第二章:マティピの街へ行こう
部屋の中で、ユノアはティサに字を習っていた。ティサが見本に書いてくれた書体を見ながら、何度も繰り返し書いて練習している。
黙々と字を書くユノアの横で、ティサは静かにユノアを見守っている。
「随分上達したわね、ユノア。私と一緒のとき以外にも、練習してるの?」
「ヒノト様が帰ってくるのを待っている間、暇だから…。大抵練習してます」
「そう。これだけ書けるようになれば、もう十分よ。どこで字を書いても恥をかかないでしょう。」
ティサに褒められて、ユノアは嬉しそうに笑った。
最近のユノアは、ヒノトだけでなく、こうしてティサにも笑顔を見せるようになった。周囲に気を許せるほどに心にゆとりが出来たのは、やはりヒノトの影響なのだと思う。
大したものだと、ティサは感心するばかりだ。
ヒノトがユノアを家族として暮らし始めたときは、さすがに止めさせねばとも思ったが、こうして笑うユノアを見ていると、ヒノトの決断は間違ってはいなかったのだと思う。ここまでしなければ、ユノアの心を開かせることは出来なかっただろう。ユノアは殺された両親の代わりに、ヒノトという絶対的に信頼できる安らぎの場所を得たのだ。
自分がここまで出来ただろうかと、ティサは思う。銀色の髪の毛を持つ、異形の子。あまりに人間離れした美しさのせいで、近付き過ぎるのはためらってしまう。それに、百人以上もの人を殺したという話まで聞いてしまったのだ。家族になるという選択肢を選ぶことは、無邪気な笑顔を見せるユノアを見た今でも、やはり出来なかっただろうと思う。
それを選び、実行したヒノトは、素晴らしい勇気と決断力を持っていると、ティサは心から感服していた。
字の練習を続けていたユノア達だったが、二人の穏やかな時間は、突然開けられたドアの音によって打ち破られた。
ユノアとティサが驚いて振り向くと、そこには大股で近付いてくる外出着のヒノトの姿があった。
ヒノトは驚いているユノアを抱き上げると、ユノアが書いていた紙を覗き込んだ。
「これ、ユノアが書いたのか?すごいな。字は書けないと言っていたのに、こんなに上達したのか」
ユノアは嬉しそうにはにかんでいる。
ティサも立ち上がった。
「ヒノト様。出掛けられるのですか?」
「ああ。マティピの街へ行ってこようと思う。ユノアも連れていくから、支度してくれ」
突然の提案に、ティサは目を白黒させている。
「マ、マティピの街へ?こんな、昼間からですか?ユノアはどうするんですか。髪の毛を隠したほうがいいのですか?」
ティサに言われて、ヒノトは言葉を詰まらせた。
「あ、ああ…。そうか。隠したほうがいいかな」
何も考えていなかった様子のヒノトに、ティサは呆れ顔だ。
「ヒノト様…。私達はもうユノアの容姿に慣れましたが、初めてみる人はさぞ驚くことでしょう。ユノアを守るためにも、十分注意しなければ。それが出来ないようなら、ユノアを街に行かせるわけにはいきませんよ」
ティサに怒られて、ヒノトはすっかりしょげている。
「そうだな…。ユノアの容姿など、俺はもう全く気にしていなかったから…」
「…まあ、いいでしょう。髪の毛さえ隠せば、他の子供と大きく違いはないのですから。ユノア、おいでなさい。支度をしましょう」
ティサに手を取られて去っていくユノアを見ながら、ヒノトは溜息をついた。
日に日に打ち解けてくれるユノアの可愛らしさを見ていると、つい浮かれてしまう。自分の行く所全てに、ユノアも連れて行きたくなる。いろんな経験をさせる度、きっとユノアの喜ぶ笑顔を見れるだろう。
そんなことばかりに気を取られて、本当に気をつけなければいけないことを失念していた。ティサに言われなければ、ユノアをどれ程傷つけてしまっただろうかと思う。
支度を終えて、ユノアが戻ってきた。頭に布を巻いてしっかりと髪の毛を隠し、その上から帽子を被っている。服装もまるで男の子のようだ。これなら、ユノアの人間離れした美貌は隠されて、街中でも目立つことはなさそうだ。
「ティサ。ありがとう。これなら大丈夫だろう」
「ええ、そうですね。でも、くれぐれも気をつけてくださいね」
「ああ、分かってる。さあ、ユノア。行くぞ!」
「はい!」
街へ出掛けると聞いて、ユノアはいかにもわくわくしているといった様子だ。
ヒノトは再びユノアを抱き上げた。ユノアを抱いて移動するのが、すっかり習慣になってしまったようだ。
部屋を出ると、ヒノトの世話をしている侍女達と出くわした。政務をこなしていると思っていたヒノトが、外出着で、しかもユノアを抱いているので、侍女達は皆、困惑そうな顔だ。
「あ、あら。ヒノト様。お出かけですの?」
「ああ。留守を頼むぞ」
ヒノトは快活な笑顔を侍女達に向けた。ユノアは、侍女達とは目を合わさず、気まずそうにしている。ティサ以外の侍女とは、ユノアは未だ言葉を交わしたことさえなかった。
ヒノトの後姿を見送りながら、侍女達は不満顔でお互いに顔を見合わせている。
ユノアの部屋の中に駆け込むと、中にいたティサに抗議の声をあげた。
「ティサ様!なんなんですか、あれは!」
「…何ですか、騒々しい」
「だって、ティサ様…!ヒノト様は最近おかしいですよ。いつだってユノアにつきっきりで…。それでもユノアがヒノト様の邪魔になる様子はなかったので、黙って見てましたけど、今日はまだヒノト様は、政務が終わられてないのではないですか?ヒノト様のお仕事の邪魔をするようなら、許せません!」
「落ち着きなさい…。今からマティピの街へ出かけられるそうだけど、ユノアがねだったことではないのですよ。ヒノト様が突然部屋に来て言い出されたのです。それに、ヒノト様はご自分の仕事をおろそかにするような方ではありません。きちんと政務を終えられた筈です」
侍女達は黙り込んでしまった。
「…確かにヒノト様は、ユノアをとても可愛がっています。それで、あなた達に声を掛けてくださる機会も減って、寂しく思っているのだろうけれど…。ヒノト様も、父上様であるハルゼ王を失ってから、ずっとお一人で寂しかった筈。それが、ユノアという、家族同様に大切に思える存在を見つけたのです。それをあなた達も歓迎してあげなければ。それに、ユノアはとてもいい子ですよ。今度話をしてみなさい」
侍女達は小さく「はい」と頷いた。
「…まだ仕事が残っているでしょう?仕事に戻りなさい」
ティサに促されてユノアの部屋を出た侍女達だったが、納得できていない様子で憤然としている。
「何よ!ティサ様までユノアの味方をしちゃって…。ユノアなんて可愛いだけで、他には何にも出来ない子じゃない!」
「…最初見たときは、銀色の髪の毛で、何て気味の悪い子だろうって思ったわ。まさかあんなに、ヒノト様が可愛がるなんで思わなかった…」
「…ティサ様、言ってたわね。ユノアと話をしてみなさいって。私達も、ユノアと仲良くしたほうがいいのかしら」
「え…。…私は嫌だわ。やっぱり私、あの子が怖いもの。一体何者なのか、ヒノト様もティサ様も、詳しく話してくれないし…」
「仲良くする必要なんてないわよ!ヒノト様にも、ティサ様にも大切にされて。もう十分じゃない!」
侍女達のおしゃべりは、延々と終わる気配はない。皆、憧れだったヒノトをユノアに取られたようで、悔しいのだ。
だが侍女達の中で一番若いミヨという侍女は、積極的にユノアの悪口を言おうとせず、黙って先輩侍女の話に耳を傾けていた。
ミヨはまだ十一歳になったばかりで、侍女の中でも一番の下っ端だった。王宮の中で、友達もいなかった。そんな時、歳の近いユノアが王宮に来たのだ。ミヨはずっとユノアに興味を持っていた。話をしたいと思ってはいるが、先輩達の手前、ユノアに近づけなかったのだ。
だがティサのお墨付きが出たのだ。ミヨの中で、ユノアと仲良くなりたいという想いが、むくむくと膨らみ始めていた。