第二章:国王への悪口
店の中に客が誰もいないことを確認して、ユノアはドゼの店へと続くドアを開いた。
ドゼが気付いて、こちらを向く。
「おや、キサク。早いお帰りですな。それに…。ユノア様、でしたかな?」
ドゼが親しげな笑みを向けてくれたことが、ユノアは嬉しかった。
キサクの後に続いて、ドゼのいるカウンターに腰掛ける。オタジは離れた席に座った。オタジはそこにいるだけで目立つ体格をしているので、いつものようにキサクやユノアとは全く関係ない振りをするつもりのようだ。
「ユノアさん。スラムに行く前に、ここで一休みしていきましょう。ドゼ、私にはコーヒーを一杯くれるかな。ユノアさんは何がいいですかな?」
「この前はミックスジュースを飲みましたね。同じものにしましょうか?」
ドゼの提案を、ユノアはあっさりと断った。
「私も、コーヒーが飲みたいです!」
キサクとドゼは「えっ」という顔をした。後ろでオタジが噴き出す音もした。
「ユノア様…。コーヒーはユノア様にはまだ、旨みの分からない飲み物だと思いますよ。ジュースにしておいたほうが…」
「いいんです!コーヒーをください」
子供扱いされるのが悔しくて、ユノアも引き下がれなくなってしまった。
コーヒーの沸くいい匂いが漂ってきた。ユノアはその匂いをしっかりと嗅いでみたが、やはりあまりいい匂いだとは思えなかった。
カップに入ったコーヒーが、ユノアの前に置かれた。一緒に、ミルクと砂糖も差し出された。これを入れたほうがいいのかどうか迷ったが、キサクの真似をして、ユノアもブラックのままコーヒーを口に入れた。
入れた途端、吐き出しそうになる衝動をユノアは必死に抑えて、何とか喉を通過させたが、むせてしまった。
ごほごほと咳き込んだ後、ユノアは舌を出して顔をしかめた。
「にっがーい…」
その表情を見て、キサクとドゼは大笑いしている。
「はっはっは。だから言ったじゃあないですか。止めた方がいいですよ、と」
ユノアは「うー…」と唸りながらしょんぼりとしている。
「ユノアさん。これは私がもらいましょう。ドゼ。ジュースを用意してくれますか」
「承知しました」
差し出されたジュースを、ユノアは素直に飲んだ。ふうっと息を吐くと、にっこりと笑ってみせた。
「はあ…。美味しい…」
この笑顔に、キサクもドゼも思わず顔を綻ばせてしまった。
ユノアの行動は、普通の子供がすることと変わりはないと思う。顔立ちは確かに綺麗だが、それをユノア自身特に気にしている様子もない。
ユノアは素直で可愛い普通の女の子だ。この可愛らしさに、ヒノトも癒されているのだろう。ドゼはそんなことを考えていた。
ジュースを飲み終えたユノアの興味は、店の壁にかかっている絵に向けられた。この前来たときとは、絵が変わっていることに気付いたからだ。
今ドゼが店に飾っているのは、マティピの街でも若手の芸術家達の作品だ。色鮮やかな筆使いの絵を、ユノアもすっかり気にいったらしい。同じくお気に入りの画家がいるドゼと話が合い、二人の会話は盛り上がっている。
キサクはにこにこしながら、それに耳を傾けている。
店の入り口のドアが開いた。入ってきたのは、三人の男達だった。赤や緑といった鮮やかな色の服を着て、装飾品をじゃらじゃらと身にまとった派手な男達だ。
三人は威張った態度で椅子に腰を掛けると、ドゼに向かって声を張り上げた。
「おい、店主!酒はあるか」
「お酒ですか…。昼間は、お出ししていませんが…」
ドゼがそう言うと、男の一人がテーブルを強く叩いた。
「何ぃ?俺達は客だぞ!酒があるなら、さっさと持ってこい!」
騒ぎを起こすのも厭わないといった様子の男達に、ドゼはこれ以上逆らうのを止めた。ユノアが怯えた表情をしているのを見たからだった。
男達と対決をして、この店に二度と来させないようにすることも出来るが、ユノアの前でそんな乱暴なことはするつもりはなかった。
大人しく酒を差出したドゼに、男達は見下した視線を送った。
「さっさと出せばいいんだよ、馬鹿やろう」
大声で笑う男達にさっさと背を向けて、ドゼはカウンターに戻ってきた。
ユノア達は息を潜め、男達が早く出ていくのを願った。
そんな雰囲気には全く気付かない様子で、男達は早いペースで酒を飲み、大声で話し始めた。
「全く、とんでもない屑だぜ。ヒノト王って奴はよ」
思いがけなく出てきたヒノトの名に、ユノアは過敏に反応した。
思わず振り向きそうになったユノアの体を、キサクが抑える。キサクは黙って首を振った。ユノアは身体を小さくして黙り込んだ。
そんなユノアの耳に、遠慮のない男達の声が飛び込んでくる。
「グアヌイ王国の商人との取引で、こちらは足元を見られてばかりだ。それもこれも、ヒノト王とリュガ王の力関係の差だよ。王に意気地がないからと言って、グアヌイ王国の奴らは俺達まで軽く見てやがる」
どうやら男達は、グアヌイ王国との貿易を仕事にしているらしい。
「意気地がないだけならまだしも、あいつは俺達の仕事を締め付けてやがる。売る物を制限し、税金をふっかけてくる。父親にそっくりだよ。貧乏人ばかりに人気のあった、ハルゼ王にな」
「父親と同じように、さっさとリュガ王に殺されちまえっていうんだよ。リュガ王に支配された方が、この国も豊かになるぜ」
下品な声をあげて笑う男達に、ユノアの身体は怒りで震えていた。自分達の王に向かって。あまりに酷い言い様だ。
キサクの制止を振り切って、ユノアが立ち上がろうとしたときだった。背後から、どすんという激しい音がした。
ユノアだけでなく、男達も一斉にそちらに目を向けた。
音を立てたのは、オタジだった。オタジはテーブルの上に足を振り下ろしたらしい。テーブルにヒビが入っているのを見て、さすがに男達のうるさい口も閉じられた。
それでもまだ気勢を張って、男の一人がオタジに食ってかかった。
「な、何だよ、てめぇ。俺達に文句でもあるってのか?」
オタジはゆっくりと顔をあげ、男達を睨み付けた。オタジの凄まじい殺気が男達に襲い掛かる。男達は今、戦場で剣を持ったオタジ将軍と向かい合う敵兵と同じ気分を味わっていた。
がたがたと震える男達は、しばらくの間そこから動くことすら出来なかった。だが、オタジがようやく視線を逸らすと、悲鳴をあげながら店の外へ飛び出していってしまった。
店内は静まり返っていた。ユノアはそっとオタジを窺った。オタジはむすっとした表情で、じっと一点を見つめている。
第一声を放ったのは、ドゼだった。
「くっそー。あいつら、食い逃げしやがった。まあ、いいか。店で一番安いドブ酒だったからな」
それを聞いたキサクが笑い出した。ユノアもつられて笑った。だが笑っても、心は晴れなかった。
元気のないユノアに、ドゼがこんな言葉をかけた。
「ユノア様…。さっきのようなヒノト様への非難の言葉を、ヒノト様自身、ここで耳にされているのですよ」
その言葉に、ユノアは驚いた。
「ヒノト様も?…ヒノト様、落ち込んでなかった?」
ドゼは寂しそうな笑みを浮かべた。
「もちろん、落ち込んでいましたよ。あれ程、全ての国民が幸せになる政治をしたいと望まれていますから。ですがヒノト様は、マティピの街へ来て、民の声に耳を向けることを止めようとはなさいません。…そういうお方です」
ドゼの言葉は、ユノアの心に深く刻み込まれた。