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第291話 バージルとカレー

昼間だというのにあまり人気も活気もない、寂れた貧民街。スラム街と左程差の感じられない治安の悪そうな夕暮れ時の街並みを、バージルは誰に臆することもなく、されど無駄に肩で風を切るでもなく、自然体で歩く。気前のよすぎる雇い主のお陰で懐はいつでも過熱気味だが、給料日の後や、ちょっとした臨時ボーナスが入るとテンションが高くなるのは今でも変わらない。


時折物陰から窺うような視線を感じるが、特に睨み返すでもなく看過して、辿り着いた先は雷の魔道具でジージーと点滅する青紫のネオンが安っぽい、一軒のスナックだ。まだ営業時間外のようだが、クローズドの札を無視してバージルは鍵のかかっていない扉を開く。


「ようエナ婆さん、まだ生きてっかー?」


「縁起でもないこと言うんじゃないよ! 生きてるに決まってんだろ!」


「そりゃあよかった!」


スナック、『エナジー』。店主のエナ婆さんが独りで営むオンボロスナックである。店内は手狭だが清潔感があり、少なくともここで飯を食うのは憚られる、というような酷い有様が当たり前の貧民街の飲食店にしてはかなり綺麗な方だ。


彼女はカウンターの奥で料理の仕込みをしていたようだが、無断闖入者が勝手知ったる顔馴染みであることに気付くと振り向き様に構えた包丁を下ろす。その赤い滴りはトマトだろうか。


「あんた、性懲りもなくまた来たのかい。今じゃすっかりお大尽様なんだから、もっといい店に行きゃあいいのに」


「何言ってんだよ。エナ婆さんのカレーより美味えカレーなんぞ、俺は両手で指折り数えるぐらいの店でしか食ったこたないね」


「はっ! そりゃあ、あんたの舌が貧乏舌ってだけだろ!」


憎まれ口を叩きながらも、若い頃はそれなりの美人だったであろうことが窺える痩身長躯の白髪の老婆はバージルが手土産にと持参した有名店の煎餅缶が入った紙袋を受け取り、着席を促す。バージルは勝手知ったる実家のような態度でカウンター席に座り、出されたおしぼりで手と顔を拭いた。


「最近景気はどうだい?」


「はっ、こんな貧民街の景気なんぞ、悪いかもっと悪いかの2択しかないだろ?」


「そいつはご尤もで」


バージルとエナ婆さんの出会いは、バージルがまだゴルド邸にやってくるずっとずっと前まで遡る。当時はまだ現役の街頭娼婦だったエナおばさんと、駆け出しの若造だったバージルは夜の街角で出会い、紆余曲折を経て満更知らない仲でもない間柄になった。


と言ってもエナおばさんにとってバージルはただのケチな貧乏客だったし、バージルにとってはなんでえこんな守銭奴女、ぐらいの認識だったのだが、腐れ縁とでも言うべきか。つかず離れずの距離感で、たまに肌を合わせるぐらいの顔馴染みになったふたりの関係は、バージルが夢も頭髪も全て失った後も、エナおばさんがエナ婆さんになって、引退して小さな店を構えた後も、こうして続いているのだ。


「ほらよ」


「お、サンキュ!」


エナ婆さんが出してくれたのは、碌に具も入っていないような貧乏カレーとぬるい水だ。ルーも市販の安物だし、強いて挙げるならトマトケチャップと期限切れギリギリの牛乳でマイルドに味を調えてあるぐらいだが、バージルにとってはこれがいわばお袋の味にも等しい、人生で一番長い間食べ慣れたカレーなのである。


まだ大いなる夢や希望に燃えていた頃。夢も希望もなくなったけれど、髪の毛だけは辛うじて残っていた頃。髪の毛すらも失い、空っぽの負け組底辺おっさんだった頃。ホークに雇われ、人生が90度直角に上向きになり始めた頃。人生を通じて食べ続けてきた思い出の、今も昔も変わらぬ味。


「うんうん、これこれ。美味えー!」


「ったく、もっといいカレーなんざいい飯屋に行きゃあ幾らでも食えるだろうに、物好きだねえあんたは」


「いいんだよ。いいカレーはいいカレー、好きなカレーは好きなカレー。どっちも味わいてえのさ、俺は」


「贅沢言ってるんじゃないよ全く! あのゴロツキ同然だったあんたがまさか、こんなにも立派に出世するだなんて、世の中何が起きるか分かったもんじゃないねえほんと」


年老いてなおもどこか女の色気を感じさせる顔立ちをブスッとさせながらも、それでもガツガツと行儀悪くカレーを食らうバージルに向ける視線はどこか優しい。


「あんた、それ食べたらさっさと帰んなよ。最近ここいらの治安もますます悪化しちまって、うちにもたまにマフィア崩れのチンピラ共が押しかけてくるようになっちまって物騒だからね」


「ああ、さっき店の前にいた奴らな。そいつらなら『もう二度と来ねえ』よ」


「あんだって?」


「そいつらは、もう二度と来れねえよ。少なくとも俺なら、恥ずかしくて二度とこの辺り一帯に顔出せたもんじゃないね」


腰に提げた、いかにも只者ではなさそうなオーラを放つ神剣の柄を指先でカチンと鳴らし、事も無げに言い放ちながらカレーを口に運ぶバージルに、何かを察したエナ婆さんはそうかい、と感慨深そうに呟く。バージルが『エナジー』を訪れたのは本日二度目だ。一度目は店の前で揉め事になってしまったため、その片を付けてから出直してきたのである。臨時ボーナスとはつまり、そういうことだった。


「あんたもついてない時に来ちまったねえ」


「いんや、ついてたのさ」


わざわざこっちから探して出向く手間が省けた、とおしぼりで口を拭い、ぬるい水を飲み干すバージル。エナ婆さんは空いたコップに、この店で2番目に高い酒を注いでやる。


「ひゃあ珍しい。ドケチのエナ婆さんがとんだ大盤振る舞いじゃねえか」


「今の一言で有料になったよ。カレーの分まで耳揃えてキッチリ払いな」


「ホイホイっと」


バージルは上着のポケットから無造作に取り出した金貨一枚と共に、金色の豚さんステッカーをカウンターに置く。


「釣りはいらねえ。チップだチップ」


「あんたにしちゃあ太っ腹だねえ。それで? なんだいこの趣味の悪いのは」


「幸運と幸福を呼ぶ、ありがたーいお札さ。店のドアにでも貼っときな。悪い虫が近寄ってこなくなるだろうからよ」


「嫌だよこんなみっともない。あたしの店の景観が損なわれちまうじゃないか。もっといいデザインなら考えてやってもいいけどね」


「おいおい、そんな罰当たりなこと言うもんじゃないぜ? 見慣れてみりゃあ、豚だって可愛いもんさ」


静かな店内に、気の置けない穏やかな時間が流れていく。バージルはエナ婆さんに向かっておどけて笑いながら、カレーおかわり、と告げるのだった。

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