第二章:ヒノトの見る夢
十六歳のヒノトは、王宮前の広間に立っていた。そこには、王宮中の人々が集まっていた。人々の視線の先には、旅立ちの準備を整えたハルゼ王がいた。
ハルゼ王に付き従う供の数はわずかに二十名。グアヌイ国の民に親近感を持ってもらうためには、供の数はこれだけで良いと、王自身が決めたことだった。
馬に跨る王の側に、宰相のレダが歩み寄る。
「ハルゼ王。何度も申し上げましたので、もう聞き飽きたと言われるかもしれませんが、くれぐれも用心してください。新しいグアヌイ王であるリュガ王に関して我々は、充分な情報を得ることが出来ておりません。皇太子だったリュガ王の兄が突然死んだのも、リュガ王が王位に就くために、抹殺したとも言われております」
この世で最も信頼する家臣であるレダの言葉だが、ハルゼ王は笑い飛ばした。
「はっはっは。心配性だな、レダは。リュガ王がどんな王かは、私が教えてやろう。…相手に信頼されるためには、まずこちらが相手を信頼せねばな。だから私は行くのだ」
ハルゼ王の澄んだ目が、レダを見つめている。レダはもう黙るしかなかった。ハルゼ王のこんな広い心に敬服して、レダは宰相の座に着いたのだから。
ハルゼ王は、一人息子であるヒノトの姿を探した。
何千という人々の中に、埋もれるようにして立っている我が子をようやく探し当てると、ハルゼ王は手を挙げて見せた。
ちょっとそこまで馬で遠乗りしてくるぞ、とでもいうような、簡単な別れの挨拶だった。
だがヒノトは、不安でたまらなかった。行かないで欲しいと、何度も繰り返し心の中で訴えた。
だが、その思いは遂に口から出ることはなかった。偉大な父は、息子の言葉などで信念を曲げることは絶対にしないだろうから。
だが、ハルゼ王の姿が視界から消えたとき、ヒノトは我慢できず、その後を追って走り始めた。
馬に乗った父王の姿が、遠くに小さく見える。ヒノトは全速力で追い続けた。ハルゼ王の後姿は、それ以上遠ざかることも、近付くこともなく、ヒノトの前に小さく在り続けている。
ようやくヒノトが父王に追いついたとき、ハルゼ王は馬から降り、一人の男と対峙していた。
お供の兵達はどこに行ったのだろう?ハルゼ王はその男と二人きりだ。
その男は、ハルゼ王に劣らぬ上等な衣服を身にまとっている。
ヒノトは即座に閃いた。この男こそ、リュガ王だ!
リュガ王の顔を見るなり、ヒノトの背筋に寒気が走った。愛想のいい笑顔をハルゼ王に向けてはいるが、その顔が明らかな作り物だと分かったからだ。とても人間のものとは思えぬ程、その笑顔は薄気味が悪く、恐ろしかった。
だが、前に立つハルゼ王は、リュガ王の笑顔に何の疑問も持っていないようだ。新しい隣国の王と友好関係を築こうと、積極的に話しかけている。
リュガ王の氷のように冷たい心が、今にもハルゼ王に襲い掛かろうとしている。自国の王になるという野望を叶えた、野心多き王が次に狙うのは、自国よりも遥かに富んでいる、隣国を我が物とすることだったのだ。
ヒノトは走り出した。
「父上ぇぇ!」
リュガ王がハルゼ王を殺そうとしていることは、もはや明白だった。ヒノトは何とか父を助けようと、必死にハルゼ王に向かって手を伸ばした。
その手が、ハルゼ王まであと数十センチというところまで近付いたときだった。
突如リュガ王が殺気を顕にし、鬼のような形相で歯を剥き出して、ハルゼ王に向かって剣を振りかざしたのだ。
ハルゼ王は、まだ笑顔のままだ。ヒノトの大好きな笑顔が、リュガ王の剣によって真っ二つに切り裂かれる。
「うわぁぁぁー!」
慟哭するヒノトを、リュガ王が振り返った。その顔には笑顔があった。今度は作り物ではない、本心からの笑顔だ。
あまりのおぞましさに、ヒノトの心は歪んだ。恐ろしかった。だが、リュガ王が憎くてたまらない!
殺してやる。
ヒノトも剣を手に持つと、リュガ王に向かって振り下ろした。
だが、目の前にいた筈のリュガ王は突然消えてしまった。
慌ててリュガ王の姿を探すヒノトの周りに、いつの間にか霧が立ちこめている。ヒノトはほとんど見えない視界に目を凝らした。
キリリっと弓を引く音がした。
ヒノトが身構えようとするよりも早く、霧の中から矢が飛び出してきた。矢はヒノトの左肩に命中した。
左肩を抑えてうずくまるヒノトの前に、二本の足が立ちはだかった。
ヒノトは、苦痛に顔を歪めながら、上を見上げた。
そこには、笑顔でヒノトを見下ろすリュガ王がいた。
リュガ王は声を上げて笑い始めた。腹を抱えて笑うリュガ王は、上機嫌なのだと分かる。
リュガ王はヒノトを見下していた。馬鹿にしきっていた。
だが、それが分かっているのに、ヒノトは何も出来なかった。肩の痛みに耐え、リュガ王の足元にうずくまったまま動けない。
笑い続けるリュガ王の後ろに、無残な姿となったハルゼ王の遺体が見えている。
「ち、父上…」
そう呟いたヒノトの右手が、前へと差し出される。
ヒノトの側につきっきりで看病していたユノアは、すぐにその手を握った。高熱の続くヒノトの手は、燃えるように熱い。
悪い夢でも見ているのだろうか。ヒノトはずっとうなされている。
おでこに何度冷たいタオルを置いても、すぐにヒノトの熱で温まってしまう。タオルを変える役目の侍女は、椅子に座ったまま眠ってしまった。ユノアは一人起きていて、ヒノトのおでこに冷たいタオルを置き続けているのだ。
「父上…」
またヒノトが呟いた。閉じられたままの目から流れた涙が、頬を伝う。
ユノアは強くヒノトの手を握った。
つないだ手から、この気持ちが伝わればいい。早く目を覚まして。もう、苦しむあなたを見たくはない。目を開けて、また私を見て。あなたの笑顔を見せて。
ユノアの想いが届いたのか、ヒノトの苦悶の表情が和らいだ。
ユノアはその後も決して眠ることなく、ヒノトの看病を続けた。