第二章:マティピの街並
ようやくヒノトが立ち上がった。
「ではドゼ。行ってくる」
「はい、どうかお気をつけて…。今日は街に人が多いようですから」
「分かった。ありがとう」
ヒノトはユノアの手を引いて店の外へと出た。入り口の扉を開けると、賑やかな街の声が店の中へとなだれ込んでくる。
「ユノア。絶対に手を離すなよ。はぐれてしまったら、小さなお前を見つけてやれる自信がない」
「はい」
ユノアは不安もあったが、それよりもわくわくした気持ちでいっぱいだった。
「ねえ、ヒノト様。キベイさんとオタジさんは、どうして出てこないの?」
「キベイ達には、俺達と距離をとって行動するように言ってあるからな。そのうち出てくるだろう。キベイ達のことを心配することはない。俺達を見失うなんてことはしないから」
それでもドゼの店を見ているユノアを促して、ヒノトは歩き始めた。
ユノアは、マティピの街の賑やかさに目を見張った。初めてディティの街に行ったときも驚いたが、人の多さが桁違いだ。人とぶつからなければ歩けない状況に、ユノアは必死にヒノトの手を握り締めた。
建物は大きく、ディティの街ではお目にかかれなかった、見事な彫刻が施されている。だが、今のユノアに、見事な建物を見物する余裕などなかった。
ヒノトは、歩きながら街の隅々に目を配っていた。以前街に来たときと比べて、店の数はどうか、出歩く人の数はどうか、そして、人々の表情はどうか。
人々の表情が明るければ、ヒノトの王としての資質が優れている証だ。それは何よりも、ヒノトの元気の源になる。
通りを歩いている人々は、楽しげに会話を交わし、声を上げて笑っているが、建物の影に隠れるようにしている人達をヒノトは見逃さなかった。恐らく、マティピの街でも貧困層に当たる人達なのだろう。その人達の表情は暗い。生きることへの希望がなく、笑うことを忘れてしまった顔だ。
街へ来るたび、そんな人達がいなくなっていればいいと思うが、それは虚しい願いだった。全ての人が幸福になれるわけではない。それは分かっているが、ヒノトはやはり願ってしまうのだ。この願いこそが、ヒノトを苦しめていた。
己の能力の限界を感じ、暗い思想に落ち込んでいたヒノトは、手を引かれて立ち止まった。ふと見ると、ユノアが立ち止まって、じっと何かを見つめている。
ヒノトは、いつの間にかマティピの中心に位置する大広場に来ていたことに気付いた。王宮から真っ直ぐに伸びている大通りの真ん中に位置しており、広場から遥か彼方に白く輝く王宮を望める。
ユノアが見つめているのは、広場の真ん中にある噴水だった。涼しげに水を噴き出しているその中央に、一体の像が立っている。それは、女性の像だった。
この像が、いつ、誰の手によって作られたのかは謎のままだ。だが、彫刻の多いマティピの街でも、この像は昔から最も人々に愛されてきた。この世で最も美しい容姿と、慈愛に満ちた表情で人々を見下ろしている。
この像を見て、理想の恋人と見る者もいる。逞しく生きる女性の象徴と見る者もいる。だが、ユノアの目には、我が子を見守る母親のように見えた。ユノアの脳裏に、カヤが鮮やかに蘇った。
いつまでも像を見つめているユノアに、ヒノトも付き添って、二人は長い間その場所に立っていた。
広場に突如として、賑やかな音楽が流れ始めた。驚いて二人が見つめた先に、バイオリンやフルート、タンバリンなどの楽器を手に持った一団があった。
旅の芸人の一団なのだろう。音楽に合わせて、一団の中の踊り子が踊り始めた。ひらひらした服を軽やかにひらめかせながら、リズムに合わせて舞いを披露している。
一団の周りに、自然と人垣が出来た。人々は手拍子を送りながら、一団の演技を見守っている。
一曲が終わり、広場は大きな拍手に包まれた。次の曲が始まると、踊り子達は今度は見ていた客の間に飛び込んで、客達を巻き込んで一緒に踊り始めた。上手く踊れる筈もないが、皆楽しそうに身体を動かし始めた。
踊りの輪はあっという間に、ヒノト達も巻き込んでしまった。ヒノトも、ユノアも、別々の踊り子に手を取られて、二人は離れ離れになってしまった。
ユノアの周りにいる人々は、皆笑って、楽しげに踊りを踊っている。ユノアに対しても、親しげな笑顔を向けてくれた。
だがユノアは楽しむどころではなかった。はぐれてしまったヒノトを捜し求めて、人々を掻き分けて歩き回った。
ようやく踊りが終わり、大きな拍手とともに人々の動きが止まった。広場に集まっていた人々が散らばっていく。その中にようやくヒノトの姿を見つけて、ユノアは走り出した。
勢いよく胸の中に飛び込んできたユノアを、ヒノトは抱きかかえた。
「ユノア、面白かったなぁ。ちゃんと踊れたか?」
のん気にそんなことを言うヒノトだったが、ユノアはぎゅっとヒノトの首にしがみついて離れない。
「ユノア、どうした?」
さすがに心配そうな声で、ヒノトが尋ねた。
「俺とはぐれたと思ったのか?大丈夫だよ。お前の姿は、ずっと見えてたんだから」
ユノアの身体の振るえに気付いて、ヒノトはそれ以上何も言わなかった。ユノアを抱いたまま、ユノアが落ち着くのを待った。