第二章:終わりと始まり
眠るつもりで目を瞑っていたヒノトだったが、眠りは訪れなかった。
ヒノトはベッドから起き上がり、部屋の外へと出た。
立って歩くのは久しぶりのことなので、眩暈がする。廊下の壁に手をつけて、身体を支えなければならなかった。
廊下から外へとでると、夜空には満月があった。
月を見上げていたヒノトだったが、月の側にあった王宮の屋根に人影があるのに気付いた。
遠くて顔は見えるはずもなかったが、ヒノトには直感的にそれがユノアだと分かった。
ヒノトの足は、自然と動いていた。
ユノアは王宮の中でも一番高い塔の屋根の上にいた。
ここに来たのは、今夜一人になりたかったからだ。
ユノアがぼんやりと、月の光に照らされておぼろげに浮かび上がるマティピの街を見ていると、後ろで物音がした。
驚いて振り返ったユノアは、心臓がしばらくの間止まってしまうほどに驚いた。
「ヒノト様…」
絶対にここにいる筈のない筈の人だった。そして今、ユノアの頭の中を占領している人でもあった。
斜めになっている屋根の上でバランスを崩したヒノトを見て、ユノアは慌てて立ち上がった。
駆け寄り、ヒノトの身体を支える。顔を上げたヒノトと目が合った。
だが、目が合った瞬間に、ユノアは強い違和感を感じた。今まで、ヒノトの側であれ程感じていた安らぎを、今は感じることはできなかった。
すぐに目を逸らしたユノアを、ヒノトはじっと見つめた。
「…こんな所で何をしてるんだ、ユノア」
「わ、私は…。一人になりたくて…。ヒノト様こそ、こんなとこに来ちゃ駄目です!ベッドで安静にしてなくちゃ」
ヒノトは笑った。
「もう大丈夫だ。身体を動かして、はやく政務に戻らなければならないな」
ヒノトは屋根に腰掛けて、ユノアを呼んだ。
「ユノア。ここに座りなさい」
ユノアは素直にヒノトの隣に腰を下ろしたが、その表情は強張ったままだ。
風も吹かない静かな夜だった。
「ユノアがずっと俺の看病をしていてくれたのだと、ティサから聞いた。ありがとう。そして、心配をかけてすまなかったな」
ヒノトはふぅっと息をはいた。いつも通りの会話の調子で話せれば、と思っていたが、やはりそうはいかないようだ。覚悟を決め、切り出す。
「…ユノア。お前に、話しておかなければならなかったことがある。マカラのことは、もう知っているな。俺の、婚約者だ。…レダがお前に言ったことを、さっきレダから聞かされた。本当は俺から言わなければならなかったのに…。本当にすまない」
ヒノトの声が、やけにはっきりとユノアの耳に飛び込んでくる。
「ユノア。俺は、マカラと結婚する。子供の頃から、マカラと結婚するという未来は、俺にとって当たり前のものだった。疑問に思ったことなどない。マカラは幼なじみで、誰よりも俺のことをよく知っているし、誰よりも俺を愛してくれている。…もちろん俺も、マカラを愛している」
ヒノトが「マカラを愛している」と言った瞬間、ユノアの心は、大きな剣で突き刺されたように強く痛んだ。ユノアは思わず胸に手を当てていた。
「グアヌイ国との戦いがあって、国民は不安を感じているだろう。今、俺とマカラが結婚すれば、国民に明るい話題を与えることが出来る。俺も、マカラと結婚するのは今だというレダの意見には賛成なんだ。だが…」
ヒノトの表情が曇る。
「俺は、何も考えていなかった。もっとよく考えるべきだったのに、何故そうしなかったのだろう。…ユノア、お前と、ずっとこのままの関係を続けていけると、疑問にさえ思っていなかったんだ。お前は本当の妹のように可愛くて、家族の安らぎを俺にくれた。お前のするいろいろなことに驚かされた。お前を、ずっと側で見ていたかった」
ヒノトはふぅっと息を吐いた。
「身分の違いがあるから、お前を遠ざけようとしているわけじゃない。そんなこと、俺は気にしない。結婚するならば、マカラ一人に愛情を注ぐべきだと思うからだ。それに…。お前はもう、俺の保護がなくても大丈夫だ。友達もいる。舞という素晴らしい特技もある。俺が側にいなくても、立派に暮らしていける。…俺の側から離れて、思うままに生きるんだ」
ヒノトは言葉を止め、ユノアの様子を窺った。ユノアは何も反応を見せず、じっと固まったままだ。
ヒノトは立ち上がった。
「ユノア。お前と過ごした日々を、俺は一生忘れない。とても楽しい日々だった。…ありがとう」
ヒノトが去っていく。ユノアは唇を噛み締めた。目から涙がこぼれ落ちる。
ヒノトと二人きりで過ごせるのは、今が最後になるだろう。このままでいいのか?何も伝えなくていいのか?
ユノアは立ち上がり、ヒノトの背中に向かって叫んだ。
「ヒノト様!」
ヒノトが振り返った。ユノアは泣きながら叫んだ。
「私は、またヒノト様のお側に行きます!今度は、誰にも文句なんて言わせない方法で。自分の力で!あなたの側で生きる権利を、必ず勝ち取ってみせますから!」
ユノアの言葉に、ヒノトは驚きの表情を見せた。その表情が、だんだんと緩んでいく。そして、嬉しそうな笑顔になった。
「ああ、待ってる。お前がこれからどう生きていくのか、しっかり見せてもらうぞ」
もうヒノトは振り返らなかった。遂にヒノトが視界から消えてしまっても、ユノアはヒノトがいた場所をじっと見つめていた。
涙が止まらなかった。そして、自分の発言に驚いてもいた。
だが、その発言は確かに、ユノアの目標となっていた。