第一章:ミモリ仙人
仕事を一段落させ、昼飯を食べるために家へ戻ってきたダカンは、家の前に佇む一人の老人に気付いた。老人は食い入るように、家を見つめている。
その姿を見て、驚愕した。ダカン達も決して裕福とは言えない。擦り切れた衣服を更に縫い直して、繰り返し使っている。
だが、そんなダカンから見ても、その老人の衣服はひどかった。あちこちが破け、もはや裸も同然だ。しかも洗濯もろくにしていないらしく、離れた場所にいても異臭が漂ってくる。
顔はやせこけ、黒く日焼けした肌には深いしわが幾重にも広がっている。長く伸びた白髭は手入れなど全くしていないらしく、髪と同様にぼさぼさだ。
だが、その薄汚い老人から感じ取れるオーラに、ダカンは圧倒されていた。只者ではない、と、直感的に感じ取っていた。
ダカンが声をかけれずにいると、老人の方がダカンに気付いた。その鋭い眼光に、ダカンの本能が怯えた。
だが、老人が発した声は、拍子抜けするほどに飄々としたものだった。
「そなた、この家の住人かの?」
ダカンはほっとしつつ、頷いた。いつの間にか、背中には大量の汗が流れていた。
「そうか…。尋ねたいことがある。この家に最近、赤ん坊が来なかったか?」
ダカンの心臓が再び跳ね上がった。
老人は、ダカンの警戒心に気付いたらしい。ふっと表情を緩めた。皺の奥に隠れた瞳から、ダカンに対する労わりが滲み出ている。
「どうやら、心配をさせてしまったようじゃな。いやはや、名乗りもせず、不躾な質問をして悪かった。わしは、ミモリという。この世に生を受けて、千年ばかり時が経つ。わしのように、寿命の長い人間のことを、仙人と呼ぶ者もおるようじゃが」
「仙人様…」
そう言われて、この老人の異様なオーラも、全てを包み込むような温かい眼差しも、納得できた。
「どうじゃ。わしを信用してくれるかの?」
ダカンは頷いた。世の人々は仙人を、神のように敬い、尊敬していたからだ。
「ええ、仙人様。さあ、どうぞ。家の中へお入りください」
ダカンに案内されて、ミモリは家へと足を踏み入れた。
さて、驚いたのはカヤだ。見知らぬ、薄汚い老人が突然入ってきたかと思うと、脇目も振らずに、ぐっすりと眠っているユノアに近付いていった。そして、ユノアを抱き上げてしまったのだ。
悲鳴をあげ、ユノアを取り返そうとしたカヤの身体を、ダカンが押し留めた。
「大丈夫だ、カヤ。あの方は、ミモリという仙人様だ」
「せ、仙人様…?」
半信半疑のカヤを尻目に、ミモリはユノアを抱き締めて、その顔を覗き込んだ。
突然、眠っていたはずのユノアが目を開けた。ぱっちりと目を開けて、自分を覗き込むミモリを悠然と見つめ返した。それは赤ん坊とは思えない、強い意志を持った瞳だった。まるで、ミモリと何事か話をしているようにも見える。
ダカンとカヤは、息をつめて二人を見守った。
ふと、ユノアがミモリから目を逸らした。そして、大きく欠伸を一つすると、再び寝息を立てて寝てしまった。
ミモリは大きく息を吐くと、カヤに視線を移した。
「奥さん、申し訳なかったの。ほれ、赤ん坊はお前さんに返そう」
カヤはユノアを受け取ると、その安らかな寝顔を見て、へなへなとその場に座り込んでしまった。
ミモリはカヤの不安を感じて、にっこりと笑って見せた。
「すまんが、茶を一杯くれんか。少し疲れてしもうた。お前さん達も一緒にどうかのう」
「あ、ああ、はい。すぐに入れます」
カヤは腰が抜けたまま立てずにいるので、ダカンが湯を沸かし始めた。
三人は向かい合って座り、茶をすすった。
カヤが落ち着いてきたのを見計らって、ミモリがゆっくりと口を開いた。
「さて…」
ダカンとカヤは、身体を強張らせて、その言葉に耳を澄ませた。
「この子、ユノアと言ったか…。わしの探しておった赤ん坊じゃった。お前さん達も気付いておるじゃろうが、ユノアは、ただの赤ん坊ではない。大きな使命を抱えて、産まれてきたのじゃ。いや、正確にいえば、この地上に降りて来られたお方なのじゃ」
ミモリは茶を一口、口に含んだ。
「今から一ヶ月程前のことじゃ。わしは、山の頂上に立って、星空を見上げておった。その夜の星空は実に見事であった。美しかった」
ダカンとカヤは、ユノアを拾ったあの夜のことを思い出していた。
「その中で、一段と大きく、美しく輝いていた星があった。その星が、突如輝きを増した。そして、こちらへと近付いてきたのじゃ。わしは驚いた。長い寿命を生きてきたが、そんなことは初めてじゃった。わしは食い入るように星を見ておった。星はどんどん近付いてくる。そして遂にはわしの目の前を横切り、地上へと落ちてしまったのじゃ。だが、わしは見ていた。星が目の前を通っていくその瞬間、光の中に、赤ん坊がいたことをな」
ミモリは、ダカンとカヤをじっと見つめた。
「これからわしが話すことは、ほとんどの人間が知らぬことじゃ。だが、それをお前さん達は知らねばならない。お前さん達は、ユノアを拾い、育てる決意をした時点で、歴史を動かしていく歯車の一つになってしまったのじゃ。今更、嫌だということはできぬ。…いや、お前さん達は嫌だとは言わぬだろう。お前さん達にとってユノアは既に、かけがえのない存在になっているはずだからな」
カヤは腕の中のユノアを抱く手に力を込めた。
「星々は、常に地上に住む我々の上にあって、全てを見ている。人々が紡いでいく歴史を、じっと眺めているのじゃ。歴史には常に節目がある。今の世の仕組みががらりと変わる時がある。その時に、人々の導き手として、星が降りてくるのじゃ。人間の歴史とはつまり、星が導いてきた歴史と言えるじゃろう。役目を終えれば、星はまた空へと還る。そしてまた、地上を見守り続けるのじゃ。…分かるか?ユノアが、その星なのじゃ。ユノアが選ぶ道。それがすなわち、人間の進む道となる」
ミモリは言葉を止め、二人を見つめた。ダカンとカヤの顔は、真っ青になっている。ダカンは、唇を震わせながら尋ねた。
「…つまり、ユノアは、神なのですか?」
「…そうじゃな。分かりやすくいえば、そういうことだ」
「何故、神が、こんな…。…俺達のところへ来たんです」
ミモリはふぅっと溜息をついた。
「それについては、わしも考えていた。全くの偶然なのか、それとも、お前さん達は選ばれたのか」
ダカンは顔をあげ、声を張り上げた。
「選ばれたなんて…!そんな筈はありません。そんな、こんなことが起きるなんて…。そんな…。もし俺達に落ち度があって、世界が狂ってしまったら。…そんなことは、あり得るんでしょうか」
ダカンは混乱していた。カヤはただ、震えるだけだ。
ミモリは、ゆっくりと噛み締めるように言葉を紡いだ。
「それは全て、ユノアが決めていくことじゃ。お前さん達の育て方次第で、この世界の運命が左右されることは十分にあり得る。だからこそ、わしはお前さん達にお願いしたい。どうか、ユノアを愛してやってほしいんじゃ。その結果、ユノアにお前さん達を愛する心、つまり、人間を愛する心が育てば、この世界の人間にとって悪い道は選ばんじゃろう。…わしは、ユノアがお前さん達の元に来て、良かったと思っているのだ。お前さん達は、ユノアを育てるのに相応しい」
ダカンはカヤを見た。カヤも、すがるようにダカンを見つめると、ゆっくりと頷いた。その腕の中で、ユノアが眠っている。
ダカンは深呼吸をして、心を落ち着けた。
「ミモリ仙人…。では、俺達はただ、ユノアを愛し、大切に育てればいいと。それだけでいいのですね」
ミモリは何度も頷いた。
「そうじゃ、その通りじゃ」
「…では、あなたから聞かされた話は、無駄なものでした。俺はもうすでに、ユノアを愛しているから」
ミモリは声をたてて笑った。
「ああ、そうじゃな。すまなかった…。だがな、一つお節介をさせてくれんか。」
ミモリは懐から壷を取り出した。
「カヤ。ユノアをここに寝かせてくれんかの」
カヤは言われた通り、ミモリの前にユノアを寝かせた。
壷の中には真っ黒な染料が入っていて、ミモリはそれを手に擦り合わせると、ユノアの髪の毛に塗り始めた。
「せ、仙人様!な、何を…?」
「…ユノアが神だということは、お前さん達意外は知らないほうがいい。この髪の毛は、ユノアが成長するにつれ、銀色に輝き始めるじゃろう。神に相応しい、美しい髪の毛だが、それが、ユノアが人間ではないということを他人に強烈に印象づけてしまう。それを隠すために、こうして黒に染めてやるのじゃ。よいか。一日も欠かすでないぞ」
確かに、黒髪になったユノアからは、まばゆいばかりの可愛らしさが消え、人間に近付いたような気がした。
「ユノアは重い宿命を背負っておる。だが、この世界には他にも、歴史を動かしていく、選ばれし者がおるのじゃ。その者と出会えるまで、ユノアの秘密は決して知られてはならぬ。凡人には、ユノアの魅力は強すぎるのじゃ。ユノアを恐れ、自分の前から消えて欲しいと思う者。ユノアの美しさに心を奪われ、ユノアを我が物にしようとする者。恐らくこの二者に、真っ二つに別れることじゃろう。そのどちらも、ユノアには危険な存在じゃ。質素に、控えめに…。世間から隠れるように暮らすがよい」
「その、選ばれしお方、とやらに出会うには、どうしたら…」
「それは、お前さん達が気にすることではない。必ず出会いはやってくる。それは定められたことだからじゃ。お前さん達の為すべきことはただ一つ…。覚えておるな?」
ダカンは再びカヤを見つめた。カヤは、ダカンの手をぎゅっと握り締めた。
「ユノアを、我が子として愛し、育てます。」
ミモリは微笑んだ。ほっとしたような表情だった。
ダカンの家を立ち去るとき、ミモリはこう言い残した。
「不安に思うことがあれば、わしの名を呼べ。わしはいつもお前さん達の側で、ユノアを見守っている」
そう言われて、ダカンは心強かった。
「分かりました」
「では、さらばじゃ…」
ミモリは去っていった。その背中を見送りながら、ダカンの瞳は澄んでいた。疑問が解き明かされ、自分の為すべきことがはっきりとして、心はすっきりとしていた。