第204話 天に星、地に花、人にギャップ
意外なことに、と言ってはなんだが、オリーヴはピアノが弾けるらしい。なんでも昔彼がまだ軍にいた頃、上官に人数不足が深刻だった軍の音楽隊に無理矢理加入させられ、そこでピアノやトランペットの演奏を覚えたのだとか。なんでもソツなくこなす凄腕の軍人は、銃火器だけでなく楽器の取り扱いもプロフェッショナルだったわけだ。
「その気になれば片手でピアノを弾きながら片手でトランペットを吹くこともできるぞ」
「何それちょっと見てみたい」
ゴルド邸にトランペットはないが、パーティルームにグランドピアノはあるので、せっかくだからちょっと弾いてもらうことにした。曲はもちろん、文化祭で歌う奴だ。オリーヴのピアノは『全く心のこもっていない、機械的に鍵盤を叩くだけの蓄音機めいた演奏』と当人は謙遜していたが、俺に音楽の良し悪しなどまるで判らないので、音程とリズムさえ合っていればそれでよい。
「むしろ寸分の狂いもなく完璧に楽譜を再現できるとか、それはそれで素晴らしい才能なのでは??」
「買いかぶりすぎだ。譜面の通りに鍵盤を叩くだけなら訓練さえすれば誰でもできる」
「できないんだよなー……」
少なくとも俺には無理だ。サーフィンの時もそうだったのだが、この体、致命的にありとあらゆる才能がなさすぎる。みんなと一緒に早朝の稽古に励んでいるのに、未だに筋力強化の魔法がなければダンベルひとつ持ち上げられないし、結構頻繁に海に行ってやっていたのにサーフィンもちっとも上達しないし、オリーヴの隣でピアノを弾こうとすれば、短くて太い指が攣りかける。
まるで『ホーク・ゴルドはなんの才能も取り柄もない、冴えない小太りのチビでなければならない』みたいな強固な神の呪いでもかかっているのかってぐらい、才能が枯渇しすぎていて逆に凄い。ほら、悪役令嬢ものなんかでたまにあるじゃん? どんなに髪型を変えようとしても櫛やハサミがぶっ壊れるレベルで強固に金髪縦ロール以外の髪型にはできないみたいなアレ。
唯一人並みに扱えるのが魔法で本当によかった。才能のなさやどうしようもない不器用さを補整できるからね。これで魔法が使えなかったら、俺のセカンドライフは早々に詰んでいたことだろう。何かひとつでも俺にはこれがある! と堂々と胸を張れるものがあるのとないのとでは大違いだなとしみじみ実感する。ただでさえ卑屈でネガティブなダメ豚の俺の後ろ向きレベルが更に上がるとか、考えたくもないぞ。
「努力は必要だが、無理は禁物だ。何、楽器を弾けないからといってどうということはない。弾ける奴を連れてくればそれで済む」
「あたたた! それはまあ、その通りなんだけどさ」
致命的にぶきっちょすぎてあわや攣りかけた指をオリーヴに伸ばしたりさすったりしてもらいながら、しょんもりと項垂れる俺を微笑ましいものでも見守るような目でオリーヴが見下ろしている。相変わらず表情の変化は乏しいが、纏う雰囲気の柔らかさでそれが判る程度には彼とも長い付き合いだ。そんな風に過ごしていると、不意にパーティルームの扉を誰かが控えめにノックした。
「坊ちゃま、ただいま戻りました」
「ああ、お帰りローリエ。王城の方はどうだった?」
「現在は混乱も収まり、落ち着きを取り戻しつつあります。これもイグニス陛下のお陰かと。坊ちゃまが懸念していたような、王妃の言動が怪しくなるようなことは、わたくしの調べた範囲ではございませんでしたが」
「そっか、ありがとう。君の調査を掻い潜れるとも思えないが、引き続き最低限の警戒だけは怠らないようにしよう」
いつものように足音もなく入室してきたローリエから、調査報告書を受け取り目を通し始める。
そう、なんとなんと、昏睡状態だった王妃が実に六年ぶり? ぐらいに目を覚ましたのだ。
目覚めさせた要因は色々あるが、一番大きかったのは最早王妃など敵ではないぐらいにこちらの戦力が過剰強化されたことだろう。一国の王妃を相手取るには力不足であったあの頃に比べ、遥かに強くなった今なら戦うにせよ逃げるにせよ、勝ち筋は如何様にも組み立てられる。
王妃の厄介な二大後ろ盾であった女神教と、彼女の出身国であるマーマイト帝国にはどちらもそれなりのコネがあり、ご立派なイケメーンに成長なさったピクルス第三王子やルタバガ第二王子も、既にただ黙っていびられているだけの可哀想な妾の子ではなくなった。第三王子派と第二王子派は友好関係にあり、共に第一王子を支持する構えを表明しながらも、水面下では着々と力を付けていっている。
かつては第一王子派の独壇場であった王宮の勢力図も着実に塗り替わり、今更王妃がどれだけ騒ぎ立てようとも、六年間も政治の場から遠ざかっていた彼女の出る幕はもうないわけだ。
◆◇◆◇◆
『久しいな、我が妹よ』
『イグニス!? 不浄の子であるお前が何故ここに!?』
『ほう? 数十年ぶりに会う兄に向かって言うではないか。結構結構! いや何、大したことではないのだがな。実は俺も少しばかり我慢の限界だったもので、お前が惰眠を貪っている間にちょっとした革命を起こしたのだよ。父母にも祖父母にもきょうだいらにも『快く隠遁』してもらい、今ではこの俺がマーマイト帝国の正統なる皇帝というわけだ』
『な、な、な!? なんてことを!? この、人殺し!!』
『うむ、安心するがよい。誰の首までをも奪ってはおらぬ。まあ、潔く死んだ方がマシだと当初のうちは思うであろう口に出すのも憚られるような目に遭わせたりもしたが、それも時間の問題であったことは既に証明された! 今では彼奴らも『それなりに幸せ』な隠居暮らしをしておることは、この俺が保証しよう』
『おお……!! 女神よ……!!』
◆◇◆◇◆
おおよそ六年程度の長い眠りから覚め、まだ衰弱している本調子ではない王妃の心に、イグニス陛下という劇物の投下……もとい、久しぶりに会うお兄様のお見舞いは、さぞ響いたことだろう。忌み子呼ばわりして忌み嫌い、過去に惨い仕打ちを加えた要らない子のはずの兄が皇帝の座に就いたことで帝国という大きな後ろ盾を失い、女神教の総本山からも女尊男卑思想に骨の髄まで染まりきった過激派が一掃され、現在の女教皇は穏健派な上に王国支部長のガメツ爺さんは公爵家・ゴルド商会との繋がりアリ。
そんな背景はあれどようやく王妃様がお目覚めになられたことで、愛妻家の国王陛下と母親想いの第一王子は万々歳。第二王子であるルタバガ様は裏で『そのまま死んでくれればよかったのに』と大層残念がっているようだが、『死なれたら死なれたで面倒なことになるからしょうがないか』とピクルス様に愚痴をこぼしたりもしたそうだ。
ピクルス様とローザ様はどうなのかって? もちろん、事前に話は通しておいたに決まっているじゃないか。既に十六歳にしてゼロ公爵の公務を一部肩代わりしているローザ様も、今更弱体化した王妃と第一王子派を怖れたりはしない。
万が一にも目覚めた王妃が前世の記憶を取り戻したり、未来からの逆行者になっていたらどうしようって心配も、イグニス陛下に全力で喧嘩売ってる時点で十中八九大丈夫だろうと杞憂に終わった。かくして奇跡的な復活を遂げた王妃様の快復を祝うために、お城では連日パーティ三昧が続いているそうだ。これにて一件落着、めでたしめでたしってわけだね。
「そういえば、ローリエは楽器の演奏とかってできるの?」
「楽器でございますか? ピアノとヴァイオリンであれば以前潜入捜査をした折に習得しておりますが」
「そうなのか。オリーヴといいローリエといい、やっぱプロフェッショナルは一味違うね」
「恐れ入ります。とはいえ、わたくしの演奏などただ譜面を再現するだけのつまらないもの。心からの情熱をその指に乗せたプロの演奏家に比べれば、その足元にも及びませんかと」
「ふたりとも、おんなじこと言ってる」
思わず吹き出してしまった俺に、オリーヴとローリエが困ったように顔を見合わせる。試しに弾いてみろと言われそうな空気を察したのか、ローリエは早々に退散してしまい、俺は再びオリーヴにピアノを弾いてもらいながらの文化祭で歌う歌の練習だ。
驚くなかれ、なんとオリーヴはピアノだけでなく、歌も上手かった。それも、結構な美声だった。不慣れな低音パートに俺が四苦八苦している間にあっさり高音パートを歌えるようになってしまったオリーヴに弾き語りをしてもらいながら、ふたりで合唱の練習を続ける。
「おーうお前ら! 暇なら麻雀でもしようぜェ! って、何やってんだ?」
「見れば判るだろう。坊ちゃんが文化祭で歌う歌の練習だ」
「あら、懐かしいわねこの曲」
「母さん?」
クレソンと一緒にやってきたのはなんと母だった。まさかのこの面子で麻雀やるつもりだったのか。というか母さんも意外と乗り気なんだな。意外……でもないか。元酒場の看板娘、後に海辺のカフェレストランの女性オーナーとかやってただけあって結構強かな上に護身術の心得も実はあるらしいから、麻雀ぐらい打ててもなんら不思議ではないのかもしれない。
「私は貧乏だったしお店の手伝いがあるから学院には通えなかったけれど、お店に来る若い学生さんたちが楽しそうに口ずさんでいるのをたまに耳にしたものよ」
「そうなんだ。……一緒に歌う?」
「あら、いいの? フフ、それじゃあ母さんも、ホークちゃんと一緒に歌っちゃおうかな!」
十六歳にもなって、中身はもうすぐ三十間近にもなって、母親と一緒に歌を歌うというのは少なからず気恥ずかしかったけれども、だからといってここで母さんを追っ払うのはもっと恥ずべきことのように思えたので、俺は照れ臭いのを承知で提案する。とても嬉しそうな母の笑顔に、俺は何年経とうとも忘れることのない、前世の両親のことを少しだけ思い出してしまった。
「いッ!? テメエ!!」
「逃がすと思うか?」
そそくさと逃げようとするクレソンの尻尾を鷲掴みにするオリーヴ、有能。
「オメエなァ、俺に仲よしこよしでガキの歌歌えってのか?」
「別にいいじゃん。お風呂じゃいっつも気持ちよさそうに歌ってるでしょ?」
「それとこれとは話が別だろうがよ!」
「あら、いいじゃない。高音ふたり、低音ひとりじゃバランスが悪いもの。ふたりずつに別れればちょうどいいんじゃないかしら。ね?」
「ここで俺を置き去りにして独りで逃げ出すような、薄情者の臆病者にはなりたくなかろう?」
「厄介事から逃げるこたァ、恥でもなんでもねェっつーの! クソ! オメエら後で覚えてろよ!!」
渋々といった様子で、不貞腐れたように観念するクレソン。椅子の後ろから譜面を覗き込みながら、とても楽しそうにしている母。流暢な演奏を再開するオリーヴ。俺は母とクレソンに歌詞の書かれた紙を見せながら、演奏に合わせて歌い始める。このちょっとぎこちなくも始まったおかしな合唱は、夕飯ができたとカガチヒコ先生が俺たちを呼びに来るまで続いたのだった。





