第262話 黒豚の逆鱗
「逆鱗、というものを知っているかね」
イーグル・ゴルドは自身よりも30cm近く背の高い、巨漢のサイ獣人の護衛に葉巻の火をつけさせながら、ゆっくりとその碧眼を細めた。
「絶対に触れてはならん部分、という奴だな。月並みだが、わしにとって家族がそれだ」
どの面下げてそれを言うのか、と自嘲するような自虐的な感傷は、とっくに克服した。家族が大事、と今は胸を張って言える。だからこそ、イーグルにとっての家族は既に『弱点』ですらない。『逆鱗』だ。
「君にもあるのではないかね。絶対に他人に触れさせたくない、大事な大事な何かが。ああ、無理に返事をせずともよいぞ。興味がないからな」
物言わぬ、ではまだなく。意図的に、物言えぬ状態で留めさせた商売敵を冷たく見下ろしながら、全く目の笑っていない酷薄な笑みを浮かべ、イーグルは葉巻の灰を、豪奢な執務机に直接落とした。
どうやらデリカ・テッセン社長は煙草も葉巻も嫌いな禁煙派であったらしく、灰皿が用意されていなかったが故の、やむを得ない措置だ。本当はその小奇麗な顔に直接落としてやってもよかったのだが、イーグル・ゴルドは紳士なので、一度や二度では殺し足りない相手であったとしても、その辺りの線引きは弁えている。
「かくいうわしも、若い頃は成り上がるために相当無茶な場数を踏んだものだ。そういう意味では、君のハングリー精神には懐かしい共感すら覚える」
目を残しておいたのは、自分がいかに怒っているのかをその目に焼き付けさせるためだ。
耳を残しておいたのは、自分がいかに愚かなことをしてしまったのかを聞かせるためだ。
猿轡を噛ませたのは自殺防止と、事ここに至って、語り合うつもりなどもうないからだ。
「ああ……敬意を。同じ悪徳商人として、敬意を払おう、君に。若い頃のわしにそっくりな、飢えた獣のような目をした君の、勇敢な生き様に」
イーグルはテッセン社の社長室の戸棚……鍵がかかっていたのでゾウ獣人の護衛に叩き割らせたそこから、200年モノの高級なワインとワイングラスを5つ取り出すと、その栓を無造作に抜き、ソムリエ顔負けの丁寧な仕草で血のように赤いワインを注ぎ始めた。ふたつは護衛のサイ獣人とゾウ獣人に。ひとつは社長室に椅子に座らされている、というよりは置かれていると言った方が正確なテッセン社長の目の前に置き、ひとつはローリエに。
「いえ、わたくしは遠慮させて頂きます」
「そうか。まあ、無理強いはせんよ。ホークちゃんいわく、アルハラはダメ、だそうだからな」
自分の分を注ぐ必要がなくなったので、余った空のグラスを戸が破損した戸棚に戻し、ローリエの分だったグラスを手に、イーグルはその香りを嗅ぎ、色合いを眺め、それから深呼吸をひとつ。
「実に、実に惜しい。君がもう少しだけ浅はかでなかったならば、いずれはゴルド商会の脅威となり得る可能性のあるライバル企業にまで成長したやもしれん。だが、そのような未来が無残にも焼け落ちてしまうとは。実に、実に勿体ないことだとも」
亡き未来に弔いを、と乾杯を告げるイーグルが、ワインを一口含む。まずは味と香りと堪能し、それから残りをじっくりと味わうように飲んだ。いまいち高級ワインの味が分からないゾウの護衛は一息にグラスの中身を飲み干し、ワインには結構うるさい方だという自負のあるサイの護衛は主に倣い200年モノの奥深い味わいに舌鼓を打ちながら、もっと飲みたかったなあ、とまだ中身の残っているボトルの中身を惜しむ。
ローリエはただ、そんな彼らを素面で眺めていた。その片腕にはテッセン社にとって最も重要な機密書類の束が修められたA4サイズの分厚い茶封筒が、大事そうに抱えられている。
「んーっ! んーっ!!」
社長室の椅子に押し込められたテッセン社長はその美貌が台無しになってしまうのもお構いなしに長く美しい髪を振り乱しながら、今にもイーグルを呪い殺せそうな、しかしホークのかけた守護魔法が反応する程ではない程度の怨嗟と憎悪のこもった瞳を血走らせながら、悍ましさすら感じさせる呪詛に満ちた呻き声を上げ、己が牙城の玉座の上で、懸命に身動ぎする。だが、ローリエの仕事はいつだって完璧なのだ。逃れる術も、抗うための手段も、もう残ってはいない。
テーブルの上には空のグラスが3つと、ワインが注がれたままのグラスがひとつ。ゴトリ、と一本で平民の労働者の年収を上回る額の高級ワインのボトルが執務机の上から落下し、ドボドボとその一滴一滴が金貨よりも高価な赤紫の液体をこぼしながら、高価な絨毯の上を転がっていく。
やがて何か……バージルたちには見覚えがあるであろう、爆乳な牛の半獣人の美女の横たわる亡骸にぶつかって止まる。雇い主を見捨ててひとりだけ逃走しようとしたところを、背後から氷の弾丸で撃たれたのだ。心臓を一発で撃ち抜いて即死させてやったのは、同じ裏稼業を生業とする人間同士の慈悲であろうか。
「では、さらばだ」
かくして一発の銃声と共に、飛ぶ鳥を落とす勢いで急成長していたテッセン社は、呆気なく倒産したのであった。
◆◇◆◇◆
テッセン社の本社ビルが火災で全焼したのは、バレンタインを目前に控えた2月の初めのことだった。失火元は給湯室の給湯器型魔道具。深夜まで残業していたデリカ・テッセン社長と秘書のミルキィ、それに警備員含む数名が犠牲となったそうだ。
ブランストン王国消防団が消防馬車で駆けつけた頃にはもう既に、完全なる手遅れになっていた程火の回りが早く、周辺の建物にも延焼していたため消火活動は夜通し翌朝まで続き、真夜中にも関わらず野次馬が大勢押しかける大変な大騒ぎであったという。
そして消火活動が終わり、警察が捜査に入ろうとしたところで騎士団から待ったがかかった。なんでも匿名の密告者による内部告発により、テッセン社がデリゲード王国と内通していた事実があきらかになったのである。
ただでさえ事件性の高い不自然すぎる火災事故に加え、正月にあったばかりの秘密研究所の爆破事件。国際問題の火種となり得ることを懸念した当局は警察・騎士団合同の捜査本部を設置し、慎重に捜査を進めていくことになったのだとか。
◆◇◆◇◆
「デリゲード王国と繋がっていたのがあのテッセン社とはね」
「内通者がいるであろうことは確信しておりましたが、まさかこのような形で判明するとは思いませんでしたわ」
「怪我の功名、棚からボタ餅って奴ですか」
「では、あなたは福の神かしら?」
「今回ばかりは本当にただの偶然ですよ。福々しい見た目をしているとはヴァスコーダガマ王国ではよく言われますがね」
冬休みもとっくに終わり、正月ボケも治りつつある3学期。情報提供の後処理も兼ねて久しぶりに王立学院に顔を出したホークは、放課後子豚部の部室でピクルス、ローザ、卒業を間近に控えたゴリウスと放課後アフタヌーンティータイムに興じていた。
ヴァンとリンドウは今日はデートだからと不参加。メルティとメアリはなんか真面目な話が始まりそうだったので、と一足先に帰ってしまい、たまに顔を出すマーリン学院長も、国王陛下に対デリゲード王国絡みのアドバイザーとして呼び出されているため不在である。顧問のミント先生は普通に職員室で仕事中だ。
「いつもすまないね、ホークくん。君の『拾い物』には本当に助けられるよ、ありがとう」
「いえ。お国のことは皆さんにお任せするのが一番ですから」
情報は宝だが、持ち腐れてしまっては意味がない。ホークとしてもイーグルとしても、国家間の面倒な問題に首を突っ込むなど冗談ではないと、一連の超重要極秘情報に関しては新鮮なうちにさっさと国に高値で売り付けてしまおうという方針で見解が一致したのである。
「きな臭いのは勘弁ですからね。平和が一番ですよ」
「全くだ。どうして人は争わずにはいられないのだろうね?」
「ええ、本当に、本当にそう思いますわ」
疲れた年寄りみたいな雰囲気でため息をつくピチピチヤングな16歳の高1トリオに、クロテッドクリームをたっぷり塗ったスコーンを齧るゴリウス先輩がお気の毒に、みたいな視線を向けてくる。
アイラブピース、ウィーラブピース。こんなことならランプの魔人に世界平和、山もオチも谷も波もない平穏無事で穏やかなスローライフ生活でもお願いしときゃよかったかな? なんてホークが思った次の瞬間、ピローンと女神スマホが鳴る。神様連中御用達のメッセージアプリ、SHINEの新着通知音だ。送信元は言わずもがな、ランプの魔人。
『打ち切り不可避』
『ですよネー』
ホーク自身、年末に女神からもらったお年玉を読んで知ったことだが、チャンネル登録者数やいいね評価数やその他諸々の数値で算出されるVIEW数がそのまま自分への信仰や評価に繋がる以上、VIEW数欲しさにホークをこの世界に転生させた女神は安寧に満ちた世界平和など歓迎しないだろうし、そもそもが生きているのが人間である以上、そんなものは未来永劫実現不可能だろう。手と手を取り合えるのが人ならば、取り合えたはずの手で争い続けるのもまた人なのである。
自分たちにできるのはそんななくならない争いや諍いの火の粉から、守りたい人を守るために戦うことだと、子豚部の子供たちはみんなよーく知っているのだ。





