第二章:こじ開けられた心
ユノアのいる部屋の前に着いたヒノトは、遠慮気味にドアをノックした。
「はい」
聞こえてきたのはティサの声だ。
「ティサ。俺だ」
「まあ、ヒノト様」
ぱたぱたと走ってくる足音がしたと思うと、すぐにドアが開いた。ティサの柔らかな笑顔が現れる。だが、ヒノトの後ろにいたレダの姿を認めて、ティサの顔に驚きが広がる。
「ま、まあ…!レダ様」
「久しぶりですな。ティサ侍女長」
「本当に…。一年以上、お会いしていないように思いますが…」
「私も最近はめっきり王宮に来る機会が減りましたからな。今日も一か月ぶりに所用で寄ったところ、ヒノト様に捕まったというわけです」
「まあまあ。左様でございましたか」
「俺はずっとレダに会いたくて探していたんだ。少女のことを相談したくてな。…あの子の様子はどうだ?」
すると、ティサの顔が曇った。
「相変わらず、と申し上げるしかありません。とにかくお入りください、ヒノト様。レダ様」
ティサに招かれて、二人は部屋の中へと入っていった。
窓は開け放たれ、太陽の光に溢れた室内に、レースのカーテンが風に揺られている。窓際に置かれたベッドの上に少女はいた。光の中で、少女の髪の毛は一層美しく輝いている。
あまりの眩しさに、ヒノトは目を細めた。この部屋の中だけ、まるで異次元だ。本当なら人間が立ち入ることの出来ない美しい世界に入り込んでしまったようだ。
だがその中心にいる少女の表情は暗い。少女の表情を見て、ヒノトははっと現実の世界に引き戻された。
ゆっくりと少女に近付き、その顔を覗き込む。だが少女の目がヒノトを映し出すことはない。視点は動かず、だが何を見ているわけでもない。悲しいのか、思い悩んでいるのか。いや、何も考えてはいないのだろう。少女の時の流れは止まっているのだ。
ヒノトはティサを振り向いた。
「食事は、きちんと摂っているのか?」
ティサは困った顔をした。
「一応、どろどろに煮込んだお粥を無理やり口に押し込んで食べさせてはいますが、お茶碗に半分も食べません。ヒノト様がここに連れて来られたときと比べると、五キロ以上は体重が落ちていると思いますよ。…このままでは、命も危うくなってしまいます」
ヒノトは唇を噛み締めた。絶対に少女を死なせたくないという強い想いが込み上げてくる。レダに視線を向けると、レダはヒノトに向かって強く頷いてみせた。
ヒノトは少女のすぐ隣に椅子を置き、腰を下ろした。深呼吸をして心を落ち着かせると、じっと少女を見据えた。
「ユノア…」
ヒノトがそう呼びかけた途端、今まで決して動くことのなかった少女の視線が揺らいだ。肩が微かに動いたことも、ヒノトは見逃さなかった。確かな手応えを感じて、ヒノトは言葉を続けた。
「ユノアと、お前のことを呼んでもいいんだよな?俺の名は、ヒノトという。ガジュの森で倒れていたお前を、俺が拾ってここに連れてきた。…ユノア。お前に聞きたいことが山ほどあるんだ。教えてくれないか。ディティ市長のハドクを殺したのは…。ディティ村で村人百人を虐殺したのは、…お前か?」
今度ははっきりと、ユノアの身体が動いた。びくんと身体を揺らしたかと思うと、ぶるぶると震え始めた。歯ががちがちと音を立てている。
今ユノアの頭の中では、何百という人間の顔が、フラッシュ映像のように現れては消えていった。ダカン、カヤ、そして、ザジやハドクなど、ユノアが殺したたくさんの人達…。
そのあまりの激しさに、ユノアは悲鳴をあげた。
「あ、ああ…!」
頭を押さえてベッドに倒れこんだユノアを見て、ヒノトは驚いて立ち上がったまま、動けなくなってしまった。
咄嗟にユノアに近寄ったのはティサだった。
「落ち着きなさい!大丈夫よ。ここには怖いことなんて何もないから!」
ベッドにあがり、ティサはユノアを抱き締めた。ティサの腕の中で、ユノアは振るえ続けている。あまりに悲壮な光景に、ヒノトは目をそらした。
「ヒノト様…」
ティサに声をかけられてそちらを見ると、ティサが目で訴えかけてきた。ここは私に任せて、今日はもう帰りなさいと言っている。ヒノトはティサに任せることにした。自分では今、ユノアを慰めることは出来ないだろうと思ったからだ。
部屋の外に出ると、ヒノトは深い溜息をついた。
「俺は、とんでもないことをしたのではないだろうか。少女の心をえぐるようなことを…。少女の心が傷ついたとしたら、俺のせいだ」
だが、レダはきっぱりと首を振った。
「あれでよいのです、ヒノト様。今まで止まっていた少女の時間が、ようやく動き出したのです。そして、少女がユノアで間違いないという重要な事実もはっきりしました」
「…ああ、そうだな。それにしても、やはり信じられない。あの子が大勢の人間を虐殺した犯人だとは…」
レダは答えなかった。何かを考えているようで、じっと宙を見つめている。
「ヒノト様。これからユノアに会うときは、なるべく私もお供させてください。ユノアのことを、私も詳しく知っておきたいのです」
「ああ、そうしよう。俺から頼みたいくらいだ」
ふとレダが考え込んだ。
「それにしても…。ユノア、か…」
「どうした?レダ」
「いえ、大したことではないのですが…。ユノアという響きを、どこかで耳にしたことがあるような気がして…。少し調べてみます」
そう言うと、レダはヒノトに一礼し、去っていった。
ヒノトは心配そうにユノアのいる部屋のドアを見つめていたが、思い直したように颯爽と歩き始めた。国王であるヒノトには、政務が毎日山のようにあるのだ。立ち止まっているわけにはいかなかった。