第二章:出陣
いつものように、ティサに字を習っていたユノアは、王宮内がざわめく気配を感じて手を止めた。ティサを見ると、ティサも不思議そうな顔をしてユノアを見つめ返してきた。
「何だか、騒がしいわね。どうしたのかしら…」
ティサは立ち上がり、部屋のドアを開けた。
ユノアの手元にいたチュチも、不穏な空気を感じて立ち上がった。
チュチは既に成鳥となり、灰色だった雛毛は生え変わって、真っ白な羽毛に包まれていた。その胸元と頭頂部に、まるでアクセサリーのように黄金色の長い毛が生えている。嘴は目にも鮮やかな赤色だ。
思いがけず美しい鳥となったチュチだったが、その甘えん坊な性格は前と変わらず、ユノアがどこに行くにも一緒だ。
体長三十センチにもなったチュチが羽ばたくと、机の周囲に風が巻き起こる。チュチは軽やかに飛び上がり、ユノアの肩に止まった。
部屋の外では、慌しく大勢の人が走り回っている。その中で一人の侍女をティサは呼び止めた。
「一体、何の騒ぎなの?」
「ああ、ティサ様。…ご存知ないのですか?」
侍女はティサが何も知らないことに衝撃を受けているようだ。
「ヒノト王様の出陣が決まったのです。ゴザの街で、グアヌイ軍と戦うそうですよ」
「な、何ですって?」
本当に何も知らなかったティサは、目を白黒させている。侍女長であるティサに何の連絡もないほど、王宮内は混乱しているのだ。
「そ、それで、ヒノト様は今どちらに?」
「それは私には分かりません…。ですが、第一陣として、オタジ将軍は既にゴザに向けて出発されたそうです。ヒノト様も、もう出発されるのではないでしょうか…」
ティサは慌てて部屋の中へと引き返した。
侍女の話が聞こえてはいたものの、意味がよく分からずぽかんとしているユノアの手を掴み、立ち上がらせた。
「ユノア。ヒノト様の所へ行きましょう!」
ティサに手を引かれて走りながら、ユノアはティサに尋ねた。
「ティ、ティサさん!ヒノト様、どこかに行くの?」
ティサは王宮の様子を観察しながら、人の流れが向かう方向へと足を進めながら答えた。
「ヒノト様は、戦に行かれるのですよ。激励の言葉をおかけしなければ。ユノア。あなたも、ヒノト様に伝えておきたい言葉を考えておきなさい」
ヒノトが戦に行く。ティサの口からはっきりそう聞いても、ユノアは受け入れることができなかった。
ヒノトが危険な場所に行く。そんな現実が、まさかこんな唐突にやってくるとは、夢にも思っていなかったのだ。
王宮前の広場に、既に軍隊は整列していた。その中に、甲冑に身を包んだヒノトの姿を認めて、ティサは一目散に、二百段の階段を駆け下りていった。
ユノアはティサの後を追うことが出来ずに、階段の上から軍隊を眺めた。
八千もの兵士が、甲冑に身を包み、剣を持ち、弓を背に抱えている。それは異様な光景だった。その中にヒノトがいることが、恐ろしくてたまらなかった。
興奮した兵士があげる雄叫びが、王宮を揺るがしている。
ようやくティサは階段を降りきった。切れる息を整えている間もなく、ヒノトの元へと向かう。ヒノトの周りには、黒山の人だかりが出来ていた。ヒノトの支持を仰ぐ大臣、お守りを渡そうとする侍女などだ。
「ヒノト様!ヒノト様!」
ティサは声を張り上げた。ようやくヒノトがティサに気付いた。ヒノトは人込みを掻き分けて、ティサに近付いてきた。
「ティサ。会えて良かった。突然こんなことになってすまない。だが、一刻を争う事態なんだ。ゴザ市民を、グアヌイ軍に殺させるわけにはいかない」
ヒノトはティサの周りを見渡した。
「…ユノアは、どうしている?」
「え?あら?」
てっきりユノアがついてきていると思い込んでいたティサは慌てた。
「ついさっきまで手を引いていたのですが…」
ふとヒノトは上を見た。そして、階段の上で立ち尽くしているユノアを見つけた。ユノアもヒノトの視線に気付いたが、呆然としたまま動けずにいる。
ヒノトは、階段を駆け上がり、ユノアの側に行きたい衝動に駆られた。抱き締めてやりたい。絶対に戻ってくるからと、勇気づけてやりたい。だが、出立の時が迫っていた。兵士達の興奮は極限に達して、ヒノトの号令を今や遅しと待ち受けている。
「ティサ…。ユノアを頼むぞ!」
そう言い残すと、ヒノトはティサに背を向けた。
遠ざかる背中に向かって、ティサは必死に声を張り上げた。
「お任せください、ヒノト様!どうか、どうかご無事で!」
馬に跨ったヒノトは、隣に馬を寄せてきたガイリを見た。ガイリは服を着替え、ぼろぼろの装丁だったさっきまでとは違い、将軍としての風格を漂わせている。
「ガイリ。準備は整ったか」
「はい、ヒノト王。いつでも出立できます」
ヒノトは頷くと、整然と整列している兵士達に向かって叫んだ。
「これより、ゴザの街へと出立する。街に着けば早々に、グアヌイ軍との戦闘が始まることだろう。皆そのつもりで、決して油断するな!そして、勝利をこの手に掴むのだ。グアヌイ軍の蹂躙から、ゴザ市民を守ってくれ!」
ヒノトの言葉に、兵士達が怒号を上げた。びりびりと空気が震える。それはユノアの身体にも伝わってきた。
まずガイリを先頭に、四千の兵が、岩を下りていく細い道へと向かっていく。そして、そのすぐ後を、ヒノトと残り四千の兵が続いた。
ヒノトは見送りに出ていたキベイに向かって頷いた。キベイも、王宮のことは心配ないという強い気持ちを込めて、ヒノトに頷いて見せた。
ヒノトの姿が、大勢の兵士とともに岩の中に飲み込まれていく。ユノアはまばたきもせず、その様子を見つめていた。
そして遂に、全ての兵士の姿が広場から消えた。見送りの人々は、今度は王宮の中へと走りこんでいく。王宮の上の階から、進軍する兵士達を見送ろうというのだ。
だがユノアは、その人達には加わらなかった。ぼんやりと、ヒノトが去っていった道を見たままだ。
その隣に、ティサが立った。
「ユノア」
そっと呼びかける。だが、ユノアからの反応はなかった。ティサはユノアの肩を持った。
「さあ、ユノア。中に入りましょう。お茶でも飲んで、気持ちを落ち着かせなさい」
ティサの為すがままに、ユノアは王宮の中へと入っていく。だがその足取りはおぼつかなく、ティサはしっかりとユノアを支えながら歩かなければならなかった。