第二章:名臣レダ
王宮の中央に、屋根がなく空の見える空間がある。そこに水を引いて池を作り、蓮の花を浮かべ、涼しげに水を噴き出す小さな噴水も作られている。晴れの日にはこの空間から差し込んだ太陽の光が王宮に溢れて、働く人々に活気を与えていた。
その池を横断する通路を歩く一人の老人の姿を認めて、ヒノトも通路に降り立った。
「レダ!」
通路を走るヒノトを振り向くと、老人は立ち止まって振り返った。
短く切り揃えた白髪にはまだ艶があり、服の下から覗く腕や足にも、隆々とした筋肉が見て取れる。年齢はヒノトの父親といっていいくらいの年代だろうか。立っているだけで、見る者を圧倒する威厳がある。
「これは、ヒノト王。お久しぶりでございます」
ヒノトは、はにかみながらレダの前に立った。
「…お前に王と呼ばれるのは、気恥ずかしいな。まだまだ頼りにならない王だと、内心思っているのだろう?」
レダは深々と頭を下げた。
「とんでもございません。ヒノト王の政治手腕は聞き及んでおります。将来有望だと、王宮内でも評判でございますよ」
ヒノトは笑った。おだて上手なレダの言うことを真に受ける気はないが、それでもやはり嬉しかった。
通路の中心に置かれた椅子にレダを招き、二人は並んで座った。ヒノトはレダに語り掛けた。
「お前が私の宰相となってくれれば、もっと私の治世は安定するだろう。どうだ、レダ。考え直してくれないか。父上と同じように、お前のその優れた頭脳で私も支えてほしい」
だがレダは、ゆっくりと首を振った。
「ヒノト王…。前にも申しあげましたが、それはお断りいたします。先代王が亡くなってから、内乱が起き、ジュセノス国内は乱れに乱れました。それがあなた様の力によってようやく落ち着き、平穏な暮らしが戻ってきたのです。それなのに今更、先代王の宰相である私が表舞台に立っても、余計なやっかみを生むだけです。内乱を防げなかった私を、無能者だと憎む者も大勢おります」
だが、深刻そうな顔をしているレダとは対照的に、ヒノトは楽観的な声で答えた。
「そうか。お前のことだ。そう言うだろうと思っていた。ならば今は諦めよう。だが将来はきっと、力を貸してくれ」
レダは苦笑した。ヒノトの一番の魅力は、こんな前向きな考え方だ。国政には二度と携わらないと堅く決意した筈なのに、ヒノトと共に国を動かしたくなる衝動に駆られてしまう。
ふとヒノトが真顔になった。
「レダ…。今日お前をわざわざ呼び止めたのは、あることを相談したかったからなんだが…」
「はい。私でお役に立てることがありましたら、何なりと…」
「レダ、お前なら見たことがあるだろうか。銀色の髪をした人間を…」
さすがのレダも困惑げだ。
「銀色、と言われますと…。白髪ということでしょうか?」
「いや、違う。例えていうなら…。銀の食器があるだろう。あれが更に内側から光り輝いているような、そんな色だ。実際に見た者でなければ、あの美しさは分からないかもしれないが…」
「…。では私は、そのような人間は知りません。もちろん外国でもです。果たしてこの世に存在するのでしょうか」
「それが、いるんだ。しかもこの王宮の中に」
レダは更に眉をしかめた。
「俺が拾ってきた。ガジュの森を知っているか?あそこを通ったときに、全く偶然に一人の少女を見つけたんだ。…驚いたよ。こんなに美しいものがこの世に存在するのかと、自分の目を疑った。気付いたときには腕に抱えて、王宮へと馬を走らせていた」
ヒノトは言葉を切った。高ぶる感情に、言葉がついていかなかったのだ。ふうと大きく息を吐く。レダは黙って耳を傾けている。
「その時は本当に、何の考えもなく少女を連れてきた。だが、後でとんでもない事実が分かったんだ」
ヒノトはレダに、キベイが調べてきたディティ、ファドでの出来事を、全て話してやった。聞き終わると、途端にレダの表情が険しくなった。
「つまり…、ディティ市長を殺したのも、ファドの村人百人を殺したのも、その少女だと言われるのですか?」
「…そうだ」
「ヒノト様…。なぜそんな不吉な少女を王宮内に置かれるのです。これから安定した国政を行おうと思われているのなら、不安の種は排除すべきです。…少女の美しさに、心を奪われてしまったのですか?」
ヒノトはすぐに言葉を返せなかった。レダの真っ直ぐな視線が身体に突き刺さるようだ。自分の中でもまだ霧のような思いを、少しずつ言葉にしていく。
「…少女は、目を覚ましたんだが。まだ一言も言葉を話さない。目は虚ろで、ぼんやりと一点を見つめたまま、一日中ベッドの上でじっとしている。食事にも手をつけない。ティサが手を尽くして、何とか粥を食べさせてはいるようだが…。だから少女の口から、事件については何一つ聞けていないんだ。多くの者が殺されてしまった今となっては、事件の真相を知っているのはあの少女くらいしかいないだろう。…俺はどうしてもあの少女が、無慈悲に大勢の人間を殺すような凶悪な人物には見えないんだ」
ヒノトはレダを見た。
「どうしたら、少女の心を動かせるだろうか。あのままじゃあ、何も話を聞けないうちに、あの子は死んでしまう」
レダもじっとヒノトを見つめた。こんなにも不安に揺れるヒノトの目を見るのはいつぶりだろうか。ヒノトはいつも笑顔を絶やさず、前向きな姿勢で皆の前に立ち続けてきた。そうだ。ハルゼ王、ヒノトの父王が死んだとき以来ではないか。
そんなにも強く、銀色の髪の少女というのはヒノトの心を掴んでしまったのか。その事実に、ヒノト自身気付いているのだろうか。レダの心に暗い影がよぎった。
だが今は、ヒノトの望みを叶えてやりたかった。今までヒノトはジュセノス王国の治世の安定のために、奔走し続けてきた。そのとき何の力にもなれなかった罪に報いたかった。
「ヒノト様。私を少女に会わせてもらえませんか」
するとヒノトの顔が輝いた。
「あ、ああ!そうしてくれるか。さあ、こっちだ」
よほど途方にくれていたのだろう。ヒノトの足取りは、今にも踊りだしそうだ。暗い影は心から消えないが、レダはやはり嬉しかった。こんなにも自分を信頼してくれるヒノトの気持ちが、傷ついていたレダの自尊心を慰めてくれた。
並んで歩きながら、レダは自分の考えをヒノトに述べた。
「ヒノト様。少女の名前は、分かっているのですか?」
「ああ。恐らくだが、ユノアだと思う」
「それは少女の口から聞いたのではなく、キベイの調査で分かったことですね?」
「ああ、そうだ」
「では、ユノアと名を呼んでみてください。名乗ってもいない筈の自分の名を呼ばれれば、必ず心は動く筈です。それから、キベイの調査で分かったことを、全て少女に話してやるのです」
ヒノトは顔を曇らせた。
「しかし、それは…」
「ヒノト様は少女の気持ちを気遣って今まで何も尋ねなかったのでしょうが…。荒療治というのも一つの手段です。このままでは膠着した状態が続くだけでしょう。例え少女が狂ってしまおうとも、それで事態が動き出すなら、それでよいのです」
ヒノトは淡々と語るレダの横顔に、空恐ろしさを感じた。ジュセノス王国を長年に渡って支え続けてきた、宰相の顔が垣間見れた。