第一章:ユノアの能力
暖かなワラで作った布団の中で、深い眠りの中にいたユノアは、隣で誰かが動いた気配を感じて、目を覚ました。それが、母であるカヤであることも分かっていた。
カヤは、目を覚ましてもすぐには布団から出ない。隣で眠るユノアの顔をじっと覗き込むのだ。ユノアがこの家に来て、四年が経つ。だが、ユノアに対する愛情は募るばかりだった。可愛らしい寝顔を見て、幸せな気分に浸る。そして、柔らかな頬に口付ける。それがカヤの日課だった。ユノアは寝たフリをしているが、実はこのカヤの日課を知っていて、たまに目を覚ましたときは、狸寝入りをして口付けを待っている。ユノアにとっても、最高に嬉しい瞬間だった。
カヤが布団から離れていく。まだ外は暗いが、朝食の支度を始めるのだろう。カヤが動いている物音を聞きながら、ユノアは幸せな気分のまま、再び眠りへと落ちていった。
「ユノア。ユノア、起きなさい」
自分を呼ぶダカンの声に、ユノアは目を覚ました。目の中に、眩しい光がなだれ込んでくる。ダカンはユノアを揺さぶった。
「ユノア。いつまで寝てるんだ」
ダカンはしつこくユノアを揺さぶるが、ユノアはなかなか起きようとしない。布団の中で、うーんと唸っている。
「…分かった。お父さんの言うことを聞かない悪い子には、こそぐりの刑だ!」
そう言うと、ダカンはユノアの脇や足をこそぐり始めた。ユノアは我慢できず、大笑いしながら布団をはねのけ、ダカンの手から逃れようと暴れている。
二人の騒ぎが、用意された朝食に近付いてきたのを見たカヤは、手を叩いた。
「はい!そこまでよ、二人とも。ユノア、早く起きて、服を着替えて来なさい」
カヤの発言に、ユノアもダカンも素直に従った。
朝食を終えると、一息つく間もなく、三人は畑へと向かった。
今の時期は、トマトやナス、キュウリといった夏野菜の収穫の真っ最中だ。
ユノアは自分の背丈よりも高く育った野菜の中を何度も往復しながら、カヤが摘み取った野菜を一つの場所に集めていく。
ダカンは、日照り続きで乾いた土に水分を与えてやるため、五百メートルも離れた川から水を運んでくる。その繰り返しだ。
四歳のユノアには、ずっしりと重い野菜を運ぶのも大変な重労働だ。だが、肩に食い込む水桶の重さに耐え、歯を食いしばっているダカンや、野菜を一つ一つ大切そうに積み通っているカヤを見ていると、とても辛いとは言えなかった。
早朝から日が落ちるまで仕事を続けても、家族三人が毎日食べる食料や衣類を手に入れるのもぎりぎりの生活だった。
それでも、農民にはそれが当たり前だと思われているような時代だった。
ユノアが野菜を運び終えて戻ってくると、カヤが作業を止めて近付いてきた。首にかけていたタオルを取って、ユノアの顔についた泥を拭った。
「ユノア、よく頑張ってくれたわね。疲れたでしょう。お昼ご飯にしましょうね」
ガジュの木の下に座って、おにぎりを頬張っていたユノアの目に、こちらへ近付いてくるダカンが映った。満面の笑みで手を振ると、ダカンも笑みを浮かべて手を降り返す。
「ユノア。いいもの食べてるな。美味いか?」
笑顔を見せてはいるが、隠し切れない疲れがダカンを覆っている。ダカンは倒れこむように、カヤの隣に腰を下ろした。
「あなた…。大丈夫?」
「ああ…。すまないが、タオルで肩を冷やしてくれないか?」
ダカンは水で濡らしたタオルをカヤに渡すと、服を脱いだ。ずっと水桶を担いでいたダカンの肩は、真っ赤に腫れあがっている。さすがにカヤも顔をしかめた。
「ひどいわ…。痛いでしょう?」
「ああ…。まあな」
ふうっと大きく溜息をついて、ダカンは空を仰いだ。
「今日は、風も吹かないな。せめて風が吹いてくれれば、元気もでるんだが…」
ユノアは、じっとダカンの横顔を見ていた。いつもユノアを笑わせてくれる陽気なダカンに、笑って欲しかった。
ユノアはガジュの木を見上げた。天に向かって青々とした葉を茂らせているガジュの木の葉も、今日は微動だにしない。
ガジュの木の幹に手を当てて、じっと木を見つめる。ダカンに笑って欲しい。その想いで、ユノアが無意識に取った行動だった。
ダカンとカヤもユノアの行動に気付き、あっけに取られてそれを見守った。
ガジュの木の葉が動き始めた。風はない。まるで木が意志を持って動いているようだった。
ユノアは瞬きさえせず木を見ている。その目はぼんやりとしていて、別次元を見ているようだった。
葉はさらに大きく動き始めた。
ダカン達の周りに、風が生まれた。火照ったダカンの身体を、涼やかな風が駆け抜けていく。
カヤがそっと立ち上がると、ユノアの肩に手をかけた。ユノアはびくりと身体を揺らした。抜け出していた魂が戻ってきたかのように、ユノアの瞳に光が戻ってくる。
ユノアはカヤを見上げると、無邪気に笑った。
「わあっ!風が吹いてるね。気持ちいいねぇ」
無邪気に喜ぶユノアを見て、ダカンとカヤは複雑な心境だった。この風はきっと、ユノアが呼んだのだろう。だがそれを、ユノアは全く自覚していないのだ。
ユノアは、自分達と同じ人間ではなく、特別な力を持っている。そのことを思い知らされる不思議な行動をユノアが取るのは、今日が初めてではなかった。
初めて、ユノアの人間離れした力を目撃したのは、ユノアがようやく這い這いを始めた頃のことだった。
ユノアと一緒に遊んでいたカヤは、まだ遊びたそうなユノアを残して、土間に下りた。
そこで用事を済ませていると、足元に突然ユノアがいたのだ。カヤは口から心臓が出そうなほどに驚いた。
何せ、ユノアがいた床上と土間とは、三十センチの段差があるのだ。小さなユノアに下りれる段差ではない。
カヤはもう一度ユノアを床上に置いた。そして自分は土間に立ち、見守った。
ユノアはカヤの側に行きたいようで、困った顔をしていた。すると、その身体が宙に浮いたのだ。ゆっくりと土間に下りたユノアは、這い這いをしてカヤの側にやってきた。
カヤは驚きのあまり、腰を抜かしてしまった。
夜になり、カヤからその話を聞いたダカンも、ユノアが人間ではないという決定的な事実に、考え込んだものだ。
無意識のうちに、ユノアは力を使ってしまう。用心して、他人にその姿を見せないようにしなければ。そう認識した夜だった。
だがユノアは大きくなり、こうして外でも力を使うようになってしまった。
(ユノアに真実を伝えなければならない)
それは、ダカンがずっと胸に抱いていた想いだった。
ユノアに、力を人前で使わないように自覚させるには、ユノアに全てを話さなければならない。ユノアが星空から降ってきたこと。ミモリから聞いた話。
だがそれを話すということは、ユノアに、自分達が本当の親ではないということを話すということだ。それを伝えるには、ユノアはあまりにも幼かった。
(まだ早い。その時まで、ユノアは俺達が守らなければ)
ダカンの肩を気遣って、カヤと一緒にタオルを当てているユノアの小さな手を感じながら、ダカンは思考を巡らせていた。