第二章:名医の出陣
ユノアは、死んでいなかった。
バルコニーから飛び降りた後、三十メートルも下の岩の上に軽々と着地した。そこから更に、高さ五十メートルの岩肌を走って降り始めた。岩はほぼ垂直に切り立っているのだから、ほとんど落ちているようなものだ。それでも、足を岩肌に押し付けてブレーキをかけ、何とかスピードを殺している。
岩から地面に着地したときは、さすがにユノアも安堵の溜息をつかずにはいられなかった。
だが、立ち止まっている時間はなかった。ユノアはすぐに走り始めた。ぐんぐんとスピードが上がっていく。その軽やかさは、まさに風のようだ。
ユノアの側にぴたりと張り付くチュチが、必死に翼を動かさなければついていけないほどの早さだった。
ユノアの目前に、マティピの街があっという間に近付いてくる。
建物の壁がすぐ前に近づくと、ユノアはスピードを緩めることなく、膝に力を入れて、宙へと飛び上がった。ユノアの身体は見事に高く飛び上がり、建物の屋根へと降り立った。
そのまま屋根を伝って、ユノアは走っていく。
その下からは、夜でも活気が衰えないマティピの街の賑やかな声が聞こえてくる。
だが、上機嫌で騒いでいる酔っ払いも、外食を終えて楽しそうに家地に着く家族連れも、誰一人として、まさか自分達の頭上、屋根の上を移動していく少女がいることなど気付かない。
ユノアは目的の場所に向かって、ひたすら急いでいた。前は下の道を通って行った場所だが、屋根の上からでも迷うことはなかった。
恐らくここでいいだろうと思う建物で、ようやくユノアは足を止めた。屋根の上から、道に人がいないことを確かめる。中心部からは離れたこの場所は、中心部での賑わいが嘘のように静まり返っている。
ユノアは音もなく地上へと降り立った。そして、目的の家のドアの前に立つと、ドアをノックした。
「はい」
聞こえてきた声が間違えでないことに、ユノアは安堵した。
「キサクさん。私です。ユノアです」
キサクが近付いてくる足音がする。ドアが開いて、キサクの丸眼鏡が現れた。
「ユノアさん…。こんな夜更けに、どうしたんですか?とにかく、家の中へお入りなさい」
家の奥へと入ろうとするキサクを呼び止めて、ユノアは玄関に立ったまま本題に入った。一刻の猶予もないと感じていたからだ。
「ヒノト様が、怪我をして戦から帰ってきたことを、知っていますか?その容態が、良くないんです。アオイダチという毒が塗ってあった矢を射られたそうです。傷口の出血が止まらないのに、お医者さんは、何も打つ手がないと言っていました」
アオイダチ。その名を聞いて、キサクも表情を険しくした。
「キサクさんはどう思いますか?やっぱりお医者さんが言うように、何も打つ手はないんですか?」
ユノアの問いかけに、キサクは歯切れの悪い答えを返してきた。
「ユノアさん。私は、王宮の医師ではないんですよ。私には、ヒノト様を治療する権限はないんです」
「そんなこと、聞いてません!ヒノト様を助ける方法は、他にないのかと、聞いているんです!」
「…アオイダチの毒を受けた患者を、治療したことはあります。ですが、あくまで我流の方法で、世間に認められた方法ではありません。そんな方法で、この国の王を治療することなど、許されないのですよ」
弱気なキサクの答えに、ユノアの感情が爆発した。
側にあった壁に拳を叩きつけ、ユノアはキサクを睨み付けた。その目の力の強さに、ユノアよりも何倍もの人生を生きてきた筈のキサクもたじろいだ。
「…私には、分かるんです。ヒノト様の生命力は、もうほんの少ししか残っていない。このまま放っておいたら、間違いなく死んでしまいます!…キサクさんは何を怖がっているんですか?自分の身の保身を考えているんですか?私が一番怖いのは、ヒノト様が死んでしまうことです。じゃあ、今ヒノト様を助けることができるのは誰かって考えたとき、私は、キサクさんしか思いつきませんでした!」
キサクは黙って考えこんでいた。
やがて、キサクは口を開いた。
「ようやく…、目が覚めた思いです。私は一体何を迷っていたのか。すぐに、ヒノト様の元へ行かなければ!」
ユノアの顔が、喜びに輝いた。
いつもの木箱を持ったキサクと共に家を出たユノアは、しっかりとキサクの手を握った。
「急ぎますから。絶対に、私の手を離さないでくださいね」
ユノアの言葉の意味が分からずに、キサクが聞き返そうとするよりも前に、ユノアはキサクの手を握ったまま、屋根に向かって飛び上がった。
キサクの身体も、ユノアと一緒に飛び上がる。キサクは、身体が異様に軽くなったのを感じた。
ユノアとキサクは、マティピの街の屋根の上を、王宮に向かって真っ直ぐに進んでいった。マティピの街並が、次々と後ろに流れていく。
キサクはただただ驚くばかりだった。キサクの手を引くユノアは、まっすぐに前を見つめている。その銀色の髪が、闇の中の僅かな光を集めてきらきらと輝いている。
妖精?…いや、神?そんな、非抽象的な存在を、キサクは急に意識し始めた。
(一体、何者なんだ?)
疑問がキサクの心に溢れてくる。
だが、暗闇の中、松明の灯りで明々と浮かび上がる王宮が、キサクの前にあっという間に近付いてきた。
今は、ユノアが何者かなど、気にしている場合ではなかった。ヒノトを救えるえるのか。いや、救わなくてはならない。
ミスの許されない戦いに向けて、キサクは気持ちを引き締め直していた。