第二章:怪我をした王
ヒノトが帰還するという知らせがマティピ王宮に届いたのは、ヒノトが出軍してから三週間がたった日のことだった。
王宮は喜びに沸き立ち、ヒノトと兵士達を迎えるための祝宴の用意をするため、人々は嬉しい悲鳴をあげて飛び回っていた。
だが次の日の昼、王宮の広間に駆け込んできた早馬がもたらした情報は、王宮の留守を守っていたキベイや大臣達を凍りつかせた。
「ヒノト王様が、後もう二時間程で帰還されます。ヒノト様は怪我をしておられますので、どうか医師を待機させておかれますよう…」
ヒノトが怪我をしている。その報告に、王宮内は騒然となった。それまでの祝賀ムードは一変し、人々の顔は、笑顔から不安な表情へと変わった。
ヒノトの怪我の状態がどれ程のものなのかは分からないが、今王宮内で対応できる最高の医療を施せるように準備が進められた。
集められた医師五名、侍女はティサを始めとして、医療の心得のある二十名。清潔な衣類、薬草、医療用具…。考えられる全ての体勢が整えられた。
ヒノトを連れた本隊が帰還した。
出迎えのために、広間には何百もの人間が集まっていた。その先頭に立つキベイの顔は険しい。
ヒノトは粗末な荷車に乗せられていた。一国も早く王宮に帰ることを優先させたので、きちんとした馬車を手配する時間がなかったのだ。
ヒノトの乗せた荷車が止まるや否や、キベイは用意していた担架にヒノトを移した。
付き添ってきたガイリも馬を降りた。だがキベイはガイリには目もくれず、ヒノトを乗せた担架に寄り添って階段を登り始めた。ガイリも黙ってその後を追った。
王宮は、異様な静けさに包まれていた。軍隊が帰還したときは、普通なら音楽隊が用意され、盛大な歓喜の声とともに迎えられるのだが、今日は誰も声さえあげない。
帰還したばかりで疲れきっている兵士達も、息をのんでヒノトを見送っている。
ヒノトを部屋へと運びながら、キベイは素早くヒノトの容態を観察した。
左肩に傷を受けたのだろう。荒っぽく包帯がぐるぐる巻きにしてある。包帯は赤く染まっていた。まだ出血が止まっていないようだった。
「ヒノト様?」
キベイは呼びかけてみた。だが、ヒノトから返事はなかった。顔は白く、唇は青色に近い。
キベイは側にいたガイリに鋭く尋ねた。
「ヒノト様が意識を無くされてから、どれくらい経つんだ」
「…二時間半ほどです」
「出血はずっと止まらないのか」
「…。はい」
「出血が始まってから、水分補給は出来たのか?」
「ほんの数口、水を飲まれただけです」
キベイは唇を噛んだ。予想以上に、ヒノトの容態は悪いのかもしれない。とにかく出血を止めなければならない。
ようやくヒノトの部屋へと辿り着いた。待ち受けていた医師達が、緊張の面持ちで出迎えた。
医師の手によって、ヒノトの左肩にある傷口が念入りに洗われていく。だが洗えば洗うほど、傷口からは新たな血が溢れ出てきた。
早く傷口を圧迫して止血しなければならないが、その前に医師は、傷口の様子を観察した。
「…ささった矢の抜き方が良かったようですな。傷口があまり汚くない。だがその割に、出血が酷すぎます。…もしや、ヒノト様に傷を負わせた矢というのは、毒矢だったのでは?」
皆の視線を浴びたガイリは顔を青くした。
「…すぐに問題の矢を持ってきます」
部屋を飛び出していったガイリは、数分後、一本の矢を持って帰ってきた。
キベイはガイリの手から、矢を奪いとった。矢じりを注意深く観察し、臭いをかいでいる。
「これは…。アオイダチかもしれんな」
キベイの言葉を聞いた医師は、厳しい表情で矢を受け取り、キベイと同じように臭いをかいだ。
「…確かに、私もそのように思います」
アオイダチ。その名を聞いて、その場にいた者は一様に表情を暗くした。毒矢によく使われる毒草の名だ。この毒矢を浴びたものは、傷口からの出血がなかなか止まらず、失血死してしまう確率が高いことで有名だった。
キベイは医師に尋ねた。
「何とか、出血を止める方法はありませんか?」
医師は暗い表情のまま、気弱な声で言った。
「とにかく、傷口を洗って…。アオイダチを充分に洗い流しましょう。そして、強く圧迫して、止血することです。それ以外に、出来ることはありません。残念ながら、アオイダチの解毒草はまだ、見つかっていないのです…」
「それで…。その方法での生存率は、どれくらいあるのです」
「…私の経験からですが。二割もないかと…」
部屋の後ろで、がたんと音がした。医師の言葉を聞いたティサが気を失いかけて、侍女に支えられた音だった。
キベイは必死に食い下がった。
「そんな…!何とかならぬのですか!絶対に、ヒノト様を死なせるわけにはいかないのです!」
「ヒノト様は、まだお若い…。日頃から体力もつけておられました。そのような場合、助かる確率は五割にはなると思います」
「ヒノト様の生存力に、賭けるしかないと…。そういうことですか?」
医師は、声もなく頷いた。キベイは呻き声を上げ、頭を抱えた。
医師達は、ヒノトの傷口をよく洗った後、傷口を清潔な布で押さえ、その上から丁寧に包帯を巻いていった。
それが終わると、後はもう、ヒノトを見守ることしか出来なくなった。
ヒノトの命が危険な状態だというのに、何も手を打てない。そんな状況に耐えれず、キベイは部屋を出て行ってしまった。
部屋を出た後、キベイはガイリから、ヒノトが傷を負った詳しい経緯について、報告を受けていた。
「ゴザの街で、戦闘らしい戦闘は行われなかったのです。グアヌイ軍の援軍よりも、我々の到着が早く、迎え撃つ体勢も整っていたので、敵も面食らったようでした。街の外れで小さな小競り合いが起きましたが、ヒノト様が和解の使者を送ると、すぐに同意してきました。敵方としても、まさかヒノト王ご自身が出向いてくるとは思っていなかったようです。これ以上騒ぎを大きくしたくはなかったのでしょう」
「和解は順調に運んだのに、何故ヒノト様が矢傷を負わねばならなかったのだ!」
キベイが怒りを爆発させた。ガイリは顔を青くして、唇を噛み締めた。
「…我々も、予想外のことでした。グアヌイ軍が引き上げていくのを見届けた後、オタジ将軍と二千の兵を残して、ヒノト様もすぐにマティピへ向けて出発したのです。ゴザの街を出て、三十分ほど経った頃、我々は森へと差し掛かりました。その時、森の中から突然、矢を射られたのです。ヒノト様を隠す暇もありませんでした。十数本の矢が射られて、その内の一本が、ヒノト様に当たってしまったのです」
「馬鹿者が!和解したからと、油断したのか?グアヌイ軍の卑怯な手口は、お前もよく分かっているだろう。和解した相手に対する礼儀など、わきまえる連中か!あいつらは、安心しきっているお前や兵士を見て、絶好の機会だと思った筈だ。ヒノト様を害することが出来れば、和解などすぐに破って、再び攻め寄せてくるつもりだったのだろう」
「ヒノト様も、それを分かっておいでのようでした。ですから、矢に射られた後も、毅然とした態度で馬に跨ったまま、しばらくの間進まれました。だから、軍も乱れずに済んだのです。もしあの時、ヒノト様が怪我を負ったことを敵方に知られていたらと思うと…。身体が震えます」
キベイは顔を歪めた。
「くそっ!私が側に居さえすれば…!」
ガイリはキベイに向かって深々と頭を下げた。
「申し訳、ありません!私が油断したばかりに…!」
その声から、ガイリがどれだけ今回のことを悔しく思っているかが充分に伝わってきた。
まだ歳若いガイリには、失敗の経験も必要だ。だが、いい経験をしたのだから次に生かせ、と言って済まされるような事態ではない。
キベイは、慰めの言葉をガイリには言わなかった。ガイリに背を向けると、廊下を歩き始めた。
ガイリは一人その場に立ち尽くしたまま、うな垂れていた。