第二章:王の憂鬱
すっかり寝支度を整えて、ユノアはヒノトが部屋へ戻ってくるのを待っていた。
火鉢の側においた鳥篭の中では、雛がぐっすりと眠っている。藁の中から頭だけ出している様子が可愛らしい。ユノアはいつまでも飽きずに雛を見守っていた。
餌を食べてから、雛は驚異的に回復した。夕方には元気な鳴き声を出して、ユノアに餌をねだってきた。
死んでしまわなくて本当に良かった。心からそう思いながら、ユノアは幸せな気分に浸っていた。
ドアが開く音がした。ヒノトが戻ってきたのだ。ユノアが見つめていると、ヒノトは微笑みながら近付いてきた。
「ユノア。雛はどうなった」
「元気になったよ!見て。今はぐっすり眠ってるの」
ヒノトは篭の中を覗き込んだ。
「…本当だ。よく眠っている。よく頑張ったな、ユノア。今日中に餌を食べさせられなければ、死んでしまっただろう」
ユノアは自慢げだ。
「あのね、ミヨが餌の食べさせ方を教えてくれたの」
「ミヨ?」
「ミヨは侍女なの。私より一つ上の十一歳なんだって」
ヒノトの頭の中に、最年少の侍女の顔が浮かんだ。
「ああ、あの子か…」
「ミヨは他にもいろいろ教えてくれたの。餌の中に、貝殻をすり潰していれたほうがいいって。そしたら、骨がしっかりするんだって。それと、青菜もいれたほうがいいって。明日ティサにお願いしてみようと思うの」
「ふーん。貝殻を入れるのか。面白いな」
感心しながら、ヒノトはベッドに寝転がった。ユノアはヒノトの隣に座ると、小首を傾げてお願いしてきた。
「ねえ、ヒノト様。またあのスラムに行く?雛を連れていって、みんなに見せてあげたいの。みんな、すごく心配してたから、雛を見たら喜ぶと思うの」
「そうだな…」
ヒノトはそう言ったきり、目を閉じてしまった。
ユノアはそっとヒノトの顔を覗きこんだ。
「……。ヒノト様?寝ちゃったの?」
目を閉じたまま、ヒノトが口を開いた。
「俺はな、ユノア…。またあそこに行くのが怖いんだよ…」
ユノアはきょとんとしている。
「怖いって、どうして?」
ヒノトは笑った。自分で自分を笑ったような、乾いた笑みだった。
「変だろう?自分の国の中なのにな…。俺は、俺が治めるこの国で貧しい暮らしをしている人々を目の当たりにするのがこんなに辛いとは思っていなかった。全てを受け止めて、次の政治につなげていけると思っていた。父上…。ハルゼ王が、そうしていたように。…俺はいくじなしだ。自分にとって都合のいいことだけ見ていたいと思うなんて」
ユノアはうーんと唸っている。
「でも…。ヒノト様は怪我の人をたくさん手当てしてあげて、みんなにすごく感謝されてたじゃない」
「そんなこと、国王じゃなくても出来るさ…。国王として俺は、あの人達に何をしたらいい?あの貧しい生活から抜け出させてやる方法が分からないまま、また会いにいくなんて、出来ない…」
今度はユノアも黙り込んでしまった。何か言わないととユノアが必死に考えている雰囲気が伝わってきて、ヒノトは苦笑した。まだ幼いユノアに、こんな愚痴を言ってしまう自分が情けなかった。
しばらく沈黙が流れた後、ユノアが口を開いた。
「私の住んでいたファド村もね、貧しかったの…。朝、太陽が昇ったらすぐに畑に出て、日が暮れるまで働いて。それでも、家族三人が食べていくだけで精一杯だった。お父さんもお母さんも、ぼろぼろになった服を何度も縫い直して着ていたの」
ユノアがファド村の話をするのは珍しいことだった。ヒノトは瞑っていた目を開けた。
「お腹がいっぱいにならなくて辛いときもあったけど、でもね、私は、毎日が楽しかったの。だってお父さんとお母さんがいたんだもの。貧しいことなんて気にならなかった。…スラムの人達も、そうなんじゃないかな。子供達はみんな、元気で明るかったよ」
「…確かにそうかもしれない。でも絶対に、あのままじゃいけないんだよ。満足に医療も受けれない。食事も満腹になるほどは食べれないんだろう。俺は嫌なんだ!みんなに綺麗な服を着て欲しい。美味いものを、腹いっぱいに食べて欲しい。ジュセノス王国に住む民みんなに、一人も外れることなく、そうあって欲しいんだ。それが俺のするべき政治だと思っていた。…だけどやっぱり、そんなことは不可能なんだな。富んでいる者がいれば、貧しい者は必ずいる。マティピのスラムだけじゃない。ユノアのいたファド村も、他のたくさんの村も、貧しさに悲鳴を上げてる」
ヒノトの声を聞きながら、ユノアは、ダカンのことを思い出していた。ユノアを渡せと迫ってきたゾラ達村人に、ダカンが言った言葉だ。
「皆の不満は、本当は別にあるんだろう?一向に楽にならない毎日の暮らし。それがこれから先ずっと続くんだろうという、希望のない未来。その一方で、金を湯水のように使うハドクのような人間もいる。皆が本当に憎むべきなのは、不公平な世の中だ。それがどうにもならないから、別のはけ口が欲しいんだろう。自分よりも不幸な存在を作りたいんだろう?それを幼いユノアに向けるのは卑怯だよ」
もしヒノトが夢見る国が実現していたなら、ファド村の人達はユノアを受け入れてくれたのだろうか。ダカンもカヤも死なずに、ユノアも人を殺さずに済んだのだろうか。
ユノアは首を振った。終わったことをあれこれ妄想しても、無駄なことだ。ダカンとカヤはもういない。ユノアが殺したたくさんの人達も、決して生き返らない。
ダカンはそういえばこんなことも言っていたと、ユノアは思い出していた。
「お父さんが言ってたよ。新しい王様は、ハドクのような悪いことをしている役人をきちんと取り締まってくれる人なのかなって。…ヒノト様は、きちんとハドクを罰してくれたじゃない。ヒノト様は、お父さんの願いを叶えて、ハドクに苦しめられていたたくさんの人達を助けてくれた」
ユノアの言葉が、ヒノトの心に沁み込んでいく。つい大きなことを為そうと焦ってしまうが、大切なのは小さなことの積み重ねだ。王として正しい行動を積み重ねていれば、それはきっと民の幸福となる。
ヒノトはユノアを抱き寄せた。大切なことを教えてくれたユノアに、心の中で「ありがとう」と呟く。そして、ユノアの耳元で囁いた。
「またいつか行こうな、ユノア。あのスラムへ」
ユノアはヒノトを見上げると、満面の笑みを浮かべて頷いた。