第10話 性根の腐った女好きの金髪子豚
「坊ちゃま、朝でございます」
「……まだ眠い」
「朝食にはパン屋から取り寄せたばかりの焼きたてのクロワッサンと、料理長自慢の大量のスクランブルエッグ、それからこんがり焼き上げられたソーセージとスライスハム、それに新鮮なサラダとミルクをご用意させて頂きましたが」
「……起きる。そんなご馳走を冷ましてしまうだなんて、デブに対する冒涜だ」
「ではお召し替えを」
「着替えるから出てってくれ。オリーヴ、着替えを取ってもらえる?」
「了解した」
「承知致しました。それでは、食堂でお待ちしております」
「ああ、すぐ行く」
ゴルド家のメイド長・ローリエにとって、ホーク・ゴルドという少年は生ける汚物であった。ただひたすらに甘やかすばかりで、叱るということを一切しない愚かな父親に溺愛されて育ったせいで、性根の腐ったどうしようもないクソガキに育ってしまった彼は容姿も人間性も醜く、屋敷のメイド達に酷いセクハラを働いては、彼女達が嫌がったり困ったりしている姿をニタニタ不気味に笑いながら楽しむという、悍ましい子供と化してしまった彼に、自身が胸や尻を揉まれた回数も枚挙に暇がない。
まともなメイド達はこの愚かな親子に愛想を尽かして逃げ出してしまい、屋敷に残っていたのはゴルド家の当主であるイーグル・ゴルドの実質的な愛人ばかりという酷い体たらくであり、まともに働くメイドの方が少ないという有様であった。彼女が年若くしてメイド長にまでなったのも、他に誰もやれる人間がいなかったから、仕方なく彼女が押し付けられた結果だったのである。
だが、プロフェッショナルであるローリエは、そんなゴミクズ親子にも忠実に仕えた。何故ならば彼女の正体は、王家直属の秘密諜報部隊、『アンダー3(スリー)』の秘密諜報員だからだ。昨今増長著しいゴルド商会の内情を探る密偵として王家より派遣され、もしそれが将来的にこの国に害をもたらすものであったならば、親子共々事故に見せかけて暗殺する。それが、潜入工作員として、ゴルド家にメイドとして潜入したローリエに与えられた任務である。
だからあの日、新入りのメイドにセクハラを働いたホークが事故とはいえ階段から突き落とされた時は、思わず彼女に心の中で親指を立ててしまったほどだ。彼女が手を下すまでもなく死んでくれたならば、わざわざ暗殺する手間が省ける。ついでに溺愛する息子を亡くした傷心の父親の方も、自殺に見せかけて殺してしまえば話は早い。だが、幸か不幸かホークは生きていた。
そしてその日を境に、ホーク・ゴルドという子供は、まるで別人のように豹変したのである。よくもまあここまで歪んだものだと呆れ返ってしまうほどに歪みきった人格は劇的に改善され、あれだけ女好きであったにも関わらず、事故のあった日から一切女に近寄らなくなり、屋敷の中に男がいるのは見苦しくて気に食わない!と執事や下男連中を追い出してしまうぐらい嫌っていた男ばかりを周囲に置き出した時は、真剣に偽者を疑ってしまった。
だが、階段から落ちて気絶してから意識を取り戻し別人のように変わってしまうまでに、ホークから目を逸らさずずっと傍に付き添っていたのは他ならぬローリエ自身だ。世の中には二重人格者なる者がごく稀に現れるそうだが、ひょっとして彼もその手の二重人格に目覚めたのではないかと疑ってしまうぐらい、完全なる別人としか思えない劇的な豹変を遂げてしまったことを、心底不思議に思う。
だがしかし、なんらかの奇跡が起こった結果、彼がまともになったのならば、それは歓迎すべきことだ。殺処分せずに済むのなら、それに越したことはない。殺しは、あまり好きな仕事ではないから。
「ホークちゅわあああん!おっはよおおおう!今日も世界一可愛いでちゅねえええ!」
「おはよう父さん。今日も朝から元気だね」
「ホークちゃんの可愛いお顔を見れば、パパはいつだって元気一杯さ!」
マリー・ゴルドにとって、物心ついた時から、父と兄は怖ろしい存在であった。自分が父の実子ではないことは、幼い頃からまるで身心に呪詛を刻み付けられるかのように言い含められて育ったため、何故父に溺愛される兄に比べ、自分は虐待とも呼べる程の酷い仕打ちを受けているのか、その理由は理解している。母の裏切りの象徴。ただ生きているだけで、父を苦しめる呪われた子。
だがそれでも悲しいものは悲しいし、辛いものは辛いし、痛いのも、苦しいのも、嫌だ。まるで自分へのあて付けのように、病的なまでに兄ばかりを一方的に溺愛し続ける父と、自分が父親に溺愛されているのをいいことに、妹である自分に陰湿なイジメを繰り返してくる性格の悪い兄。
だが、それでもいつかきっと、いつかきっと自分も家族の一員になれるのではないか、と。そんな風に期待しては裏切られ、その都度手酷く傷付けられ、思い上がるなと暴力を振るわれ、不義の子と罵られ。いつしかマリーは、父にも兄にも、何かを期待することを諦めてしまった。
期待しなければ、裏切られずに済む。最初から駄目だろうと高を括っていれば、その通りになっても、ああやっぱり、で諦めがつく。だが、彼女が諦めきってしまって、ぼんやりと人形のように空虚に虚空を見つめ続けるだけの生活に馴染んでしまった頃、奇跡は起きた。
「お、おはようございます、お兄様、お……お父、様」
「ああ、おはようマリー」
「ふん!朝っぱらからお前の顔など見たくもないわ!飯が不味くなる!大体、どの面下げてワシを父と呼ぶのか!全く信じられん図々しさだ!」
「いけませんよ父さん。家族を大事にしない男はパブリックイメージを損ねます。ゴルド商会の社長は器の大きな男であることをアピールするためにも、せめて鼻を鳴らすか舌打ちをする程度にとどめておくのがよろしいでしょう」
「でもホークちゃん!こいつはワシの子じゃあないんだよ!?家族なんかじゃないわい!」
「だからこそですよ。もしどうしてもダメだと仰られるのであれば、こう考えられてはいかがですか?あいつのためにわざわざ割いてやる父さんの貴重なお時間を、一秒でも削減するのだ、と。具体的にはあいつを罵っている暇があるのなら、その分一秒でも長く俺を愛して欲しいブヒー!!」
「おお!そうかそうか!言われてみればその通りであったな!やはりホークちゃんはワシに似て賢い子だ!よーしよしホークちゃん!君はパパの宝物でちゅよおおお!」
朝っぱらから顔に脂を浮かべてテッカテカの笑みを浮かべる父に頬ずりされながら、どこか乾いた笑いを浮かべる兄は、言葉こそ悪いものの、あれでも父の不満の矛先を自分へと向けさせることで、マリーを庇っているのだ。
以前の兄からは、考えられないような変化だった。そもそもが、以前は薄暗くカビ臭い自室に閉じ込められ、食事という名の残飯を一日一回だけ与えられていた頃に比べれば、こうして食堂に来ることを許され、彼らと同じ食事を与えられるようになっただけでも、劇的な変化である。
生まれてくるべきではなかった子供。生きているだけで迷惑な子供。そんな風に父や兄に罵倒されることも、時に暴力を振るわれることもなくなり、食事もまともなものを与えられ、洋服も以前のようなボロではなく、きちんとしたものを着せてもらえるようになった。意地悪なメイド達は兄によって屋敷から追い出され、ハイビスカスという友達も与えてもらった。
だからマリーは、ずっと兄に今のままでいてほしいと願う。また何かの拍子に頭を強く打つなどして、以前の横暴で横柄で意地悪なお兄様に戻ってしまいませんようにと。時折、悪夢を見る。朝起きたら兄が以前の兄に戻ってしまっていて、自分は再び全てを取り上げられ、手酷く折檻される、そんな悪夢が、どうか現実になりませんように、と。
「ねえ見てハイビスカス!お兄様がわたくしにご本をくださったのよ!これでわたくしも文字の読み書きを学ぶことが出来るわ!」
「そうか、よかったなお嬢。それじゃあ、アタイと一緒に勉強すっか」
「ええ、ええ!よろしくお願い致しますわ、ハイビスカス先生!フフフ!」
B級冒険者、ハイビスカスにとって、ゴルド邸での仕事は想像していたよりも遥かにマシなものであった。成金野郎のバカ息子の護衛なんぞ、普段の彼女であれば誰がやるか!と頼まれても御免な部類の嫌な仕事であったが、大勢の冒険者達が同じように拒否したホーク・ゴルドの護衛の依頼を受けたのは、偏に高額な給金のためだ。
ハイビスカスには難病に冒された幼い妹のローズヒップと、そんな妹の薬代を稼ぐために体を壊すまで働いてしまったせいで、寝たきりになってしまっている病気の母がいる。父は娘の治療費を稼ぐのだと、無理な依頼を冒険者ギルドに勤務する知人に頼んで無理矢理受けた結果、魔物に殺されてしまい、それ以来まだ十代前半だった彼女は冒険者となって、母と妹を支えるために、命懸けの冒険者稼業をしながら金を稼ぐようになったのだ。
だから、ハイビスカスは金持ちが大嫌いだった。自分達がこんなにも貧困に苦労しているというのに、ただ金持ちの家に生まれたからというそれだけの理由で甘やかされ、ワガママ三昧やりたい放題、好き勝手に生きているバカな連中を見ると、殺してやりたいと思うぐらいには金持ちが大嫌いだ。貴族のバカ息子共、金持ちのドラ息子共。妹のローズヒップはまだ幼いながらも難病に冒され苦しんでいるというのに、そんな妹とは比べものにならない程幸福に満たされた子供達を、彼女は狂おしい程に憎悪していた。
それ故、最初はただ利用してやるつもりだったのだ。下町にまでその悪評が届いてくるような、女好きの豚野郎など、ちょっと色仕掛けで誘惑してやれば、すぐに騙してやれるだろうと。ハイビスカスは自分の容姿が優れていることを自覚していた。自惚れではなく、冒険者稼業をする中で、男に言い寄られたり、襲われかけたりした苦い経験は、星の数程もある。だから世間知らずのクソガキ一匹ぐらい、どうとでも手の平で転がしてやれるだろう、と勘違いしていたのだ。
『君のような、『いかにも私は金持ちが嫌いです』といった表情を隠せもしない護衛を連れていくことは出来ない。君が金持ちを嫌おうと自由だが、金持ちに雇われるのだからそれを隠す努力ぐらいはすべきだったな』
尤も、そんな目論見はあっさり瓦解してしまったのだが。世間では愚か極まりない俗物ともっぱらの噂であったホークはしかし、想像していたよりも遥かに知恵が回る子供だった。金持ち嫌いを見抜かれ、不採用を突きつけられた。咄嗟に恥も外聞もなく妹の件を持ち出して縋ってしまったのは、とにもかくにも給金が破格であったがゆえだ。B級冒険者が半年かけて稼ぐような金を、一か月で手に入れられるこの仕事を逃すわけにはいかない、と。
全ては愛する妹のために。そのためならば、靴底だって舐めてやろうとした。結果として実際に舐めさせられることはなかったが、それでもハイビスカスのプライドはボロボロだった。だが、プライドよりも金が優先だ。妹の治療費と薬代は高額で、それを支払うために無理をしたせいでハイビスカスの父は死んだ。母も働きすぎで体を壊し、まだ幼かったハイビスカスが母と妹の生活を背負わなければならなくなってしまったあの時から、なんとしてでもアタイがふたりを守る!と誓ったのだから。
結果としてハイビスカスはホークではなく、彼の妹のマリーの護衛として屋敷に滞在することを許可された。勿論、報酬は当初の額面通りだ。今は実家に送金しながら、幼いマリーの護衛を務めている。護衛というよりは遊び相手や話し相手といった感じだが、下心丸出しの男達に囲まれ凶暴な魔物達と命懸けの戦いをするよりも、遥かに平和で平穏で、満たされた生活であることは疑いようもない。
食事だって、護衛に無料で与えるものとは思えないような豪勢な食事が三食出てくる。最初のうちこそどんな金持ちの高慢娘なのやらと危惧していたマリーも、あのハイビスカスから見れば愚鈍で醜悪としか言いようのない父親の血を引いていないとのことで、だからかとても素直で可愛らしく、聡明であり、何より庇護欲をそそる健気な子供であった。虐待されて育った幼女、という存在は、病床に臥せてばかりいる病弱な妹の弱々しい姿を彷彿とさせ、ついつい姉のように過保護に接してしまう自分がいた。
『護衛といっても、屋敷からほとんど出されることのない娘だ。君には彼女への一般常識や文字の読み書きを教える仕事、女性同士ならではの情操教育といったものを任せたい。ただし、余計なことを吹き込むなよ。そうなったら君を解雇しなければいけなくなるからな』
「ねえハイビスカス先生!わたくし、まずは自分の名前をどうやって書くのかを知りたいわ!それからお兄様のお名前と、あなたのお名前もよ!」
「任せな。それじゃあ、まずはマリーって文字を覚えるところからだな」
そんな姉心を見越して妹の護衛にあてがったのだとしたら、なかなか抜け目のないことだ。だが都合よく利用されていると解っていても、ハイビスカスにとって今の生活は、さほど悪くないどころか、かなり居心地のよいものであると感じられた。