第一章:遥かなる高地で
いつも寝坊介のユノアが、今日は早起きだった。まだ空が白み始めたばかりだというのに、もう着替えも終え、カヤがお弁当を作っている側をウロウロしている。
今日、みんなで出掛けようとダカンに言われたのは、昨晩のことだった。これまで、家から百m以上遠くに行ったことがなかったユノアは、楽しみで、夜も眠れぬ程だった。
カヤがお弁当に詰めている料理も、いつもなら滅多に食べれない豪華なものばかりだ。肉料理、卵料理、砂糖菓子まである。
今日は、ユノアの髪の毛を黒には染めなかった。他人に見られる心配がないからだ。銀色の髪が、ユノアが動くたびさらさらと揺れた。
ユノアのあまりに嬉しそうな様子を見て、ダカンは思わず苦笑した。やはりユノアには今まで、窮屈な思いをさせていたのだと反省した。
人目につかぬうちに、三人は家を出た。ユノアはしっかりと砂糖菓子の袋を抱えて満足げだ。楽しそうに一人で前へと駆けて行くので、ダカンはその度に呼び戻すのが一苦労だ。
ダカンはミモリに教えられた通りの場所に向かった。そこは、普段、山菜や木の実を取りに、よく行く森の前だった。
カヤは首を傾げた。
「こんな道が、ここにあったかしら?」
見慣れたはずの森の入り口に、見たことのない木のトンネルが出来ていた。木々は枝を巧みに絡ませて、見事なトンネルを作って三人を導いている。
「ミモリ仙人が言っていたのは、ここで間違いないだろう。行ってみよう」
トンネルは未知の世界へ続いているようで、楽しそうだったユノアの表情も陰る。ユノアはカヤの手を取ると、ぎゅっと身を寄せてきた。ダカンが先頭を行き、三人は恐る恐る進み始めた。
三人の姿がトンネルの奥へと消えると、トンネルの入り口はなくなり、何事もなかったかのような普段の森の姿になった。
暗闇に近かったトンネルの先に、光が見えてきた。随分と長い距離を歩いてきた気がする。ダカンはほっとして、光へと歩調を速めた。
光の中へと足を踏み入れると、あまりの眩しさに、目が見えなくなった。目を細めて、光に目が慣れるのを待つ。
三人が見たのは、一面に広がる草原だった。そこには、色とりどりの花が咲き乱れている。そして、綿菓子のような雲が、三人のすぐ頭上や真横を通り過ぎていくのだ。よほどこの場所が、高い場所にあるということだろうか。
もしかしたら、自分達は死んでしまって、天国へ来たのかと思った程だった。
ユノアも初めは驚いていたが、すぐに満面の笑みになって、草原の中へと走り出した。
「うわーい!すごい!」
はしゃぎ過ぎて足がもつれても、厚い草の絨毯が受け止めてくれる。草の青臭い匂いと、花の甘い匂いを、ユノアは思い切り吸い込んだ。
ふと、目の前を蝶がはためいて通り過ぎた。青い色をした、大きな蝶だ。ユノアの目がまた輝く。のんびりと飛ぶ蝶をじっと観察していたユノアの前を、茶毛の兎が駆け抜けた。
するとあっという間に兎に心を奪われて、兎を追いかけて走り回っている。
今度は、触れる位置にある雲に目を奪われた。それが雲だとは信じられない様子だ。つんつんと突付いてみたり、突然抱きついたりしている。だが当然雲に抱きつける筈もなく、雲をすり抜けて落ちてしまった。
それでもユノアは痛がるどころか、腹を抱えて笑っている。
そんなユノアを見ながら、ダカンとカヤは顔を見合わせて笑った。こんなに生き生きとしているユノアを見るのは初めてだ。銀色の髪の毛が、まるで風のように草原を駆け抜けていく。
きまぐれな風が、ようやくダカン達を思いだして、帰ってきた。
飛び上がって抱きついてきたユノアを受け止めきれずに、ダカンは背中から倒れこんでしまった。それがまた楽しくて仕方なかったらしく、ダカンの身体の上でユノアは大笑いしている。
「ユノア、楽しいのか?」
ダカンが尋ねると、ユノアは大きく頷いた。
「うん!お父さん。連れてきてくれてありがとう!」
「そうか、良かったな」
微笑んだダカンの目に入ってきたのは、青空だった。濃い青色の美しさに見惚れて、ダカンは寝転んだまま動けなくなってしまった。
ユノアも真似をして、仰向けになった。カヤもそれに倣う。
いつも見上げる空は、時には容赦ない暑さをもたらし、時には冷たい雪を降らせた。空に向かって、ダカンはいつも呪いの言葉を吐いていた。だが、今は素直に好ましく思える。
この草原は不思議な場所だ。普段、自分達の思い通りにならない自然をつい恨みがちだが、ここでは自然と身体が溶け合うような、不思議な感覚になる。
あまりの心地よさに、このまま眠りそうになることに気付いたカヤが、起き上がってユノアを誘った。
ユノアと一緒にカヤが始めたのは、花で冠を作る遊びだった。カヤの指は器用に動いて、花の茎を編みこみ、あっという間に冠が出来上がった。
それをユノアの頭に被せてやると、ユノアは大喜びだ。
「私も作りたい!教えて、お母さん」
「いいわよ。ユノア、ここを、こうしてね…」
初めてで上手く出来ないユノアだったが、カヤはせかすことなく、何度も繰り返し教えてやった。
カヤとユノアの共同作業で、冠の次は指輪、髪飾りと、カヤは次々にユノアを飾り立てていく。花のアクセサリーに飾られたユノアは、どんな国の姫君よりも可愛らしい。
思い切り遊んでお腹の空いたユノアにねだられ、お弁当を開くと、その大半はあっという間にユノアのお腹の中に納められてしまった。
ユノアは満足げににこにこ笑いながら、砂糖菓子の包みをしっかり抱えて、一つずつ、じっくりと味わいながら口に運んでいる。
「ユノア、お父さんにもくれよ」
ダカンがユノアの前に顔を突き出すと、ユノアはぷいとそっぽを向いてしまった。ダカンが悲しそうな顔をして見せると、首を傾げて考え込んでいたが、一番小さな菓子を選んで差し出した。ダカンが口を開けると、その中に放り込んだ。
「うん!これは美味いな。ありがとう、ユノア」
ダカンに頭を撫でられて、ユノアははにかんだ笑顔を浮かべた。それは、普通の四歳児が見せるのと同じ、子供らしい笑顔だった。