第二章:心を取り戻せ!
ヒノトが名を呼んでから、ティサ達侍女も、少女のことをユノアと呼ぶようになった。名を呼ばれるようになってから、ユノアは確実に変わった。
ティサが話しかけると、ティサを見るようになった。食事も自分で取るようになった。だが、言葉を発することはなかった。
ティサを見る目にも、常に怯えがあった。ティサは自分が動くたび、警戒してこちらを窺っているユノアの視線を感じた。
人が側にいないとき、ユノアは警戒の姿勢を解いた。その様子をそっと窺うと、そんな時のユノアの表情から読み取れるのは、悲しみだった。
今にも泣き出しそうなのに涙を流すわけではない。唇を噛み締め、じっと耐えているようだった。まるで自分には、泣く資格さえないのだとでも思っているかのように。
そんなユノアの姿は、時を止めていた頃よりも、見ていて辛いものだった。
ティサはヒノトから、ユノアに関する情報は全て聞かされていた。真実をユノアに問いたいという衝動に何度も襲われた。だが、沈んだユノアの表情を目の当たりにすると、言葉が出なくなってしまうのだ。
真実を知りたいというのは、興味本位からではない。ユノアを深い悲しみの底から引っ張り上げてやりたいからだ。
ユノアの笑顔はどんなものだろうと、ティサはよく想像した。きっと可愛らしいのだろうと思う。毎日世話をするうちに、ティサはすっかりユノアに情を移していた。何とかユノアに元気を取り戻して欲しかった。
だが、どうすればいいのか。何と言葉をかければいいのか。ティサにはよい案は浮かばなかった。
初めてユノアと名を呼んだあの日以来、部屋を訪れることのなかったヒノトが、久しぶりに姿を見せた。ヒノトの顔を見て、ティサは思わず安堵の息をついた。
「まあ、ヒノト様…。ようこそおいでくださいました」
「ティサ。どうだ?ユノアの様子は…」
「…もう私には、あの子にどう接してやればいいのか分かりません。側に人がいれば常に緊張し、それ以外の時は悲しみに沈んでいます。見ていて痛々しいのです。あの子の心が晴れる方法はないのでしょうか」
「そうか…」
ふとティサは、ヒノトが外出用の服装をしていることに気付いた。
「あら、ヒノト様。お出かけですか?」
「ああ。久しぶりに、馬で遠乗りをしてこようと思う。ユノアも連れていく。支度をしてくれ」
「は…?」
あまりに突然の提案に、ティサは目をまん丸にし、口をぽかんと開けて立ち尽くしてしまった。その顔を見て、ヒノトは噴き出し、大笑いし始めた。
「あっはっは。なんだ、ティサ。その顔は。小猿みたいだぞ」
「こ、小猿?」
腹を抱えて笑っているヒノトに、ティサは顔を真っ赤にした。ヒノトの笑い声で、淀んでいたティサの心の中のモヤが吹き飛ばされるようだった。
「まあ、失礼な。年上の者をからかうものではありませんよ、ヒノト様。そういうことはあらかじめおっしゃっておいてくださらないと。こちらにも準備があるのですから」
「ああ、そうだった。すまなかったな。俺もつい今しがた思い立ったんだ。すまないが、支度してくれるか」
「ええ、ええ。よろしいですよ。我が国王様のお言いつけでございますもの。ユノアも良い気分転換になるでしょう」
気取ってそう言ってはみたものの、ティサは内心ウキウキしていた。この数日間膠着していた状況が、ヒノトの出現で一気に動きそうな予感に、胸が躍った。
(やはりヒノト様は、大したお方だわ…)
そう感じずにはいられなかった。
ティサに連れられてきたユノアを見て、ヒノトは驚きの声をあげた。
「もう歩けるのか」
「ええ、このぐらいなら…。でもずっとベッドの上にいたのです。外に出るなど、久しぶりのことなのですから…。気をつけてあげてください」
「ああ、分かっている」
そう言うと、ヒノトは唐突にユノアをお姫様抱っこに抱え上げた。さすがのユノアも、驚きの表情を見せた。
ティサはあたふたした。
「ヒ、ヒノト様?」
「ティサが気をつけろと言ったんじゃないか。馬に乗せるまで、俺が連れていってやる」
「そ、それなら、私達が…」
「よい。では行ってくる」
気まぐれな風のように、ヒノトはあっという間に去っていった。残されたティサは、しばらく呆然としていたが、やがてふふっと笑った。
帰ってくるときには、きっとユノアに変化が見られるだろう。どんな風に変わるのか。それが楽しみだった。
王宮前の広場には、レダ、キベイ、オタジの三人が待ち構えていた。三人とも剣と弓を持った武装姿だ。
ヒノトの腕に抱えられて現れたユノアを見て、キベイとオタジは絶句している。目を覚ましているユノアを見るのは、二人は初めてのことだった。何者かが緻密に計算して創り上げたかのようなユノアの美貌に、言葉も出ない様子だ。
ヒノトはそんな二人にはお構いなしの様子で、さっさと馬に跨った。レダがユノアを抱え上げてヒノトに渡す。ユノアは何の抵抗もせず、静かにヒノトの前に座った。
何の表情も見せないユノアを見て、オタジがキベイに耳打ちした。
「まるで人形みたいな奴だな。だって、あんなに表情のない人間がいるか?」
「…。あの少女がどんな人物なのか、それはこれから分かることだ」
キベイはユノアに対する警戒心を全く緩めていなかった。ヒノトがユノアを大切そうに扱う素振りを目の当たりにしてから、その気持ちは一層高まっていた。
キベイはそっとレダを窺った。引退したと思っていたレダが、突然今日、ヒノトの遠乗りに付き合うと申し出てきたことには驚いた。
レダもユノアに並々ならぬ関心を寄せているのだろうが…。レダもユノアに負けず劣らずの無表情だ。その顔から、内心を窺うことは出来ない。
だがキベイにとってレダは心強い存在だった。長年宰相を務め上げてきたレダを心から尊敬していたし、正直キベイには、一人でユノアを見定める自身はなかった。レダがユノアをどう判断するのか。その意見をぜひ聞いてみたかった。
「さあ、出発しよう!」
ヒノトが声を上げ、馬を走らせ始めた。砂煙を上げながら、三人もその後に続く。
岩を削って造られた細い道を勢いよく駆け下り、青い門を抜けると、一気に視界が広がった。その先にマティピ市街が見えるが、ヒノトはそちらとは九十度違う方向に馬先を向けた。
その先には、高い山が見えていた。ジュセノス王国で最も高い山で、ザバダ山という。万年雪が積もっている頂上は、今は雲に隠れて見えない。
ヒノトははっと掛け声をかけると、更に馬の速度を上げ、ザバダ山に一直線に向かっていった。