い放つ。
この朝日が地獄に堕ちるお前への手向けだ。 あの世で反省するといい。
その少女、明美は素手で人を殺すことを好まない。 トドメには必ずナイフを使う。
男は見かけによらず勇敢な老鬼だった。 部屋に忍び込んだ明美に刀を抜いて応戦し、激しい剣戟の末に斃された。 この部屋は瞑想と献身のための山の寺院の一室。 一人でいるのに最適な場所……そしてその薄汚れた本性を隠すのに最適な場所だった。
敬虔な素振りと身なりをしているにも関わらず、この老人は冷酷な悪鬼だった。 恐喝から窃盗、殺人、盗賊まで。 彼の従える盗賊団は近隣に住む人々を恐れさせ、怯える人々に説法を聞かせて信頼を得る。 そして布施という形で彼らから更に財を巻き上げる……
この寺院はそんな老人が擁する盗賊団の秘密基地として使われていた。
「明美ちゃん!」
甲高い女性の大声が部屋の沈黙を破った。
「大丈夫でしたか!?」
少しして別の女性が部屋に入ってくる。
「その名で呼ばないようにと言ったはずだけど」
その女性、由紀は訓練を経て正式にくノ一となった。 だが、幼稚な性格は全く変わっていない。 果たしてそんな彼女に警備を任せて良かったのだろうか?
「由紀はどう? 大丈夫だった?」
「大丈夫です。他の者達はぐっすり眠っています」
「そう……なら良かった。まぁ、殺す必要があるのはコイツらの頭首だけだけど」
「わかっています。でも私はくノ一……いざとなれば手を汚す覚悟は出来ています。貴女と同じように」
「……とにかくあの男だけは殺すしかなかった。あの男の一番の罪は人殺しや窃盗ではなく、嘘で人々を騙し、殺された人々の尊厳を踏みにじっていたこと」
口ではそう言いながらも明美の手は震えていた。 未だ手に残る感触を誤魔化そうとギュッと拳を握りしめ、朝焼けを見つめながら由紀に言う。
「……とりあえず、今はそれを隠しておいて」
「わかりました」
由紀は老人の心臓に突き立ったナイフを抜き取り死体を質素な布で覆う。 そして寺院の露台に立つ明美の側まで近寄った。
「なんて素晴らしい眺めでしょう……私たちの村とはまるで違う世界みたい」
「ああ、本当だね」
「でも……とても寒いです! 私はまだ寒さに弱いんです。この服は薄すぎます!」
由紀の衣装は太ももまで届くかどうかという裾の短いくノ一装束で、腕は殆ど露出している。 消音性の高い特注の脚袋を履いているが、側面は網目状になっており防寒性は皆無。
「明美ちゃんは大丈夫ですか? 貴女の服は私よりずっと寒そうなのに!」
明美の衣装は由紀よりも更に大胆だ。 その衣装は背中まで開いており、腕や肩を露わにするだけでなく胸元も大きく開き、豊満な胸の谷間はハッキリと見えてしまっている。 更にベリーダンサーのようにスリムなウエストに帯を巻き、女性として理想的な黄金比率のウエストとヒップを強調している。 彼女の胸を除いて、彼女の外見の最も目立つ部分は手袋です。 背中に赤いドラゴンのパターンが付いた2つの黒い手袋
「私はもう寒さを感じない。この身体に宿る【龍の炎】が温めてくれるから」
「……うらやましいです。途轍もない力だけじゃなくて、そんなに素敵な身体を手に入れちゃうなんて!」
「・・・・・・」
彼女の言葉に明美は顔を紅潮させた。
「……戻ろうか。今、ここでするような話じゃないよ」
二人のくノ一は歩いて寺院の広場を横切る。 眠った者達は未だに目覚める気配がない……由紀はしっかりと役目を果たした。 どうやら彼女を少し過小評価していたようだ。
「こんなに綺麗で静かな場所を、こんな悪党共が今まで独り占めしていたなんて残念だ」
「頭首が死んだから、この人達も逃げ出してしまうかもしれません……というよりそうなって欲しいです」
「ああ、そうだな」
「他の皆は上手く行ったでしょうか?」
「私が育てた仲間を信じろ。彼らは大丈夫だよ」
「……そうですね、ごめんなさい。ところで明美ちゃんは大丈夫ですか? まだその身体になったばかりなのに、あの木を飛び越えられますか?」
「甘く見ないでくれ。身体がこうなっても訓練の成果は消えないよ」
「あなたは私たちの大事な後継者、【龍を継ぐ者】なんです。私はあなたを一族の村まで無事に連れて行く義務があります!」
「……」
後継者、龍を継ぐ者か……ハァ。
龍を継ぐ者。 由紀が口にしたその言葉を重く受け止めながら明美は重い溜息を吐く。 そして煌めく朝の光に照らされながら、二人の少女は緑の海に姿を消した。